安吾、五たび(手抜きではない)。久しぶりに読み耽り、そうか、私が安吾を手放しで信じてしまう近しさの理由はこれなのかもしれないと思った。あるときは鳥になり魚になり獣になる。それは創造と創作の根源そのものではあるまいか。あるときはあの人になりその人になり、そして願わくば、貴方になる。
「何とでも言うがいいや。私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから」
安吾、四たび。安吾が肉欲という言葉を使うとき、私にはそれは字義通りの肉欲などではなく存在することの哀しみ、得ることのできぬ愛に対する諦め、永遠を希う心が満たされぬ虚無、そんな心のあらわれであると感じられる。恐らくそんなふうに自動的に安吾を読み替えては、愛してしまうのだろうと思う。
この安吾の短篇は「海」ではなく「私は貴方をだきしめていたい」という無言の願いのあらわれでもあろう。「私の孤独も、あの海の暗いうねりにまかれたい。あの波にうたれて、くぐりたいと思った。私は貴方をだきしめて、私の孤独が満たされてくれればよいと思った。私は私の小ささが悲しかった」、と。