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坂口安吾『私は海をだきしめていたい』読書会 (2023.7.14)

2023.7.14に行った坂口安吾『私は海をだきしめていたい』読書会の模様です。

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青空文庫  坂口安吾 『私は海をだきしめていたい』


朗読しました。


肉体の実存が物として生々しく溢れてしまっている

 

(引用はじめ)

 海岸へ散歩にでると、その日は物凄い荒れ海だった。女は跣足(はだし)になり、波のひくまを潜って貝殻をひろっている。女は大胆で敏活だった。波の呼吸をのみこんで、海を征服しているような奔放(ほんぽう)な動きであった。私はその新鮮さに目を打たれ、どこかで、時々、思いがけなく現われてくる見知らぬ姿態のあざやかさを貪(むさぼ)り眺めていたが、私はふと、大きな、身の丈の何倍もある波が起って、やにわに女の姿が呑みこまれ、消えてしまったのを見た。私はその瞬間、やにわに起った波が海をかくし、空の半分をかくしたような、暗い、大きなうねりを見た。私は思わず、心に叫びをあげた。

 (引用おわり)

 『実存(現実存在)は本質に先立つ』と言ったのはサルトルだった。これは、人間が生きる意味(本質)を与えられる前に、現実に存在してしまっているということである。つまり、存在してしまってから、生きる意味を探しているということをサルトルは言い出したのである。

『私は海を抱きしめていたい』は、『実存は本質に先立つ』を地でいく内容であった。

不感症の女と、その女の肉体に惹かれる男の実存を描いている。

 

人間がセックスするのは、生殖のためである。

ハンナ・アーレントが『人間の条件』の中で以下のようなことを述べていた。自然の過程は、円環過程を描き、その円環の中で人間は生誕と消滅を繰り返している。人間の生と死は日の出と日没のように、自然の円環過程に組み込まれている。

人間は、その円環過程に、自分の人生をうまくフィットさせたとき、自然と調和した安らぎを覚えるという。例えば、未開の部族の族長は、自然の円環過程に、自分が部族の生命の誕生と消滅がスッポリ嵌り込んでいると、死を恐れることなく安らかに老いて、この世を去っていく。(『人間の条件』 ちくま学芸文庫 P.164 参照)

未開の部族のようにに円環過程にすっぽりはまりこんでいた戦前までの日本との決別を、坂口安吾は、この小説で描いている。例えば、超国家主義(天皇主権の帝国主義)を支えていた家制度というのは、絶え間ない円環過程である。家族は絶え間なく再生産され、自然の中に家族を最小単位とした国家が、その人工的な構築物をすっぽり嵌め込んで、存続していた。

しかし、敗戦によって、その円環過程は終わりを告げた。

 

生と死の循環から逸脱した貞操を欠いた肉体、生殖を伴わない肉欲を持った肉体が、戦後の日本社会に存在する物体として現れた。「物そのもの」としての肉体である。嘘自体が真実よりも真実らしかったのは、戦前の日本であって、もっともらしい倫理や道徳で人間の生身に肉体を意味づけて、物としての肉体にヴェールを掛けていたのだが、戦後には、現実存在としての肉体が、嘘で覆い隠せないほど生々しく「物」として存在してしはじめた。(サルトルが『嘔吐』において、マロニエの木の根っこをみて吐き気をおぼえたのは、存在することの生々しさへの知覚過敏ゆえである)

 先程挙げたような、自然の過程と延長にすっぽる嵌め込まれた日本の戦前の国家観(天皇主権の帝国主義)を、日本人は、ポツダム宣言受諾によって否定した。戦後日本人の、現実存在(実存)は拠り所を失って、ただ存在してしまっているということの戸惑いの中に投げ出され、アパシー(無感動・無関心)に陥った。女の不感症は、このアパシー(無感動・無関心)の比喩である。

そして、女のいう、「路傍の人」とは、アパシー状態の人間を指している。

 

戦後日本人の魂は、どれも路傍の人のそれである。この作品の出発点は戦後の日本人のアパシーである。

 

そして、この作品のラストの「海をだきしめていたい」という言葉は、もう一度、日本人としての自分が、自然過程の中に戻り、アパシーを克服したい、という切ない願望である。しかし、現代人は海をだきしめることはできない。また、主人公が憧れるように、鳥になって空を駆け回ることもできない。

 

海にさらわれそうになる不感症の美しい体に、路傍の人として見とれながらも、そのアパシー状態を「ふるさと」=デフォルト(初期状態)として生きていかなければならないのである。

 

(引用はじめ)

 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい。あの波にうたれて、くぐりたいと思った。私は海をだきしめて、私の肉慾がみたされてくればよいと思った。私は肉慾の小ささが悲しかった。

 (引用おわり)

意味づけするのに先立って現実に存在しているものを抱きしめるためには、人間の欲望は小さすぎるのである。

だから、肉体の実存が物として生々しく溢れてしまっているのである。

 

(おわり)

読書会の模様です。


お志有難うございます。