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「私は海を抱きしめていたい」  坂口安吾    感想文

「白痴」という文庫本を読み始めて、到頭最後の一作品となった。

爽やかな題名から、いつもと違う内容であるのかと、しかし、やはり坂口安吾であった。

さらっと読むと、他の作品にもある何だか悍ましいような男女の関係が描かれているのだが、一つ一つ丁寧に読むと、視界が広がって行くような言葉の数々が姿を現し、坂口安吾の難解な本心が少しずつ見えてくるような気がした。

「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ」新潮文庫 「白痴」p.152

肉慾を抑えることもなく堕ちていくこと、低俗であることは自身も知っているが、悪魔と神様をも相手にするような覚悟がある。
なかなか複雑に入り組んでいる心の内。

救いようのない自分、肉慾を抑えきれない自分が求める相手は、その欲求に全く無感覚な不感症の女性である。

水のような冷たい人形のような無反応な姿態が、彼に「せつない悲しさ」と「清潔」と「孤独」を与えた。

一方的なその欲情に、答えることのない冷たい人形のような女性が彼の汚れた何かを洗い流してしまうような純然たる何かだったのはわかる気がした。

「女が物を言わない人形であればいいと考えた」p.160
応ずることのない影を抱いているような孤独を「私」は愛していた。

何となく気障であると感じたのは私だけであろうか。

そして女の姿態の美しさ、何の企みもなく気まぐれに優しい仕草、「貪欲を感じさせないアッサリとした食べ方」、女の中の一片(ひとひら)の純粋な魂を見たような思いが伝わって来たのだ。

一方、「私」は、つまり坂口安吾の実生活であるのだと思うのだが、染みついた淫蕩な生活の中にありながらも、彼自身にも、微かに、「清い魂」を感じるところがあった。そして彼はその清いものを求めているのだと感じた。

引用はじめ

「私は然し、歓喜仏のような肉慾の肉慾的な満足の姿に自分の生を託すだけの勇気がない。私は物その物であるような、動物的な真実の世界を信じることができないのである。肉慾の上にも、精神と交錯した虚妄の影に絢(いろ)どられていなければ私はそれを憎まずにいられない」p.164

引用終わり

「歓喜仏」、抱擁の像を初めて見て、とても驚いた。

難解な文章、「物その物であるような、」とは?
肉慾と精神が交錯することが偽りの影であったとしても、それがなければ、肉欲の満足だけには生きられないということなのだろうか。
この部分は、坂口安吾の至信に思えて、読み手にも救いになるような箇所であった。

「あらゆるものがタカの知れたもの」と、大したことはないことを知ってしまった人間が、「永遠の魂の孤独」を認め、虚しさを感じながら、幸福など希(ねが)わないと言いつつも幸福に拘っているような、愛を求めているような、そんな複雑な思いが感じ取れたのだ。

救いようのない自分が求める純粋な水のようなもの。
男女が共に「魂の浄化」を眺めやるような、その衝動が伝わってきた。

他の短編、どの作品にもその思いが根底にあるような気がした。

「満ちたることを影だにしない虚しさは、私の心をいつも洗ってくれるのだ」p.164

透明で純粋で水のようなものを抱きしめて、そして肉慾が満たされれば良いと。
「女の無感動な、ただ柔軟な肉体よりも、もっと無慈悲な、もっと無感動な肉体を見た。海という肉体だった」p.166

だから、「私は海を抱きしめていたい」ということなのだ。

わかったようなわからないような。


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