見出し画像

雑感記録(200)

【続・文学への熱情】


気が付けば雑感記録も200記事目に突入した。

だからと言って何かしらの感慨があるかと言われれば、実際そうでもない。僕は数字で書いている訳ではないので、どうでもいいと言えばどうでもいい。しかし、ここまで続けてこられたということを確認する指標としては参考に出来る部分は当然にある訳だ。

最近特にだが、「好きという気持ちだけではどうにもならない」ということを痛感する。書くことは好きだ。だから書き続ける。しかし、「好きという気持ち」のみでは自分の中で良い記録を書くことが出来ないと書いている度毎に思う。好きな事を続ける為には、時には自ら進んで嫌な事も経験しなければならないのではないか。そう感じる時がある。だが、それを出来ない自分が居る。難しい所である。

人間、嫌な事は避けたいものである。当然だ。誰だって嫌な事はやりたくない。例えば家事や、仕事や、面倒くさい人間関係…挙げればキリは無いのだが、そういう場面と向き合うことから僕は極端に避けてきたような気がする。特に小説という分野に関してはそうだ。最近の小説を僕は読まない。というよりも読む気になれないでいる。しかし、何かを語るということはそれ単体で語れる訳ではない。何かを語る際には自身の経験や他の人の思想やまた別の小説や哲学書などで得たことから組み合わせて導出したオリジナリティのある思想など、少なくともそういったことが必要になって来る。

あるいは分野を横断することだって重要である。小説を小説だけで語るというのは僕にとっては些か面白味に欠ける。例えば映画や音楽から小説を語ってみたり、あるいは逆も当然である。また自身の身近な経験から哲学、そして敷衍して小説を語るということは僕には耐えがたい程面白いのである。だが、それを自分が好きなある種、狭い領域で狭い領域を語ることは果たして如何なものなのだろうか?もしかしたら最近の小説、あるいはビジネス書、自己啓発書の中に接続できる何かがあって、そこから世界を見つめ直すことも可能なのではないか?


僕が雑感記録を書き始めて常に考えていること、これはまあ、僕なりの人生の課題がある。それは「文学は現在、必要か?」そして究極「文学とは何か?」という根本的な問いである。そこは書き始めた当初から意識していることではある。時たま、何を血迷ったか変なことを書いてしまうことも多かったのだけれども、それでも考える僕の基本軸には小説やエッセーや哲学など、文学が底にはある。

というよりも、僕の思考はそれでしか出来ない。

以前の記録でも引用したのだが、柄谷行人が言うことに共感(というと柄谷行人に申し訳ないのだが)したのはそういうこともあってのことなのだ。再度引用しよう。

言葉を洗練していくことと哲学をやることとは、同じことだと思うんだ。それなしに、不意に哲学があるわけがない。
 その成熟みたいな過程、その時間というのは、われわれにもある。しかし、われわれの場合にはもう少し複雑な、これはもう奈良時代から、ある複雑な環境に置かれている。しかし、そこでやることは、逆に言えば非常にやりがいがあることじゃないかと思う。だから言葉を成熟させていくという問題と、哲学をするということとは、同じことじゃないか。それは、切り離されるべき問題ではないと思うんです。
 これまで、哲学の人からそういう声がちっとも出てこないので、すごく不満だったんです。

柄谷行人・中村雄二郎「思想と文体」
『ダイアローグⅠ』(第三文明社 1987年)
P.102

僕はそもそも大学で文学に魅入られて、そこから虜になってしまった訳で、僕が考える手段というのはそこにしかない。文学を基準にしか物事を考えられないでいる。もはやそれが当たり前のように僕の中には存在している。しかし、それこそ昨日の散歩の記録ではないが、もし自身の中で確固たる文学という1つの中心が無くなってしまった時に僕はどうなってしまうのだろうか?僕の中で信用している文学というものに裏切られた時、果たして僕はどうなってしまうのだろうかと。

現状ではまだ文学部という場所があり、文学を学べる場所がある。また、こういったSNSで文学について書いてくださる方々も大勢いる訳だ。これは個人的には本当に有難いことだし、烏滸がましいことこの上ないがとにかく嬉しい。まだギリギリ文学というものが力を持っているのかなと思う。しかし、今後文学を学ばなくなる人が大勢になる可能性があるのではないか?所謂「日本近代文学」を学ぶ必要などなくなってしまって、結局現在の小説が研究対象となる。今後「日本近代文学」は淘汰されていくのではないかと僕は危機感を1人感じている。

そうして辿り着く先には「文学とは何か?」、いや「文学とは何だったのか?」という問いになって行くのではないだろうか。むしろこっちの方が正解的な問いなのかもしれない。「文学とは何か?」ではなく「文学とは何だったのか?」という過去形でしか語れ得なくなってくるのではないだろうか。僕は何よりそこに危機感を覚える。


現在、SNSで様々な方が本についてのあれこれを書いている。

しかし、そこで語られるのはビジネス書や自己啓発本、ハウツー本の類が多くて詰まらない。これは僕の好みも当然にあるだろうが、僕はこの現状に危機感を覚えている。これは文学や哲学云々の話ではない。根本的な問題として考えなければならないのではないかと僕には思えて仕方がない。

僕は常々、こういった投稿を矢面に挙げ物申している人間である。大事なことなのでもう1度書くが、別にそういった投稿があっても構わないが、そればかりが横行してしまうことに危機感を抱いている。だから僕は誰かに文句を言われても何度でも書き続ける。そんなものを読むぐらいならな小難しい小説や哲学と時間を掛けてでも向き合った方が有意義だと僕は断言する。最近の傾向として1つのことをじっくり考える、1つの作品に向き合うということが出来ない人間が増えていると思う。原因にはこれが大きく影響しているような気がしてならない。

現在ではとにかく時間ということが重視される。

これは過去の記録でも散々書いているが、読書にもそういうタイパが求められるようになってしまった。とにかく短時間で有意義な情報を得たい。短時間で教養を身に着けたい。現状の社会はそんな感じが僕にはする。そして何よりも「スキル」が重視される時代だ。自身がどう考え、何を思い、どう行動するかということよりも「スキル」に勝るものはないらしい。当然に「スキル」があることは重要だが、そもそもそんな一朝一夕で得られる「スキル」など諸刃の剣である。それを使いこなせる、自分自身で考え、「スキル」を活かして行動することで初めて意味を持つのではないか?その一朝一夕の「スキル」を獲得するために勉強する時間の方が勿体ない。

しばしば「時間がない」「時間がない」と声高に叫ばれている。何かをしたくても「時間がない」と、時間を理由にしている節がある。そこで注目するのは自分自身の時間の使い方の見直し、自分自身の時間の捉え方を見直すということではなく、短い時間でも出来る何かを我々人間は創出してしまったのだ。僕から言わせれば、それは本末転倒なことで、逆にそれが時間を無くさせているような気がしてならない。勿論、ブラック企業に勤めていらっしゃる方々は本当に時間がないし仕事で忙殺されているからそういったことは難しいだろう。そういう人たちは仕方がないし、僕が偉そうにこんなこと言えた義理など無いことは十分承知の上だ。しかし、「時間を掛けてでも現状を考える」ということは重要だろう。

じゃあ、何か物を考える時、ビジネス書や自己啓発本、ハウツー本を読んで得た知識だけで考えることは可能なのか?自身の人生を考えるうえで、そんな一朝一夕な教養で人生と向き合おうというのか?馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。たかだか物の数分で得た教養や知識で今後30,40年と続く人生にどうやって太刀打ちしようというのだろうか。


人間を支えているのは教養であり、教養の中核になるのは文学・哲学なのだ。

保坂和志「教養の力」『人生を感じる時間』
(草思社文庫2013年)P.211

とは言うものの、文学を学んでいない人にとって「じゃあ、何を読めばいいんだよ!」ということになる訳だ。インターネットで検索しても出てくるのは最近の小説ばかりであり、それはそれで構わない訳だが、古典を読むことだって大切である。古典というのはここではつまり「日本近代文学」のことを指す。古典を読むことの重要性については以前、イタロ・カルヴィーノを引き合いに出して書いたので、ぜひ読んで欲しいところではある。

僕は今、現在に於いて「文学」というものは存在していないと考える人間である。厳密に言えばこうだ。「社会を変え得るような力を持った小説」とでも言い換えしておこうか。僕は大学で「社会を変え得るような力を持った小説」を学んできた人間だから、そこが中心になってしまう訳だが、しかしそれにしてもそういう作品が、社会を震撼させるような小説というのは無いように思われて仕方がない。例えば『風流夢譚』のような…というと言い過ぎだが…。とにかくそういう作品が少なくなった気がする。

とにかく、今はそういった小説的強度を持った作品ではなくて、数や賞といったものに左右される、資本主義的な作品が横行している気がする。これはSNSの「いいね」も然りだが…。要は考えるというよりも娯楽的な方向に流れている。それに何よりも「何部発行されました」「〇〇賞を取りました」「〇〇いいね貰いました」ということが優先される社会に於いて、それが優位性を持っていること自体が僕は気に喰わない訳だ。そういう喧騒から離れるためにも、つまりコンスタントに考え続けたいからこそ僕は文学を必要としている。

些か話が脱線したが、現在SNSなどでビジネス書や自己啓発本、ハウツー本の紹介投稿が横行する中で、僕がそれを真っ向から否定し続けるのには先の保坂和志の引用によるところが大きい。このせわしない社会を強く強靭に生き抜くために今こそ文学や哲学が必要なのであり、常に考え続けることをするからこそ初めて教養が身に付く。そうして人生と向き合っていけるのではないか?

畢竟するに、人生と向き合うことは世界と向き合うことと同じではないだろうか。


はてさて、ここまで長ったらしく書いてきた訳だが、僕はこれからも文学について書き続ける。いや、書き続けることしか出来ないのである。それが身についてしまったからだ。こういう現状の中で僕は今一度「文学は今必要か?」「文学とは何か?」ということをこれからもずっと考え続けるだろう。何故なら僕にはそれしかないからだ。

ただ、僕が嫌悪している最近の小説にも果敢に挑戦しなければならない。ビジネス書や自己啓発本、ハウツー本に関しては論外だが。そういうものが横行し、一朝一夕で得られる教養なぞクソ喰らえである。だから僕はそういう現状と勝手に1人相撲し続ける。所詮、僕がこんなところで何を書いたって無意味だからだ。それに何を紹介しようが、何がその人にとっていい本だったかは人それぞれだからこんなところで僕がやいのやいの言ったところで、そういう人たちはこんな文章など読まないのだし、文学なるものを読めないのだから。

それに、まあ多様性があっていいんじゃない。

僕が勝手に1人相撲しているだけだから、面白おかしく馬鹿にしてもらえればそれで十分だ。そういう人たちには「馬鹿が何か言ってら」ぐらいに思ってもらえればそれで十分だ。馬鹿にしてもらって構わない。むしろ馬鹿にしてくれ。時代と逆行してるんだから。ま、馬鹿に出来るならの話だけど。僕は僕で勝手にやらせてもらう。ただ、そういう人たちがいる限り延々に書き続けるだろう。より良き世界と人生を過ごすために。だから文学や哲学について考え続ける。僕は真の教養(というものが存在するかは知ったことではないが)を身に着け、人生を豊かなものにする為に考え続ける。

ただそれだけのことさ。

一応の節目。大真面目に文学の未来について考えてみる。これからもどうぞよしなに。



この記事が参加している募集

スキしてみて

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?