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雑感記録(179)

【古典を読むということ】


最近、柄谷行人の本ばかり読んでいる。その中でわりと特異な本として挙げられるのがこの『必読書150』である。

2002年だから、かれこれ22年前に出版されている作品である。2002年だと僕は5歳である。幼稚園の年長組の時期に相当する。そう考えると何だか変な感じがするものだ。僕がよく読む本は基本的に僕が生まれる遥か前に発表された作品が多い。その作品との距離感とでも言うのだろうか。作品と僕との隔たりが大きい。しかし、僕が生きている間に、その当時の僕は知らないのは当然であるとしても、どことなく「この作品が発表されたとき僕は…」と自分に寄せて話すことが出来る。今後そういう作品が増えていくのだろう。

しばしば、「この作品には時代を超えた普遍性がある」というような文言を目にすることがある。僕個人としても時たま、昔の作品、例えばヴァレリーの『精神の危機』を読んだときには思わず感動したものだし、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』なんかも時代は違うし文化も違うけれども、そこに描かれる主人公のトニオに少なからず「うんうん」とうなずいてしまうものだ。しかし、これは「普遍性がある」とは異なるんじゃないかとも思ってみたりする。

「普遍性」という言葉は日本国語大辞典によると「すべてのものに通じる性質。また、広くすべての場合にあてはめることのできる性質。」という意味であるらしい。この僕がヴァレリーを読んで感動した部分や、『トニオ・クレーゲル』のトニオに「うんうん」と頷く箇所は果たして「すべてのものに通じる」のか?と言われるとそれは違うのではないか。そもそも、興味関心が無ければ彼らの文献にあたることは無いのだから、皆が皆読むわけではないし、皆が皆感じ方や考え方が同一的な人間ではない。

つまり、ここで僕が言いたいのは「この作品には時代を超えた普遍性がある」という言葉というか文章自体に間違えがあるということである。まず以て「普遍性」なるものは存在しない。それは読まれる人間の個人に帰結するからである。あまりにも個人的な経験に依拠しているからこそ、個々人によって考え方や感じ方が違うのであり、千差万別な読みがあるからこそ作品が「時代を超える」のであると僕には思われて仕方がない。どうだろうか。


ところで、僕は先に「この作品は2002年に出版された」と書いた。加えて、その当時僕は5歳であったとも書いた。22年前。僕はまだものを知らない幼稚園生だった。この時は一体どんな時代だったのだろうとふと思い、インターネットを駆使し調べてみることにした。

実は警視庁のサイトに纏まっている。これが結構厳密に纏まっていて凄く面白い。ぜひ興味がある人は少し覗いてみて貰うと良いだろう。世相とかヒット商品やヒット曲なども記述があるので簡易な情報だけ知りたい場合には有効なページであると言えるだろう。感謝。

見ていくと「ああ、あったあった!」とか、「微かだけど記憶にある」というものがあったりする。僕の場合は時事の社会問題というよりかは、文化的側面に於いて懐かしさを感じるものである。冷静に考えてみてそうである。無論、当時は子どもな訳でニュースなんか真面目に見ないし、遊ぶのが仕事みたいな感じがしていたから、ある意味で身近なのに無縁だった。

僕が個人的に「うわ、懐かしい!」と思ったことを書き出してみよう。

・アザラシの「タマちゃん」
・アイフルのCMに登場するチワワの「くぅ~ちゃん」
・平成ゴジラシリーズ『ゴジラ×メカゴジラ』公開
・平成仮面ライダーシリーズ『仮面ライダー龍騎』公開
・ウルトラマンシリーズ『ウルトラマンコスモス』公開
・ポケットモンスター『水の都の護神 ラティオスとラティアス』公開
・ガンダムシリーズ『機動戦士ガンダムSEED』公開
・ゲームボーイアドバンス『ポケットモンスター ルビー・サファイア』発売
・平井堅『大きな古時計』発売

何だかアニメが多くなってしまった気がするのだが、肌感として一緒に記憶に残っている作品たちである。つまりは、自分の実感としてテレビにかじりついて視聴していたあの光景も含めて覚えているということである。手触りのある記憶として僕の中に蓄積されているのである。

こうして書き出してみると、上記2つも含めてテレビっ子だったんだなということが改めて認識される。この当時は本などとは無縁の世界で生きてきたんだなと思う。しかし、そりゃそうだ。5歳でマルクス読んでいたらおかしくはないが確実に危険な香りがするし、「幼稚園などと言うところは結局のところ社会に出るための準備であり、フーコーが言うところの規律・訓練で…云々」とか語りだしたら…大人側からすれば堪ったものではないだろう。そんな幼少期を過ごさなくて良かったのかもしれない。


それで、話は最初に戻る訳だが、『必読書150』が出版されたのは2002年である。『必読書150』は簡単に言えば、ブックリストである。その当時の近畿大学の教授たち、柄谷行人を始め、絓秀実や浅田彰や渡部直己、作家の奥泉光や島田雅彦、岡崎乾二郎と言ったその界隈では名だたる人たちによるブックリストである。

実際、中身の作り自体はシンプルで、彼らの読むべき作品を列挙しそこに各々推薦した人たちがコメントを附していくという体裁を取っている。そういうこともあり、身構えずに読むことが出来る。というよりも、例えばページを適当に開いて、開いたページに書かれている作品を読むという使い方でも十分に愉しめるはずだ。

また、このコメントが非常に面白いのである。僕は前にも記録で少し触れたことがあるのだが、吉岡実の詩集にハマったきっかけは実はこの『必読書150』のお陰である。絓秀実が『吉岡実詩集』を紹介していたのだが、そこに「吉岡実を超える現代詩は未だ現れていない」というような文言が確かあったと記憶している。僕はそれがキッカケで吉岡実に興味を持ち、そして吉岡実に陶酔してしまったうちの1人の人間であるのだ。

本当ならば手元に『必読書150』を持って引用したいところではあるのだが、これは生憎実家に置いてきてしまったのでどう頑張っても手元にはない。こういう時、物凄くもどかしさを感じてしまうし、電子書籍の有難みとでも言えばいいのか。そういったことが痛感されるのである。

それはさておき、ここで紹介されている本の殆どが僕からするとやはり昔の作品が多い。初期ともなるとプラトンやホメロスまで遡るのだから、筆者たちからしても生まれる以前の作品が数多く並んでいる。しかし、ここで冷静に考えてみて欲しいのだが、昔の作品を紹介するよりもその当時つまりは2002年当時の本などを紹介した方が普通ならば良いのではないかと思うのである。そちらの方がより時代に合っているはずだし、『必読書150』を手に取る人の殆どが2002年を生きている青年や成人な訳であり、肌感を持って感じられるにはそちらの方が余程良い気がする。

僕は所謂「温故知新」を信じる質の人間なので、「そんなことは無い」と声を大にして言うけれども、それでも少なくとも昔の小説や詩や哲学などの本ばかりが羅列され、それに対して何も疑問に思わないというのも変な話だろう。

この問題は至る所で発生している。例えば僕らの一般的な次元で考えてみると、恐らく多くの人が誰しも通る道なのではないかなと思えて仕方がない。つまり、「何故我々は中学生、高校生と古典を学ばなければならないのか?」ということである。正直、別に古典を知らなくても現状生きていける。『枕草子』や『和泉式部日記』、『源氏物語』など知らなくても生きていけるし、『論語』『孟子』など学ばなくても生きていける。しかし、何故我々は古典を学ばなければならないのだろうか。


そこでヒントとするのが、イタロ・カルヴィーノが書く『なぜ古典を読むのか』というものである。これを参照しつつ、色々と書いていこうと思う。

先に少しイタロ・カルヴィーノについて触れておこう。カルヴィーノは1923年キューバに生まれる。2歳の時にイタリアに渡り逝去する1985年まで生活することとなる。彼の作品を僕は読んだことは無いが、調べるところによれば「文学の魔術師」と呼ばれているらしい。イタリアの国民的作家の1人であるそうな。

そんなカルヴィーノの書いた『なぜ古典を読むのか』である。翻訳が須賀敦子というのも個人的には中々アツイところではある。僕は須賀敦子を読んだことは無いが、挑戦しようと思い本だけは手元にあるので柄谷行人ブームの最中にでも少し箸休め的な感じで読んでみるのも良いのかもしれないなと思ってみたりする。

さて、そんなことはさておき、カルヴィーノのこの『なぜ古典を読むのか』では「古典」とは何かという形で、逐一定義をする形式で書かれている。ひとまずはその定義を書き出してみたいと思う。

1.古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。

2.古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ。

3.古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の壁のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。

4.古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見できる書物である。

5.古典とは、初めて読むときも、ほんとうは読み返しているのだ。

6.古典とはいつまでも意味の伝達を止めることがない本である。

7.古典とは、私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば、言葉づかいとか慣習のなかに)足跡をとどめている書物だ。

8.古典とは、その作品自体にたいする批評的言説というこまかいほこりをたてつづけるが、それをまた、しぜんに、たえず払いのける力をそなえた書物である。

9.古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分で読んでみると、あたらしい、予期しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である。

10.古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である。

11.「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。

12.古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが[古典の]系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。

13.時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。

14.もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ。

須賀敦子訳/イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」『なぜ古典を読むのか』
(みすず書房 1997年)

かなり長い形となってしまったが、実は文章量はさして多くなく物の数分で読めてしまう短い作品である。それでも密度は凄いものがある。

これらの定義を足掛かりに書いてみたい訳だが、この定義によると僕が最初に書いた「この作品には時代を超えた普遍性がある」という言説が間違えていると指摘したことが間違っていると分かるかもしれない。それは定義3によるものである。この定義3で言われていることは、読書というものは一種の教養としてあり、これから経験することの原型が存在する。あるいは考え方の枠組みや、その作中に於ける文化形態なども同時に存在する。

つまりは、作品そのものに時代を超えた普遍性があるのではなくて、作品に現れる文化的なあるいは社会的な側面、あるいは教養と呼ばれうる何かが時代を超えた普遍性を持っているのである。時代は変われども通底する文化感や社会観、教養、もっと言ってしまえば慣習。そういったものは確かに普遍性を持っているとは言えなくもないなと思われる。


僕が提起した疑問、「何故我々は中学生、高校生と古典を学ばなければならないのか?」に応え得る定義はどれか。正直、全てを読んだ僕からすると当然に「全てです」としか言いようがない。それはそれで何だか元も子もないので僕なりに少し纏めてみようと思う。

と思ったのだが、先に書いた定義3が正しくその答えなような気がしなくもない。僕のあの書き方だと分かりにくいことこの上ないので、カルヴィーノから拝借することにしよう。

 じっさい、若いときの読書は、忍耐が足りなかったり、気が散ったり、どう読めばいいかについての経験もなく、人生経験も浅かったりで、それほど実りのないこともある。また、ときには(同時に、と言いたいところだが)教養としての効能もある。というのも読書は、若者がやがて経験することどもの原型であったり、あるいは、それを入れる容器、比較の対象、分類の枠、価値を測定するもの、美のパラダイムなどであり得るという意味で。たとえ若いときに読んだ本そのものについては、ほとんど、またはぜんぜん覚えてないにしても、ずっとのあいだ私たちの役に立っているのだ。おとなになってからその本を読みなおしたとき、いつのまにか自分の内部のメカニズムみたいになってしまっていて、源泉がどこにあったかさえ忘れていたというような、いくつかの特徴に気づくことがある。そのままのかたちでは記憶に残らないで、種を蒔いていくのが、この種の作品のとくべつな力にほかならない。

須賀敦子訳/イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」『なぜ古典を読むのか』
(みすず書房 1997年)P.5

まず、教養としての効能という点。つまりは教科を越えた枠組みでの、人間形成での側面があるということ(拡大解釈しすぎか?)。それを形成するために重要であるということなのではないかという風に僕は感じたのである。確かに『論語』や『孟子』などは、そういった意味で読むには非常に意味があったと思われる。しかし、物語作品、先にも例で挙げたが『枕草子』や『和泉式部日記』や『源氏物語』、あるいは漢詩や和歌などを読むことは果たしてどうなのだろうか?

しかし、これは僕が先に稚拙な文章で少し書いたが、所謂「文化感」みたいなものを学ぶという点に於いては有用であると思われる。日本に固有の、それこそカルヴィーノも書いているが「集団に属する無意識」を看取するために有用である。例えば、僕等は皆が皆どう思うかは分からないが、春になると桜の花を目の前にして「花見」などをするだろう。だけれども、そもそも何故、「桜の花」で「花見」なのか?散る花びらを見て「美しい」と思うその心情の根源はどこから来ているのか。そういった土着の感性的な部分を学ぶためにも重要である。

そう考えると、古典を学ぶということは一種の国民教育な訳である。つまりは、自分がどこに所属しているのか、あるいはしていないのか。自分は何に美しさを感じ、喜びを感じるのか。そしてその根源は何処にあるのか。カッコつけて言うならば、古典を読むことは「自分探しの旅」であると僕はカルヴィーノを読んで感じた。

それでそれで、遠まわりに遠まわりを重ねて、最初の問題に立ち返ってみよう。『必読書150』に於いて古典が数多く紹介されているのは何故か?という問題である。


これはまず以て古典とされるものが持つ力、カルヴィーノの定義で行くと定義6、そして定義13と14が関わってくるのではないかと僕は勝手に思っている。勿論それ以外の定義による意義も当然にある訳なのだが、少なくとも選者たちは批評家あるいは小説家と呼ばれる人間であり、日々様々なことを考えている。

古典作品は常に意味の伝達を行なう。これは確かにそうだなと僕自身も思う。「今の時代に読むからこそ」と言ったような事態が起きることは往々にしてある。しかし、僕等一般的な読書人にはその意味の伝達をすべからく看取することは不可能である。それを現出させ新しいその時代にあった読みを展開させてくれるのが批評家であり、小説家であると考える。彼らはある意味で「古典の翻訳家」でもあると思う。

定義13と14についてはカルヴィーノの言葉を拝借しよう。

「もっと根本的なところでわれわれの時代を理解するのに役立つ本を読まないで、なぜ古典を読めというのか」そして「時事問題にかかわる印刷物がなだれのようにわれわれを圧し潰そうとするこの時代に、古典を読む時間や余裕はどこにあるのか」。
(中略)時事問題は月並みで不愉快なのかもしれないけれど、前に進むにしても、後に退くにしても、とにかく自分が「どこに」いてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。さもなくば、本自体も読者も、時間から外れた雲の中で暮らすことになるからだ。古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論じる読物を適宜に併せ読むことを知る人間だと私がいうのは、こういった理由からである。そのためには、かならずしも内面の静寂を前提としない。忍耐が足りなくていらいらしているときも、なにかが不満でうんざりしているときでも、古典は読める。

須賀敦子訳/イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」『なぜ古典を読むのか』
(みすず書房 1997年)P.11,12

僕の勝手な想像だけれども、彼らは「古典をもっとも有効に読む人間」なのだと思う。というよりも事実そうだ。彼らの論考には古典例えば夏目漱石や谷崎潤一郎、泉鏡花などの作品から始まり、それが敷衍して社会問題にもつながり得ることを語るのである。彼らは「古典」の重要性を知っているからこそ『必読書150』に古典を沢山盛り込んだのではないか。

つまり『必読書150』は僕等に向けられた、ある種の優しさなのである。

今、古典を読むことに意味がないと思っているが、実は違うと。カルヴィーノが短い文章ではあるが14つもの定義をするぐらいに重要なことであるということを教えてくれたと言うことなのかもしれない。柄谷行人は序文に「ここに紹介されてる本を読めなければサルである」と言ったことを書いている。こうまで書いても古典の重要性を説いている訳である。


さてさて、話が何だか変な方向へ行ってしまった。そろそろお終いにしよう。まず以てこの記録で伝えたかったことは、「古典を読むことってめっちゃ大事」と言うことである。

最近の小説を読むのを勿論大切ではあるかもしれないが、しかし古典が今もこうして時代を隔たっても読まれるということにはそれなりの意味や意義があるということなのである。その重要性を『必読書150』とカルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』という所から稚拙ながら色々と書かせてもらったという訳である。所々、全く以てトンチンカンなことを書いているが、まずはカルヴィーノを読んでみると良いだろう。こんな回りくどく書いてないから。

そういえば、カルヴィーノは最後にこんなことを書いていた。

私たちが古典を読むのは、それがなにかに「役立つから」ではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それを読まないより、読んだほうがいいから、だ。

須賀敦子訳/イタロ・カルヴィーノ
「なぜ古典を読むのか」『なぜ古典を読むのか』
(みすず書房 1997年)P.14

最終部にこれを持ってくるのはずるい!ずるいよ、カルヴィーノ!!

でも、実際問題これに尽きるのだと思う。

これからも僕は古典を読み続けたいと思ったし、初めて古典を読むことの意義みたいなのを肌感を持って感じられた。そんなくだらない話である。

よしなに。

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