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雑感記録(320)

【妙なる文章】


僕はお酒に酔うと変な本を買ってしまう傾向にある。

大抵、休日は暇を持て余しているので、読書か映画鑑賞か部屋掃除か散歩ぐらいしかすることが無い。だが好きなことであっても「それだけをやり続ける」というのは中々難しいものである。その中でも例えば、ずっと小説ではなくて途中に哲学書や漫画を挟んでみるとか、そういう事が僕にとっては必要である。過去の記録でも散々に書いているが、僕は殊、読書に関してはわりと飽き性である。

それで先週の土曜日、つまりは3連休の初日。朝5:00に目が覚めてしまったのでnoteをぶっ続けで集中して1本書いた後、そそくさと散歩に出かけることにした。その時の記録はこれである。3時間程度で書き上げてしまったものだから、あまり文章が乗っていない気もするが、正直、自分の中では書けたかなという方である。

身支度を整え散歩開始。それにしてもいい天気…と大声では言えない何とも微妙な天気である。まあ梅雨の時期だから仕方がないと半ば諦めて外に出る。暑い?温い?湿度高い?というような感じで、ちょっと歩くだけで背中にジワリと汗が吹き出し、Tシャツが貼り付く感覚。気持ちが悪い。この感覚はいつ何時であれ気持ちが悪い感触のものである。

僕はコンビニに直行し、大好きな男梅サワーのロング缶1本を購入し、お酒片手にジュンク堂へ向かうことにした。


とここまで書いておいて何だが、僕が実際書きたいことはこんな話ではない。購入して、いや厳密には酔った勢いで図らずも購入してしまった本についての話を書きたいのである。お酒の入った状態で本を買うと大抵、クソみたいなタイトルの本だったりとか、僕が毛嫌う自己啓発本の類も「これも後学だ!」とか何とか訳の分かんない理由をこじつけて購入してしまう。そして自宅に帰って読み、嫌悪感に浸っている。こういう自分にホトホト愛想が尽きてしまう訳だが、それはそれで愉しいこともある。

今回もタイトルや表紙の画を見たら一瞬「ん、え?」となるようなものを買ってしまった。自宅に帰った時、少し酔いから醒めていて「また詰まらぬ本を買ってしまった」と半ば五右衛門のようなセリフを呟いて渋々読み始める。だが!何と!今回は自分でも驚いた!「これは面白い本だ」という1冊に出会った訳だ。厳密に言うと、3冊購入して、1冊大当たり、1冊当たり、1冊大ハズレっていう感じだった。

偶然にも、その大当たりと大ハズレが結構なんていうのかな、同様の内容って訳じゃないけれども、どことなく似通っていると思ったのね。1つはブックリストというか、「20代の若い多感な女性に向けた」的な感じ。もう1つは様々な人の作品から「バズる文章」ってどんな感じなんだろうね?っていう感じのものである。いずれにしろ、共通しているのはとある作品がベースに存在するということである。

今回の記録はこの大当たりと大ハズレについて書きたい。

僕の過去の記録を読んでおられる方にはどちらがどっちか察しが付くだろうし、何より僕は既にほぼほぼ答えを書いているようなものである。僕にとっては『娼婦の本棚』が大当たりで、『バズる文章教室』が大ハズレである。まあ、後者は後で色々書くとして、本当にね『娼婦の本棚』結構面白かった。

酔った勢いというのは本当に怖いものである。冷静になって、言い方は些か悪いがタイトルに「娼婦」と付いていて、しかも表紙には妖艶な女性が(と思ったらモデルじゃなくて作者本人だったというのがまた驚きなんだけど…)ドドーンと映し出されている訳だ。これをね、少しの躊躇いもなくレジに持って行って、しかも、セルフレジがあるのに有人レジのところに並んじゃったりさ。僕はコンビニで初めてエロ本を買ったことを思い出した。

エロ本を買う時というのは中々緊張するものである。今ではもうコンビニでは買うことは叶わないが、あのドキドキ感は堪ったものではない。ちょっとしたスリルにも似たような、そしてどこか罪悪感を抱えながらレジに向かう。店員さんに訝しそうに見られながら、最後まで迎えるかどうかのあの瀬戸際の瞬間。あのハラハラ感が堪らない。今回もどこかそれと似たような感覚を持ちながらお会計をしてもらった。


 言語でしかものを考えることも思いのたけを表現することもできない凡人たちにとって、脳内で暴走するオリジナリティなんていうものは言葉の約束事の掌の上で暴れているに過ぎない、或いは言葉の性質がちょっとした気分を壮大な個性のように錯覚させるだけであって、若い自分が思うほど自分は大して自由な発想など持ち得ない。これはひょっとすると若者にとっては多少の落胆を持って受け止められることかもしれませんが、私はそう悲観することではないように思います。自分の没個性の発見は、他者の特別さの発見とセットになっているからです。なんだか自分は社会にすんなり馴染むタイプじゃないかもとか、私って個性的だからみんなとうまくやれないとか、こんな特別な感覚になるほど繊細な人間は世界で私だけかもとか、リア充なんてみんな爆発すればいいのにとか、若くて自意識過剰で友達付き合いがやや下手な人の脳内に必ず一度はよぎる甘い誘惑は大抵思い過ごしであって、多くがとるに足らない没個性的で平均的な人間なわけですが、そう思うに至る過程は、自分が特別な程度には一億人のそのへんの人たちも全員特別だという当然の敬意を獲得することでもあるのです。そう考えると何か特別な存在じゃなきゃと思って必死に唾液を売ったりセックスしたお金でおしゃれなホテルでアフタヌーンティーしたりしなくても心穏やかに過ごせるというものです。当然、自分が特別な人間であるという思い上がりの終わりは、優しさの獲得の始まりにもなります。

鈴木涼美「若い女の心はそう整うものじゃない」
『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ 2022年)P.183,184

この引用箇所は井上ひさしの『私家版 日本語文法』についての文章な訳だが、僕はとかくこういう書き方をされると弱い。過去の記録で何度も書いている訳だが、小説や哲学などは僕等の生活からあるいは世界から出発するものだと思っている。そして、言葉というのは常に僕等の周りに存在し、当たり前のように話をしている。こうしてこの筆者の生活あるいは世界をベースに本を語るということは面白い。

この筆者の凄く良いところは、自分がとんでもない経歴でここまで来ました!というような嫌らしさが全く以てなく、すんなり読める点にある。僕はここが素晴らしいなと感動したものである。とかく、他の人と比べて特殊な経験をしてきた人間というのはそれを特権化して、それを1つのネタとして書いてしまいがちである。「私は凄いんだぞ」という呪縛みたいなものが言葉の節々あるいは背後に隠れているものである。

特にそれが顕著なのは、個人的にアカデミックな文章がそんな印象を持つ。「私はこれを発見しました」「私はこのような考え方を編み出しました」ということを何物のユーモアも含めず、事実羅列的にそれら事象を配置して行く。僕はそういう文章が苦手である。実際僕も時たまそういう文章を書いてしまいがちではあるのだが、とにかくその嫌らしさの濃淡というのをどうにかしようという気が更々ないのには腹が立つものである。当然、そういう文章を書いてしまう自分にも。ユーモア欲しい!っていつも思う。

それで、この筆者は確かに所謂良い大学を出て、そんな中で風俗嬢だったりAV女優だったり、そういった場で活躍していたらしい。僕は1度もお世話になったことは無いのだが…。そんなことはともかく、その特殊性というのをゴリ押ししない感じが僕には堪らなく心地が良かったのである。所々にふと現れる感じが読み易かった。これがもしそういう部分を主題に置いていたのだとしたら、僕は読めなかっただろう。

この本で筆者は読んで欲しい対象をこう定義する。

 だからこの本は、これから身体を売ったり、嘘をついたり、悪い人に出会ったりするかもしれない、まさにアドレッセンスというものの中を突き進んでいく若いオンナノコたちに向けて書きました。

鈴木涼美「はじめに」『娼婦の本棚』
(中公新書ラクレ 2022年)P.17

僕はこう書かれていはするが、男性も全然読めるなとも思う。無論、想定して書かれているのはそういう「若いオンナノコたち」に対してな訳だが、僕は読んでみて誰でも読むに耐えうる本だなと思った。表紙に些かの抵抗も無ければ僕はむしろ男性にも読んで欲しいと思う。あまりこういう書き方は卑怯な気もするが、男性には分からない女性の感覚というか、そういったものが筆者のその時々に出会った本に沿って描かれるのが勉強になる。

僕は常々、最近の小説や批評あるいは哲学なんかでも、その門外漢の方が面白い文章を書けるということを感じている。それは僕が過去の記録で書いた通りで、そちらの方が「小説のお作法」みたいなものを知らないから、自由に書くことが出来る訳である。『阿部和重対談集』を読んで、「僕には小説が書けない」ということを痛感してしまった訳だが…。というより、僕はそこまで真面目にやって来たのかなと些か懐疑的になりつつある訳だが…。

そして1つヒシヒシと感じることは、別に文章の書き方など知らなくても良い文章は書けるということである。それはこれも前に記録で書いた訳だが、書くことと読むことは両輪である。文章力などと至極曖昧な言葉がうろついている訳だが、そんなものに踊らされている方が阿保くさい。そもそも「良い文章」ってなんだ?僕にはそう思えて仕方がない。

文章を書きたいと思う契機は、僕は個人的にだけれども読むことに比重があるような気がしている。あらゆる人の作品に触れ、あらゆる人の言葉や表現に触れる。そういう言葉に触れ続けると、言葉から触発されて「書きたい」となるのではないだろうか。僕は少なくともそうだった。これは過去の記録に書いている訳だが、「誰それのこういう文章みたいに書いてみたい」という気持ちが少なくとも湧くのではないだろうか。

だからこの『娼婦の本棚』を読んだ時に、どことなくそれを感じた。何だろう、凄く烏滸がましい言い方をするならば親近感みたいなものがあった。自分自身が読んだ作品が土台となって紡ぎ出される筆者の文章が僕には凄くよく分かった。上から目線で恐縮だが。そこが僕にとっての居心地の良さだったのかもしれない。読むことも書くこともその生活や世界の延長線上にあることを僕はこの作品を読みヒシヒシと感じた。

ところで、僕は筆者のことが気になったので調べてみて、Instagramを見付けたので覗いて見た。「若いな~」と思ってみていたが、確かに投稿がその名残というか、それを感じざるを得なかった。文章は好きになれたけれどもInstagramはどうも好きになれそうにない。ってどうでもいい話だ。

結構オススメできる作品である。


 でも、私がなによりも書き手に必要だと信じているのは、シンプルに「どうすれば読み手に楽しんでもらえるか?」という視点です。

三宅香帆「はじめに」『バズる文章教室』
(サンクチュアリ出版 2019年)P.11

あれれ…デジャビュ…?と僕は思った。それは過去に「面白い小説が書ければいいんです」と豪語した朝井リョウが眼に浮かぶ。まあ、勿論今回は『バズる文章教室』と銘打っている訳なのだから、これはこれでいいのかと思いつつも、やっぱり腹立たしい物言いだなと思う。というよりも、やっぱりこの手の系統の本には抵抗したいなと心から思う。

そもそも、この文章の前提としておかしいなと思うのは、読むことに優位性が置かれているという点にある。それって迎合しすぎじゃないのか。それに「読み手に楽しんでもらう」ってそりゃ読者を馬鹿にし過ぎやしていないか。「もらう」って何よ。読書っていうのは個人的にだけれども、書き手と読み手の協同作業な訳じゃない。まあ、これは保坂和志の受け売りだけど。それを一方的に「楽しんでもらう」っていうのは傲慢すぎやしないかと思うのだ。

でね、この「はじめに」を読んで僕は全く以て楽しめなかったのね。というか、先の『娼婦の本棚』でも触れたけど、あまりにも「私って凄いでしょ」感が半端なくてそれがまた腹立たしさを助長させる。人をイラつかせる文章を書けるのもまた才能であるなあと感心しながら僕は本を再びぶん投げた。

 はじめは、書店でアルバイトをしていたときにブログに書いた「おすすめ本の紹介記事」がバズりました。アクセスが集中してサーバーが落ち、最終的に「はてなブックマーク」で年間2位になりました。それから、私の記事のアクセス数はちょっとずつ伸び続け、今ではベストセラー作家さんや、紅白に出るようなミュージシャン、有名女優さんといった、"言葉のプロフェッショナル"の方々が、私の記事を読んでくださるようになりました。

三宅香帆「はじめに」『バズる文章教室』
(サンクチュアリ出版 2019年)P.9

これから書くことを妬み・僻みと捉えて貰っても構わない。ただ僕にとっては「アクセス数が集中してサーバーが落ち」って居る情報なの?とも思うし、これから「読み手に楽しんでもらえる」文章の書き方を指南して行こうとするのに、僕は全く以て愉しめないし、むしろ腹立たしさを覚えた。堂々とこれを書けることに僕はもはや尊敬するぐらいである。

というよりも、これもそもそも論。こんな文章を規定されるような文章を書いて、書き手自身が愉しめるのかと思った。当たり前だけどさ、書き手は同時に読み手でもある訳だ。だって自分の書いた文章を1番最初に読むのは書き手でしょう。その書き手、つまり書いている自分自身が愉しめるような文章でなければ意味ないのでは?と僕は思うのだけれども。

それで、僕はどんどん読み進めるんだけれども…どうも面白くない。

最初っからイライラしながら読んでいるから、そりゃ愉しめないのは当然だけれども、書いていることに僕は常に「?」が頭に浮かぶ。数々の作品について丁寧に(とは僕は思えなかったけど…まあいいや)検証するその姿勢には凄いもんだと思った。そこは純粋に凄い。だって僕には出来ないことだから。だが、書いてあることが小学生の教科書を読んでいるみたいだった。

どうでもいい話をしよう。僕は作家のことを「先生」と呼ぶ人が嫌いである。「漱石先生が…」とか「鷗外先生が…」とか、僕はどうもこういう言い方をする人の書く文章が好きになれない。例えば、実際に漱石の門下生で「先生」とつけるのならまだ分かる。だが、凄い作品を残しているから、尊敬しているから=先生と直結するその思考の短絡さに僕はほとほと嫌気がさす。お前がその作家の何を知って「先生」と呼ぶんじゃい。で、大抵そういう人と文体とか時代背景的な事を絡めて話をしたりすると通用しないのが殆どである。

この『バズる文章教室』に於いても作家の名前にご多聞に洩れず「先生」と付けてしまっている。別に誰がどの作家を崇拝しようが僕には全く以て関係ない訳だし、それはそれで良いとは思うが、それをドンと押し付けられるのはどうも苦手である。例えばこことか。

 はい出ました、世界的大作家・村上春樹先生!かの村上先生が言うなら間違いない…はず。文章にとって、リズムはすごーく大切なんですね。

三宅香帆「村上春樹の音感力」
『バズる文章教室』(サンクチュアリ出版 2019年)
P.61

僕は村上春樹の作品に対してさして興味も無いので、「ああそうなんだ」としか思えない訳だが、ちょっとこの書き方は…としか思えない。何度も書くようだが、誰だどの作家を信奉していようともそれは自由である。僕にだっている訳なのだから。だが、ここまであからさまに書かれてしまうと気分も萎えてしまう。というか、引用しているこっちが恥ずかしかった…。

 私は文章が好きです。書くのも好きですが、読むのはもっと好き。
 でもたまに、文章の"内容"よりも、文章の"外見"—それはつまり「テンポ」だったり「構成」だったり「つながり」のこと—の方が好きなのかもと思ったりもします。
 「どんなことが書かれていたか」よりも、「どんなふうに書かれていたか」のほうが、記憶に残っていることが多いから。

三宅香帆「あとがき」『バズる文章教室』
(サンクチュアリ出版 2019年)P.298

思わず「ええ!」と叫んでしまったことは言うまでもない。言ってしまえばこれは内容と形式の問題でもある訳だよね。これも書き手と読み手の関係と同様に考えているので「ふーん」という感じだった。僕は再びぶん投げた。恐らくだが、今後酒に酔ってもこの人の本は買うことはしないだろう。


もう本当にほとほと愛想が尽きたというか。

こういう書き方を規定するような本が売れているという現状に僕は哀しさというか、もはや憂いを覚える。ついにそこまで規定されなければならない時代になったかと本当に哀しくなるばかりである。文章が書けるようになる為には前提として、読むという行為が重要であると思っている。だからいきなり「書く」ことから始めようとして、しかも手っ取り早く得ようとするその短絡的思考に怒りを僕は覚える。

そして何度も書くようだが、「文芸評論家」と名乗っているからには、そういうことも考えて欲しいものである。安易にSNSでバズったからと言って勢いで書いてほしくないものである。「文芸評論家」が文芸の立ち位置を危うくしてどうするって本当に思う。本当に読むことが好きなのかさえも疑わしく思えてしまうような文章である。

谷川俊太郎の言葉をもう1回引用しよう。

 詩をつくるということは、個人的な情熱のはけ口ではない筈だ。それを一個の商品として考えていい程、詩は社会的なものである筈だ。ぼくらはいいたい放題をいえばいいのではない。ぼくらは常に自己への誠実と、社会への誠実との間で苦しまねばならないのだ。詩の技術の問題もそこにあるのではないだろうか。片手間に医者がつとまらないのと同じように、ぼくらは片手間に詩は書けない。詩人が職業として成立しない社会は勿論いけない。同時に詩人を職業と考えない詩人もいけないとぼくと思う。

谷川俊太郎「詩人とコスモス」『沈黙のまわり』
(講談社文芸文庫 2002年)P.17

この「詩」を「文芸評論」という言葉に置き換えてみて読んでみて欲しいものである。僕は「売れる」ことが偉いとは思わないが、しかし「売れる」からにはそれなりの大義などが生じる訳である。そういったことを真剣に考えてみて頂きたいものである。

よしなに。

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