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雑感記録(296)

【光明が差した瞬間】


この記録は昨日の散歩日記の続きである。

神田川沿いを歩きながら大学図書館へ向かう。久々に大学図書館に来るので少し緊張した。既に僕は大学を卒業して6年経つ訳で、喫煙所は何度も利用しているからあまり抵抗感はない。しかし、施設に入る、それも学生が使用するところを一緒に利用するのはどうも緊張する。別にこんな緊張などする必要は殊更ないのだけれども、学生に混ざって社会人が使用しているのは何だか気が引ける。何を今更…。

と煩悶としながら図書館のゲートを潜る。

僕は文学部だったので、文学部の図書館にはよく入り浸っていた訳だが、本部キャンパスの図書館は貴重な本を読むときぐらいでしか利用しなかった。だから地上階よりも地下階にはよく行っていた訳だ。地下階は結構厳密な感じで学生証などの提示をしないと入れない。僕は所謂、校友会のクレジットカードで入館している為、地下階に行くのは抵抗があった。地上階で本を探すことにした。

探すことにしたと書いた訳だが、僕は谷川俊太郎の詩を読みに来たのである。閲覧室に置かれたパソコンで「谷川俊太郎」と入力し検索する。流石、大学図書館と言ったところだろう。山のように検索結果が出て来る。絞り込みを使用しなかったので谷川俊太郎の詩集以外に、谷川俊太郎論みたいなものも多く散見される。そこから面白そうな詩集を数個ピックアップしたのだが、その殆どが地下階に存在しているらしい。おお…これは困った。

僕は諦めて地上階にある谷川俊太郎の詩集を読むことにした。


詩集が置いてある書架に着き、谷川俊太郎の詩集を探したのだが、しかし大抵僕が持っている詩集ばかり。そうか…と落胆しながら書架を眺める。やはりこういう沢山の本に囲まれている空間は落ち着くし、幸せだなと思う。色々な本が並び、「様々な人が書いているんだな」と他人事のように…というか、まあ実際に他人事なんだけれども、見て回る。

詩の書架から小説、全集が置いてある書架へと移動して行く。

全集が置いてある書架に来た時、ふと『萩原朔太郎全集』が目に入る。そこで「あ、萩原朔太郎の『純正詩論』読みたいな」と思った。何で『純正詩論』だったかは実際、自分でもよく分かっていない。単純にそれだけ名前を知っていたということなのかもしれない。いやいや、『詩の原理』とかも当然にある訳で、そっちを先に読むべきじゃないのかとも思いもしたが、それだけが先に頭に浮かんだ。

しかし、『純正詩論』が全集の何巻に収録されているのか分からないから1冊1冊出してパラパラ目次を見ながら該当巻を探す。僕はあまり萩原朔太郎の詩を通って来なかった人間であり、詩についてどれぐらい書いているか知らなかった。全集を眺めていると膨大な量の詩が散りばめられており、「萩原朔太郎ってめっちゃ詩を書いているんだな」と馬鹿丸出しでパラパラとページを捲る。そうして数冊捲った後、『純正詩論』の文字を見付け手に取る。

どうでもいい話だが、全集を読むことは面白い。

僕が所有しているのは『中野重治全集』と『戸坂潤全集』である。まだ『中野重治全集』については全てを蒐集しきれていない。現在進行形で蒐集している。全集の良いところは最初から最後まで作品の流れ、そして作者の思考の流れの変遷を線で確認できることにある。これが堪らなく面白い。特にプロレタリア文学の場合などは「転向」という問題があるから、そこを1つの分岐点として考えてみると面白い。

例えば、中野重治の場合、初期の『春さきの風』という作品について発表直後に雑誌で「いやあ、あの作品は党派性について書けていないから、良くない作品だな…」と言っている。ところが、晩年になり『春さきの風』について振り返った文章の中で「いやあ、あの作品は実によく書けた作品だったなあ…」と回顧しているのである。これを『春さきの風』という作品単体だけでどうして評価が変化したかを語ることは出来ない。そういう時に全集があると全体を通して見ることが出来て面白い。

だから、好きな作家で全集を出している人が居るのであれば、僕は全部集めた方が良いというタイプの人間である。読む読まないにしろ、集めて置いて損はないと僕は思っている。だが、そもそも小説を読むことの意味が希薄になっているこの時代に於いて、全集を集めること自体が「コレクター精神」みたいな、おたく的な「趣味」としてしか捉えられない。文学も今ではそこまでのものでしかなくなった。


『萩原朔太郎全集』を1冊脇に抱えて、再び書架を見て回る。

やはり、こうして好きなものに囲まれている空間は幸せである。種々雑多に並ぶ本を眺めて「あ!この人の本があるんだ!」とか「あ!これ、読みたかった作品だ!」とか様々な誘惑が僕を誘惑する。その中で1冊、「これは!」というものがあった。以前に友人から「面白いから読んでみ」と言われていたが手にすることは無かった作品である。僕はその1冊を手に取る。

僕はそそくさと席を見付けて座る。

最初に萩原朔太郎の『純正詩論』を読み始めるのだが、どうも『わかりやすさの罪』が気になって仕方がない。どちらか言うと、萩原朔太郎よりも武田砂鉄の方が読みたい。結局、集中することが出来なくなってしまって、『分かりやすさの罪』を読み始めることにしたのだが、これが…また…最高だった。その場でその本を読んでいるのにAmazonで注文するぐらいに滅茶苦茶に最高だった。

 個人に向けられる定番の低評価として、「何を考えているかわからない人」というものがあるが、「何を考えているかわかっている人」なんて面白くないでしょう、といつも思う。何を考えているかわからないからこそ、今、何を考えているのかと尋ねたくなる。こんなことを考えているんだよ、という意見を聞き取り、それが自分の意見と異なっていれば、話し合って歩み寄ったり、結果的に突き放したりする。それが人間という営みの基本形だと思っているのだが、昨今、どうにも相手と同じであることを「正解」と規定されることが増え、なおかつ、そこにたどり着くまでのスピードが速ければ速いほど優れている、と思い込まされるようになった。

武田砂鉄「はじめに」『分かりやすさの罪』
(朝日新聞出版 2024年)P.7

本作の書き出しである。僕はこの最初で心をがっしり掴まれた。あんまりこういうことを書くのは自分の中で憚られるのだが、激しく同意してしまった。「この感覚、物凄く分かる!」と感動した。これは確実に面白いなと感じ、久々に高揚感が僕を襲う。ワクワクする感じ。勿論、好きな本を読むのはワクワクする訳だが、最初からここまで引き込ませてくれる本に久々に出会った。

それで読み進めるごとに、「そうそう!そうなの!」とか「いや、本当にそうなんだよね!」ということばかりだった。詰まるところ、僕がモヤモヤしていた部分で言語化が出来ていないことに関して悉く提示されているのである。本当に僕は感動した。僕は読みながら思わず笑みがこぼれる。そして自分自身を戒める。「どうして友人が勧めてくれたのにすぐに手に取らなかったのか!馬鹿め、自分!」と。

正直、全部の章がどれも僕にとっては共感の渦というか、「そう!そうなんだよ!」ということばかりだった。特にこの部分には感動したものである。

 前章で、わからないことを残す、わからないことを認めることが、他者の想像や放任や寛容の条件となると書いたけれど、言葉を「溢れてくる思い」で査定し、言葉にできないのは、考えていないからだとする考えを簡単には認めたくない。「『言葉は常に、伝えるべき相手に、伝えるべき内容を理解してもらう』必要がある」との見解も受け付けにくい。
 思考を削ぎ落として、誰かに伝わる言葉に加工する技術が巧みなことは認める。でも、サンドウィッチを作るために切り取られた食パンの耳だってパンだ。バターと砂糖で揚げればすこぶる美味しい。言葉が加工される時に言葉を削ぎ落とす。あるいは、言葉に到達しない感情を削ぎ落とす。その廃棄を繰り返すのが、「言葉を鍛える新ルール!」(『「言葉にできる」は武器になる。』カバーコメントより)だとするならば、私は、自分の頭の中を守るために、その新ルールを遠ざけたい。

武田砂鉄「言葉に出来ない」
『分かりやすさの罪』(朝日新聞社 2024年)
P.37

しばしば「言葉にしなきゃ分からないから」と恋人や家族との喧嘩で紋切型のフレーズとして聞かれるセリフである。あるいは「愛」を確かめる場合とか、そういう時にもこの手のフレーズは使われる。しかし、僕はいつもこの手のセリフを言われると「いや、言葉に出来ない感情だってあるんだよ!」とキレそうになる。そしてそれは同時に頭の中や心の中は言葉の渦でグチャグチャになっているのである。

前提として、人のことを100%理解できるなんてのは無謀な考えだ。それが友人だろうが恋人だろうが家族だろうが会社だろうが。言葉にすれば何でも理解できるというのは人間の傲慢なのではないかと思えて仕方がない。それに僕から言わせれば「言葉にしなきゃ分からないから」言葉にして、その言葉で安心できてしまえることの方が恐ろしい。言葉で安心感を覚えるというのは僕も経験上ある訳だが、言葉はそこまで立派に出来ているものではない。もし言葉で全てが分かってしまえるのならば、ボディランゲージやスキンシップなど不要なのだ。

こういう言葉に出来ない余白みたいなものがあるから芸術などが成り立つと僕は思っている。例えば、その言葉に出来ない思考をバルトの表現するような「母親のまわりで遊ぶ子供」のようにして言葉を紡いでいけば小説や随筆、そして哲学になっていくのだろう。あるいはそれを人間の全身を使って表現すれば演劇や映画になるだろう。あるいはそれを絵具を使用したり、あらゆるものを利用してインスタレーションを作成すれば美術の領域になるだろう。その思考の全てを表現できないから芸術が存在する。僕はこの文章を読んで改めて気付かされる。

そして、もう1つ。これも引用したい。

 感情を規定するな。要請するな。こういうものに慣れてはいけない。やりとりに不自由が生じている状態を当たり前にすれば、コミュニケーションも言葉も活性化する。「言葉美人こそスター」になれるようではいけない。そもそも、言葉に美人も不美人もない。「言葉美人」と規定する人がいたとして、その規定から漏れる言葉や言葉遣いを「不美人」と処理する人がいるならば、その行為こそ絶対的に、言葉不美人である。4回泣けますと言われて、4回泣いているようではいけない。何度だって抗いたい。

武田砂鉄「4回泣けます」
『わかりやすさの罪』(朝日新聞社 2024年)
P.198

これは僕も前々から疑問視していたことについて書かれている文章である。それは「泣ける映画」というフレーズである。僕はかなり前にこれについていちゃもんを付けたことがある。「泣ける映画ってなんだよ!」と。ただ、僕の場合は「感動することが涙を流すことに直結すること」というものが気に喰わなかった。「泣ける映画」は本当の意味で感動したことになるのかということを延々と書いた。別のベクトルで僕は「泣ける映画」というそのフレーズに対して否定した。

しばしば小説でも、そして映画は特にだけれども「泣ける映画」「泣ける小説」として帯やフライヤーに大々的に書かれていることがある。そして、それが売りにされる。僕は大学生の頃から嫌いだった。というよりも、最近の小説は特に帯が大嫌いだ。これは未だに覚えているのだが、大学2年生の時に新潮文庫版の『杳子・妻隠』を購入したが、そこにあった帯に「ピースの又吉大絶賛」みたいな内容のことが書かれており、げんなりしたことがある。別にピースの又吉が大絶賛しているからこの作品が凄い訳ではない。この作品はこの作品自体で素晴らしいものである。

また、著名人の推薦文が帯に書かれていることが多い。それはそれで構わない訳だが、しかし読む気がそがれる。僕がひねくれているからかもしれないが、帯に後押しされないと読まれない程度の小説なんだなとしか思えない。とにかく「売りたい」という魂胆が見え見えで逆に萎えてしまう。だから僕はシンプルな帯が好きだ。「有名人の誰それが帯でオススメしていたから面白いはずだ」と勘違いし、自分の素直な思考を排除して「いや、面白いんだ」と自分に言い聞かせてしまって自由な読みを阻害しているような気がしてならない。

それで、特に「泣ける小説」「泣ける映画」というのはそういう意味で本当に卑怯だと思う。小説を読んで、映画を見て、そういう方向に仕向けられている気がして腹立たしい。無論、それで泣きたいのなら泣けばいいと思う。そして泣いている時は自分の意志で泣いていると思うのも自由である。だが、少なくとも帯やフライヤーに「泣ける」と書かれている以上、それに無意識的に誘導されている可能性があることには注意しなければならないのである。

そんなことはさておき、この最初の叫びにも似た「感情を規定するな。要請するな。こういうものに慣れてはいけない。」という言葉に心打たれた訳である。


それで、僕はこれを読んでやはり自己啓発本がやはり危険であるということを更に身に染みて感じたのである。

最初の引用も実際『「言葉にできる」は武器になる。』という本を引き合いに出して述べていたが、僕からするとこういう類の自己啓発本は世の中に沢山散りばめられている。この自己啓発本、ビジネス書は言葉が1つのテーマ的な部分もある訳だが、こういう言葉系の自己啓発本はやはり至る所で散見される。例えば、僕が以前にマッチングアプリの人にオススメされて読んだ自己啓発本は最悪だった。勿論、オススメしてくれた人には口が裂けてもそんなことは言えないが、しかし、それにしても酷かった。

これなんだが。

神トークと題している時点でもはや寒々しいことこの上ないのだが、読んでみると更に寒々しいことこの上ない。最初の章が「科学的に「人の心を動かす」絶対条件」でと書いておきながら、読んでみると「?」という感じで、些かも科学的ではない。僕はエビデンス主義的な作品は好きではないが、しかしここまでエビデンスが無いのは逆に驚く。

第2章の部分で僕は1番気に喰わないなと思ったことを以下に引用してみよう。

では、意見が違うのに、どう同調すればいいのか?
それは、相手の意見に賛成とか反対ではなく、単純に相手に対して「あなたがそう思っているということを理解しました」と表現すればいいのです。

星渉「異なる意見の相手とも同調できる魔法の言葉」
『神トーーク 「伝え方しだい」で人生は思い通り』
(KADOKAWA 2019年)
Kindle版P.70

僕からすれば、意見が違うのに同調する方がおかしい。意見が違うことを素直に言えないその場にこそ問題があるのではないか。それを個人の問題としてしまっている所が僕には理解しにくい。というより理解したくない。これが例えば、「どういう場にすればいいのか」という解決策を提示してくれるならまだしも、「どう同調すればいいのか」ときたものだ。これではただおもねっている(?)だけではないのか。迎合している感じがして腹立たしい。

何より腹立たしいのは、これ言われている側の気持ちを想像できていないことにある。逆に相手を苛立たせてしまう様な気がしてならない。相手を逆なでするだけではないのか。それに「理解しました」ってなんだよ。先にも書いた訳だが、人間は人間のことを100%理解することは出来ない。それなのに安易に「理解しました」と言えるのは怖い。無論、その場でその状況に於いて「理解しました」ということはあるかもしれないが、しかし、そもそも意見が異なっているのに無理やり理解しようとしている方が不健康的だと思う。

というか、そもそも傷つくことでコミュニケーションというか、それがより深い所まで行くのではないのか。当たり前だが、仲がどれだけ良い相手でも些細な言葉でモヤモヤすることも当然あるし、苛立つこともあるだろうし、哀しくなることもあるし、悔しいと思うことだってある。でも、そこからがコミュニケーションの始まりではないのか。その後をどう向き合っていくかで「人生は思い通り」に進んで行く可能性があるんじゃないのか。

とかく、この本は全体を通して「如何にしてコミュニケーションで傷つかないか」という逃げに走っている気がする。そもそもコミュニケーションは当たり前だが相手が居て初めて成立する。どれだけ気を付けていたって相手を傷つけることだってある。それがもしかしたら話し方ではなく、聞く姿勢にあるかもしれない、生理的に話の仕方が無理とか様々に要因はある訳だ。それを「話し方」という1点のみで回避しようとすることに問題があると思う。

コミュニケーションというより、言葉の交換というのは「命がけの飛躍」である。理解されないという前提がある中で、如何にしてお互いがお互いに「命がけの飛躍」をしていく中で組み立てていくかが重要であると思う訳だ。先の引用で言えば、例えば「思ったことを素直に言える場をどう作る」とか「そもそも二項対立でしかない世界の隙間をどう作る」とか、そちらの方向に舵を切らず短絡的に言葉に走っている感が否めない訳で、僕はそれがどうも納得いかない。

そして何より、この本では「人を動かす」というワードが至る所で散見される。僕はどうもこれが解せない。「人を動かす」というのはこの言葉自体で上のものが下のものを動かすという含みを孕む。この自己啓発書という媒体も相まって。この傲慢さが僕は気に喰わない。と言うよりも、その人としっかり向き合うことから逃げているだけではないのかと思えて仕方がない。「人を動かす」なら新興宗教でも作って教祖にでもなればいい。そっちの方が断然人は動くと思うけれども。

これを読んで実践される方が僕は怖い。言葉について考える機会を捨てている。やはり、この手の本の類は自分自身で獲得するプロセスよりも、手っ取り早く如何に早くそれを獲得できるかが重視される。自分で考えて傷つけ合いながら模索していくことが本当のコミュニケーションなのではないのか。それを手放しに「こうすれば円滑に進む」と示されて、それこそコントロールされるみたいで気持ちが悪い。なに、人類画一化計画でもしたいの?と思ってしまう。

何度も言うようだが、目下僕の敵は自己啓発本の類だ。

1番まずい状況なのは、さらにこういった自己啓発本の類を要約してSNSに投稿したり、読んだ方が良いぞと声高に叫んでいることだと思っている。別に何を好きでいようが、何に価値を見い出そうが僕の知ったことではない。しかし、黙って見ていられない。人間の人間たる所以みたいなものを奪っていくようなものを称賛するような事態を黙っては見ていられない。特にプロセスを奪われることが僕には許せない。「結果主義」の世の中で、そこに至るまでのプロセスが僕は肝心だと思うし、人間性が出ると思っている。

読書が唯一救える部分を手放すように仕向ける読書を奨励している自己啓発本という存在自体が僕は危険だと思っている。別に読むことは否定しない。何度も何度も、くどい程書くが、誰が何を読もうと僕がやいのやいの言う資格は1ミリもない。だが、それを奨励するような場はやはり危険である。そして何より、こういうことを書いているのにも関わらず、そういう系統の人々から時たま来る「いいね」と言うのは本当に心の底から意味不明である。彼らは一体何がしたいのだろう。

笑止千万。


さてさて、話は大分飛んでしまった訳だが、僕は図書館で集中して丸々1冊読んでしまった。もう『萩原朔太郎全集』に戻ることも忘れて、満足してしまった。だが非常に愉しい読書だったなあと余韻に浸りながら返却し、図書館を後にした。

暑い日差しの中、喫煙所に向かいタバコを蒸かす。

そういえば、あの時にライターを渡した彼女は元気だろうかとふと思い出される。ここで吸っていればフラッと来たりしないかな…という淡い期待を抱きながらくゆる煙を見つめ読書の余韻に浸る。

それにしてもあちいなぁ…。

よしなに。




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