雑感記録(30)
【良き読み手としての素養】
昨日、相も変わらずジュンク堂へ赴きまして色々と本を買ってきました。その中でもこれは購入して正解だったなというのがありました。
以前友人から「木村伊兵衛の写真は最高だぞ」と言われており、その時は「へえ~、機会があれば見てみるね」と話をしていました。その話をしたのが確かGWあたりだったので、3か月ぐらい前になります。ふと昨日、写真集の棚を眺めていた時に「木村伊兵衛」という文字を眼にして、「そういえばこの人の写真めっちゃ良いって言ってたな…」と思い出されて手に取ったんですね。
以前の記録で、写真に目覚めたキッカケとでも言いましょうか。中平卓馬と森山大道の話を書きました。勿論、彼らの写真にも僕の心を打つ作品は数多くあるのですが、正直なところ木村伊兵衛の作品はそれらよりも僕の心に響くものがありました。
なんと言えばいいのか分からないのですが、「自然の人」を撮るのが非常に上手だなあと感じたんです。中平卓馬や森山大道の撮る人物写真?という言葉が正しいのか分かりませんが、どこか人工物的なものを感じたんです。つまり、既に撮られるあるいは撮られているという状況を被写体がそれとなく理解していて、それに合わせた表情やしぐさを写し出す。ところが、木村伊兵衛の作品は全くそれが感じられない。本当にふとした瞬間のその一刹那を上手に撮影しているんですね。そこに感動したのです。
この感動を教えてくれた友人に伝えたいと思って、今日突然LINEをしたのです。すると間を置かず返信が返ってきて「めちゃくちゃいいよな」なんて言う話をしました。その時に友人が木村伊兵衛の写真の良さを話してくれたのですが、その言葉が非常にしっくりきてそれにも僕は感動しました。引用します。
言い得て妙とは正しく!と。僕はいつも感動する時に上手に言葉で表現することが苦手で、自分の中に留めておくことが多いのですが、この友人はいつも僕が感動したポイントを上手にしかも簡潔に言い当てる。これは凄いといつも感心してしまいます。
まあ、そんなこんなでその友人と色々と話をした訳です。ちょっとした近況報告とか、今何しているとか。そんな中で「保坂和志やっぱいいよな。最高だよな。」という話になったんですね。そこでふと僕は思い出したことがあったんです。
Twitterかなんかで保坂和志自身がつぶやいていたのですが、この『書きあぐねている人のための小説入門』がどうやら重版されるとのこと。この本って結構面白くて、小説を書こうとしている人にとっては助かると思うんですね。僕も小説を書いていたことがあるので非常に助かったその1人な訳なのですが…。
そこで今1度読んでみようかなと思った時にふと頭の中によぎったことがありました。「小説は技術でなんとかなるのか?」という問題です。このような書き方をすると一見、小説を書く側の問題と思われるかもしれませんが、同時に読む側の問題にも大きく関わってくると思うのです。
そこで今回の記録はこれらについて漠然と考えたことを書いてみようと思います。
〈小説の技術=読み手の技術〉
僕が一時期、小説を書くときに主に参考にしたのはこの1冊でした。ジュネットの『物語のディスクール』です。正直なこというと、これ読むのが面白くて結局、僕は小説を書けずじまいになってしまったのですが、それでも非常に参考にはなりました。
所謂「先説法」「後説法」などまあ色々とトピックはあるのですが、プルーストの『失われた時を求めて』を主軸にしながら小説の技法について様々に論じられているものになります。個人的に「小説の時間」という観点に於いて非常に参考になりました。元々リカルドゥーを読んでいたことも大いに関係しているかもしれません。
この中に収録されている「叙述の時間と虚構の時間」を読みました。そこには具体的な図示がありますので、もしかしたらジュネットよりも分かりやすいかもしれません。
また、プロップの『昔話の形態学』も少し参考にしたりもしていました。これは何というか「話の構造」という意味合いで参考にしていました。
あとは何と言ってもこれですね。ロシアフォルマリズム程、参考になったものはないかなと思います。所謂リアリズムの問題。これは過去に記録に残していますのでそれを見て頂ければ簡単に概要はつかめるのかなと。
他にも色んな人の『文章読本』(主に読んでいたのは谷崎と三島のもの)を読んだりもしてそれを参考にしていました。しかし、やっぱり僕にはどうしてもそういった本を読めば読むほどに「書き手の技術というよりも読み手の技術というものが重要なんではないか?」と感じるようになりました。でも冷静に考えてそうなんです。というよりそうじゃなきゃおかしいはずなんです。何故か。それは至極簡単な話です。
例えば小説を自分で書くじゃないですか。色々と趣向を凝らして、「ここはこういう言葉にした方がいいな」とか「ここは敢えて書かないで黙説法的にした方がいいんじゃないのか」とか「話の構造としてここが弱いから、こういう組み立てで書いてみよう」って考えたりしますよね。結局それってその自身が書いた小説を、文章をまず以て読める技術がないとできない芸当な訳です。
つまり何が言いたいかというと、最初に自分の書いた小説を読むのは自分自身な訳です。前提として、自身に小説を読み解くという素養がなければ出来ないことだと思うのです。小説を書く技術は、同時に小説を読む技術でもあると僕は考えています。
ここで少しばかし、僕が小説を書いていた時のことを恥ずかしながら自身で書いてみたいと思います。僕が基本的に「小説を書こう!」となったのは何かの作品に触れて、触発されて書くことが多かったような気がします。例えばフロイトの『精神分析入門』とか、フーコーの『監獄の誕生』とか…挙げればキリがないのですが…。小説で言えばベケットの短編集だったりとか、直近だとそれこそ保坂和志の『この人の閾』を読んで「よし、書いてみよう!」となっていました。
「そうか、こんな考え方があるんだ」とか「例えばこれを現代に当てはめてみたらどうなるのだろうか」、「この小説の書き方が好きで模倣してみよう」とかそういったことから僕は書き始めていたかもしれません。
自分で言うのも烏滸がましいにも程があるんですが、やっぱりこういった様々な作品、まあこれは小説のみに限らず詩や映画、絵画や哲学などと言ったものをある程度読み解けるそれなりの素地が出来ていたからそうやって「よし、書こう!」という気になれたのではないのかなと考えています。それが実際に書けたか書けなかったかは置いておくとして。
それに今の社会を仮に題材として何か書くのであれば、その問題に対してそれをどう読み解くか、読み解いてそれを落とし込むかということが重要になってくる訳ですよね。そうすると書く以前の問題として、それを読むということが必要になってくる。それってやっぱり広い意味での読む技術が大切になってくると思うのです。
この記録にも書きましたが、読書を通じて、言葉を通じて、この世界との関り方、繋がり方を身をもって体験することが重要であると。僕はこれがあってこそ、この経験が前提にあってこそ初めて小説というものが生まれるのだと思っています。作者がどう世界との関りを持っているのかというそこの部分が小説の面白さや深みにも繋がってくるのではないのでしょうか。
長ったらしく、しかも今回は非常に纏まりがつかずにこの記録を終えてしまいそうなのですが、ここで言いたいことは標題にある通り「小説の技術=読み手の技術」であるということです。良き読み手は、良き書き手であり、また良き書き手は良き読み手でもある。
作家と呼ばれる人たちは多くの読書経験を積んでいるように思います。例えそれが小説家と呼ばれる人であったり、画家と呼ばれる人であったり、構成作家と呼ばれる人であったり。芸術に関わる作家の大抵がこんな僕なんかよりもありとあらゆる読書経験を積んでいる訳です。
僕は小説を書いて痛感しましたが、圧倒的に読書量が足りない。それに読む技術も大してない。そんな僕に果たして小説が書けるのか?というよりこんな奴が今の段階で小説を書いたところで面白いものにはならないし、精々ただの自己満足で終わってしまう。人の何かを変え得るような作品が書ける訳もない。自分で自分の作品を読み返して思いましたが、「こりゃひでえな」と思うことが多かった訳です。
まず以て、僕はまだまだ未熟な読み手であるから、今はもう少し良き読み手になれるように日々愉しく、そして深みのある読書をしていこうと心に誓った。そんな今日この頃でした。
よしなに。