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檸檬読書日記 栞は足跡、本は繋がり、川端康成は乙女に変化(へんげ)する。 1月8日-1月14日

1月8日(月)

本屋に行きたい、切実に。最近全然行けていない。行きたい。ジタバタ。
今週は絶対どこかで行ってやる。固く決意。



斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』を読む。

韓国文学の翻訳家である著者が、韓国文学だけでなく、今まで読んできた本に関してのあれやこれやを書いたエッセイ。


古本を買うと「これ、一度も使われていないなあ」と思える栞のリボン(スピン)が見つかることがある。押し花みたいに、化石みたいにそこにある。(略)
一方、端の方からすっかり色褪せ、手ずれして繊維もやせた、「よく働いた」栞を見ることもある。根元からちぎれていたりする。栞には、本が生きてきた時間が乗っている。


あぁ、なんか分かる気がするなあ。

正直昔は、スピンが邪魔だなあと思っていたこともあった。でも今は、味わい深く感じる。
新品のものは何処かよそよそしく綺麗で、古書で買ったものは、綺麗たどしても動かされたなという後があったり、栞としてきちんと役目を果たしてボロボロになったものまで様々で、それがまた、面白い。まさに生きた時間が乗っている。

本の中には、自分が手を出してなかった書籍のことや、特に韓国文学の翻訳家だけあって、韓国朝鮮系の話もあって、そのどれも興味深かった。これから韓国語を勉強する人には、特に読んで損はなさそうに感じた。
韓国文学ではないけれど、自分は『チボー家の人々』が読みたくなった。

ただ、スピンの話で始まり、表紙もタイトルもそうなのに、本にスピンがついていないのが気になった。つけてもいい気がするんだけどなあ。
些細なことだけれども。



祖父が大分回復してきた。少し安堵。
褒め褒め作戦で、トイレにオムツを流さなくなったし、良かった良かった。ただ違う問題は出てきたけれど、まあ少しずつだよなあ。多少は歩けて、会話も通じるようになっただけでも安心。
正直、自分が1番最初に忘れられるだろうなと思っていたけれど、意外と忘れず全員のこと覚えているし、それだけでも良いことだよなあ。

それにしても、落ちた後数週間はぼんやりして歩けなかったのに、それがゆっくりでも外出て歩けるだけでも凄い回復力だよなあ。凄い。





1月9日(火)

こんな時に上は新年会やったんだ。へー。被災地には行かなかったのになあ。服は着てたけど。



谷川俊太郎『朝のかたち 谷川俊太郎詩集Ⅱ』を読む。


大げさなことは言いたくない
ぼくはただ水はすき通っていて冷たいと言う
のどがかわいた時に水を飲むことは
人間のいちばんの幸せのひとつだ

確信をもって言えることは多くない
ぼくはただ空気はおいしくていい匂いだと言う
生きていて息をするだけで
人間はほほえみたくなるものだ

あたり前なことは何度でも言っていい
ぼくはただ鯨は大きくてすばらしいと言う
鯨の歌うのを聞いたことがあるかい
何故か人間であることが恥ずかしくなる

そして人間についてはどう言えばいいのか
朝の道を子どもたちが駆けてゆく
ぼくはただ黙っている
ほとんどひとつの傷のように
その姿を心に刻みつけるために

「ぼくは言う」


ぼくは言う
自分が自分であれば幸せではないかと
ぼくは言う
何もなければ恐怖もないだろうと
ぼくは言う
子どものころから言われていたではないか
皆仲良くしましょうと
大人が言っていたではないか
そう、ぼくは言う

なんて。


うるんならいちえんでもたかくうる
かうんならいちえんでもやすくかう
けちでずるくてぬけめがなくて
じぶんでじぶんにあきれてる
だけどじぶんがいちばんだいじ
よくばりよくぼけがりがりもうじゃ
たにんをふんづけつきとばし
いちばはきょうもひとのうず

うれるならいしころだってうっちまう
かえるならにんげんだってかっちまう
けちでずるくてぬけめがなくて
おかねがおかねをよんでいる
だからおかねがいちばんだいじ
(略)

「いちばのうた」


物質主義はいつ終わる?
人が命をいちばん大事になるのはいつなんだろう。





1月10日(水)

今年(去年?)こそはと思っていたのに、また霜焼けになってしまった。(実際には去年からだけど)
結構対策したんだけどなあ。もうどうしたらいいんだ。悩ましい。
酷すぎて、指がもげそうな感覚。本当にもげる?(もげません)

来年こそは絶対に防いでやる。頑張ろ。血流改善。おー!



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。
詩人ボドー・ヘルの話。


ボドー・ヘルは、とても七十歳には見えない。夏場は山の上でヤギを飼い、その乳でチーズを作って暮らしていて、(略)


『アルプスの少女ハイジ』のオンジかなと思ってしまった。当たり前だけれど、やはりそういうの実際にあるんだなあと。

なんとなく気になってボドー・ヘル探したけれど、見つからなかった。日本では出してないのかなあ、残念。



念願の、本屋に、行った!
正直本屋に行って、本屋という空間を味わっただけで舞い上がって、見てるだけで満足して帰りそうになったけれど、違う違うと本を買う。


けれどまありにも嬉しすぎて抜けていたのかな、買おうと思っていた『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』を買い忘れた。なんてこった。
こうなったら、また本屋に行かなくてはいけないじゃないか。(え)





1月11日(木)

雨が全く降らない。
降ってほしくないところにはたくさん降るけれど、降ってほしいところに全然降らない悲しさよ。最早豪雨でもいいと血迷いそうだけれど、それは流石に困るだろうなあ。いやでも…うーん。

今年は雨が多く降るらしいと天気予報でやっていたけれど、本当だろうか。
今はまだいいけれど(いや、良くはないけれど)夏が問題だ。去年のようだったら本当に困ってしまう。野菜を育てている身としては、水不足というか雨が降らないのは本当に深刻。野菜をやっていなくとも、水が足りなくなったら、皆が困るよなあ。

大変でも、降らないよりも降ってほしいなあ。あり過ぎて困るよりも、きっとなくて困る方が深刻度は大きい気がする。

降ってくれー。お願いします。合掌。



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。

ドイツで劇場を観る話が書かれていて、今少しずつ読んでいる『ブレヒト全書簡』のことを思い出した。ブレヒトは劇作家なだけに、手紙の殆どに劇についてのことが書かれている。そういえば彼もドイツだったよなあと思い、昔も今も、ドイツは劇が盛んだったのかなあと思いながら読んだ。
そしたら


フォルクスビューネ劇場は、(略)芝居を観ながら気楽に大声で笑ったり、役者の問いかけに観客席から大声で答えたりする。観客に「自分にも発言権があるんだ」という気持ちを与える劇場である。今日もブレヒトの亡霊が最前列にすわって葉巻を吸いながら見学していた。もちろん場内禁煙だが、どうやら亡霊は規則を破ってもいいようだ。


まさかのご本人登場。
この界隈ではやはり有名だったのか。

買った時も読む時も、ブレヒトについてまるで知識がなく、知らなかった。でも丁度今読んでいるからこそ、あっ!となった。知らなかったらきっと、ふーんで終わっていただろう。知ってるからこその、感動。
だからこそ色々知っている、というのは楽しい。何気ない文章でも、知っているだけで輝くものへ変わったりする。そして興奮。

人を惑わすのは情報、人を輝かすのは知識、な気がするなあ、なんて思ったり。



アーサー・ビナード『日本語ぽこりぽこり』を読む。


おもしろい詩に出合うと、しばらくそばにおいておきたくなる。その詩が載っている本をリュックに入れて何日も持ち歩いたり、コピーを取ってセロハンテープで部屋の壁に貼ったりする。それでももの足りないときは、翻訳してる。原文が英語なら日本語に、日本語だったらその逆に。


凄く分かる。
いや自分はどれもやらないけれど、頭の中で何度も反芻したりする。何時までも浸っていたくなる。

確か『本の栞にぶら下がる』で、良い詩はノートに書いていた、そうすると自分好みのアンソロジーになるとか書いてあって、それも良いなと思ったけれど、日本語の詩を元の原語にしてみるのも、面白いよなあ。(そう前々から思いつつ、中々出来てはいないけど)いつかやりたいなあ。



人が次々に亡くなっている。原因不明の体調不良も多く、救急車も毎日鳴り響いている。悲しみが続く。でも、これからもっと増えていくんだろうなあと思うと気が重い。8割だもんなあ。もうそろそろ気づいてほしいなあ。命を体を、もっと大事にしてほしいよ。自分のためにも、大切な人のためにも、もっと目を向けてほしい。

結構肺をやられている人が多い気がする。肺には、蓮根や黒きくらげなんかが、肺を潤すから良いのだとか。まあ微々かもしれないが。少しでも。

自分の無力さを日々感じる。言葉は小さくて届かない。大きい人が届けてくれたら本当はいいのに、大きいほど難しいみたいだ。小さくなってしまうから。

きっと自分の記事を全部見る人はいない上に飛ばされる分野だろうから無意味かもしれないけれど、とにかく大切にして、ということだけ届くといいなあ。
そう願うばかり。





1月12日(金)

ミュージシャンであるGACKTさんのTwitterにて。


格付けは「美味しい」じゃなく「高い」を当てる番組。

「美味しい」という感覚は人それぞれで、基準はかなり曖昧。

必要なのは「高いものにはなにが使われているのか」という予測からの考察。


と書かれていて、流石だなあと関心してしまった。この最後にも、全部食べたらきっと間違ってた、味が濃い方に引っ張られるからとも書かれていて、核心だなあと。
日本は旨味を人工的に作る技術が凄い発達しているから、美味しいが本当に曖昧。濃いイコール美味しいみたいなね。
だから添加物が1番入っていたものが1番選ばれていたんだろうけれど。あれは少し怖くなった。色々食べれる人達が…。それなら…。

そういえば格付けのことで、本当は出たくないというのも書いてたなあ。でも、出るとそのために勉強して、自分が成長出来るからとも。
他の番組で2択だった場合、自分は苦しい方を選ぶとも言っていたのを思い出した。本当に素晴らしい人だなあ。
自分も見習いたい。少し頑張れば出来る方ばかり行きがちだからなあ。



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。

「詰め物言葉」  意味が全くない訳ではないが、抜かしても全体の意味としてはほとんど変わらない言葉のこと。


(略)日本の記者会見をネットで見ていると、詰め物言葉のとても多い記者会見があった。詰め物だけらかできた言葉を発して回答を避ける政治家のいることは昔から知っていたが、追及する新聞記者の側も詰め物だらけだったので驚いた。


確かに。
自分も詰め物言葉常習犯だけれど、それ以上だよなあ。だからどちらの言葉もちぐばぐで噛み合わない。結論がない。どうしようもないの三銃士、なんて。



川上弘美『大好きな本 川上弘美書評集』を読み終わる。

いやぁ、お陰様でなのか困ったことになのか、読みたい本リストが増えた。どの本も興味深そうな上に、紹介が上手いものだからあれもこれもとなってしまった。

作家の人の書評は、その人の作品を読んでいると余計に面白く読める気がする。この人はこういう本を読んで構成されていったのかと分かったり、こうやってこの人の作品は形作られていったのだろうなという片鱗が感じられるから。

川上さんの本を読んだ最初の作品は『蛇を踏む』だった。凄い独特だなあと思ったのと、この本の中には『惜夜記』という作品も収録されていて、これがまた良く分からなくて、ずっと首を傾げながら読んだ。確か変わる変わる場面が変わって、筒状の上に描かれた絵が回転して動いていくような、ガタガタ感があって(言っている自分でもよく分からなくなってきた)不思議で、でも見続けてしまう。
その独特さと不思議さが、紹介する本たちにも感じた。納得感。

川上さんが好きな人は、彼女を知る上で読んで損はない気がするとも思った。



確か、川上弘美作品を読んだきっかけは、隣の席の人が『蛇を踏む』を読んでいたからだった。それで気になって貸してもらって読んだが、正直それがなかったら、川上弘美さんの作品を生涯読むことはなかったと思う。
noteもそうだけれど、他人の本を知るのは、自分を広げられるから本当にいい。たくさんの本の縁が巡ってくる感じがする。

そういえば、同じ人に貸してもらったゾンビの小説も面白かったのだけれど、タイトルが未だに思い出せない。(そういえばその本、その人が読んでる途中で読ませてもらったからか、お互い先が気になりすぎて交互に読んでいたなあ。良い思い出)

単行本で、確か全体が濃い茶色の渋めな感じの本体だった。内容は、体の何処かが壊れても交換出来るゾンビのお嬢様とメイドがメインの、夜の学校で事件が起きる、コメディーちっくだけれどパニック系ちょいホラーな作品だったような。いや、ミステリーだったかな?

凄いハマって、続きが出たら読みたいと思って、ラノベでシリーズ化されたと知った時は喜んだけれど、絵が完全なラノベで止めたんだよなあ。あの単行本みたいなので続いてほしかったなあ。
単行本だけでも手元に置きたいなあと思い続けども、作者は勿論タイトルも1文字も思い出せぬ。うーん、いつか巡り会えるといいなあ。





1月13日(土)

お!


おお!


おおー!


鹿児島陸デザインの缶に、ロミ・ユニのクッキー。(クッキーは下にまだ入っている)
もう素敵すぎでは?缶は可愛い上に、クッキーも素朴で優しい味わいが最高。個人で作っているので1番美味しいかもしれない。種類もたくさんあって大満足。



梨木香歩 文・鹿児島陸 絵『蛇の棲む水たまり』を読む。

陶芸家である鹿児島さんの皿に描かれた絵に、梨木さんが物語をつけた作品。

水たまりを覗き込んだ馬が、水たまりの中に棲む蛇と出会う話。とても短くシンプルながら、鹿児島の絵を邪魔しない、寧ろ寄り添って溶け合うような文章で、物語の世界にも絵の世界にも同時に飛び込めるようだった。

蛇や馬や犬や猫、様々な動物たちや、色とりどりの花、見ているどけでも眼福なのに、それに心地よい話がついて、本当に素敵で、心が洗われるようだった。

飾っておくにも贈り物にも良さそうな作品。






1月14日(日)

1月になったらもう少し落ち着くかなと思っていたのに、意外と毎日忙しなくてあれ?となっている。あれ?



高原英理・編『川端康成異相短篇集』を読む。
「朝雲」を読み終わる。

女学校に新任の女教師がやってきた。その人はとても綺麗な人で、生徒たちは誰もが虜になってしまう。宮子という女学生もその1人で…。
宮子は先生に自分の気持ちを言えないまま、名前さえも呼べず、目もまともに合わせられないまま、日々は過ぎていく。
そして別れの時、宮子は今までの想いを手紙にしたため、出したのだが…。

太宰治の『女生徒』を読んだ時も驚いたが、これもまた驚いた。歳の違う、その上男性である著者がこれを書いたとは、と。それくらいどちらの女生徒も生き生きとして、実際に存在する女学生が日記として書いたかのようだった。

だからこそ、女学生が抱く秘めた恋心があまりに度数が強く、酩酊させられたようにくらくらする。あまりにも純粋で純真すぎて、綺麗を全て集めて結晶化したようだった。
ただ、川端康成らしいなと思ったのは、全く生々しさがないということ。本当にただただ純粋。


あの方は初めてお教室へいらっしゃる途中、渡廊下の角に立ち止まって古い窓から空を見上げていらした。白い雲の緑にはまだ朝の薔薇色がほのか残っているようだった。
それから後私はお当番で窓ガラスを拭く度に、よく思い出した。このガラスから、あの方が空を御覧になったのだと私は息を吹きかけて、ていねいに拭いて、自分も空を眺めていたのだった。


冒頭からこれである。川端康成が思う綺麗なものを集結したのが、この作品のようにさえ思えた。

そういえば、話の中で度々『竹取物語』が登場する。この話は、それに沿っているのだろうか。最後は雲の上へ帰っていく。

この話を読んで思い出したけれど、確か川端康成は、少女向けの雑誌に小説を提供していたと聞いたことがある。それはこの作品だったのだろうか。
こういうのは、他にもあるのかなあ。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「横光利一」編を読み終わる。

小説家。個人的に『春は馬車に乗って』と『花園の思想』が気になっているけれど、未だに読めず。

相当推敲をする人で「こんなに何度も手を入れれば誰だって名文が書ける」と呆れられていた模様。ほう。
最初は人気があったようだが、作品を出す度に新しい切り口になるのが、周りには合わなかったよう。新しいを追い求める人は得てしてそうだよなあ。爆発的に売れて受け入れられるか、煙たがられて消えていくか。

岸田国士の鮭の話が興味深かった。岸田国士は北海道から鮭を送り、横光利一から「たしかに受けとった」と礼状が来た。


しかし、本当のところは新巻鮭は郵便局で何者かに盗まれて紛失し、荷札だけが届いたらしい。「ことを穏便にすましたいので荷を受けとったことにしてもらいたい」と集配人に泣きつかれて、横光は嘘の礼状を書いた。横光の人のよさを伝える話である。


ふむ。こういう話好きだな。

そして煙たがれたとて、評価はされている。尚且つ、家族思い。


「みんな人が働くのは、子供のためだ。おれもそうだった」

『夜の靴』


総じて、良い人だったようだ。(少しまとめが雑だな…。横光さん、すみませぬ。これが自分の限界です)




ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様にとって毎日が明るいものでありますよう、心から祈っております。
ではでは。

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