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檸檬読書日記 アンネの手紙を待ち、古書を買い、桃あんみつを食す。 9月2日-9月8日

9月2日(月)

『アンネの日記』を読む。

お久しぶりの日記。
次も大分間が空く。毎度早く来ないかなあという気持ちになる。でも我慢して同じ日付になるのを待つ。
なんだか日記というよりも「キティへ」という友達に宛てた手紙のようだから、手紙が届くのを待つような感覚になってきた。
その感覚がまた良い。今の時代、手紙などをやりとりする習慣がないから、久しぶりに味わうこの待ち遠しさが、なんともたまらない。






9月3日(火)

信じられないくらい涼しい。
この機会を逃す手はないと、種蒔。
第2弾キュウリと、ブロッコリー、紫スティクブロッコリー、紫キャベツ、ロマネスコ、コールラビを撒き撒き。
とりあえず今日はこれだけ。次は9月下旬になったら色々撒こう。




古本屋で色々購入。

『本人の人々』は、米原万里『打ちのめされるようなすごい本』の中で紹介されていて、欲しかった本。まさかこんなに早く出会えるとは思っていなかったから(もしかしたら一生出会えないかもとも思っていたから)、本当に嬉しい。
著者が実際の人物に扮して、本人が言いそうな言葉が書かれているのだが、真似している人たち、仕方ないながら結構古めだった。でも面白そう。

後は、歌系の本を少々。
『グレープフルーツ』は、テレビで存在を知って読みたかったから、出会えて嬉しい。

『新 折々のうた』は、知らなかったけれど、面白そうだったから購入。色んな方の短歌や俳句が載っている。最近短歌とか俳句が気になる身としては最適そう。解説も一つ一つについているのもポイントが高い。それに100円だしね。これは買うしかないと思うよね。うんうん。
このシリーズ、全9巻らしいのだけど、売っていたのは5巻まで。それだけが残念。全部揃えたいなあ。
このシリーズ、「新」ではなく『折々のうた』シリーズもあるらしいし…。見つけたい。

『リルケ詩集』は、先日リルケとリゼの手紙を読んで読んでみたくなった。

『コクトー詩集』はなんとなく。
映画『美女と野獣』の制作日記『美女と野獣:ある映画の日記』を読んで、文章が詩的だったから、詩はどういう感じなんだろうかと思って。なんとなく。


歌系以外は、米原万里さんの本を少々。
『打ちのめされるようなすごい本』で凄く打ちのめされたから。

結構、やってしまった。『本人の人々』の200円以外全部100円だったから…つい…。

そもそも夏目漱石『吾輩は猫である』と夏目漱石の集英社文庫作品を買いに行ったのになあ。
でもなかったから…。ポプラ版はきっとあるだろうなと思ったのに、甘かった。それすらない。『坊ちゃん』は妙にたくさんあったのに…。猫…。



『村山槐多全集』を読む。


(略)
美しいをばさん
まつたく私はあなたが好きだ
頬っぺたにかじりつきたい程
あなたは私のりんごだ、恋人だ、可愛ゆい人だ
あなたは貧しい
かなしさうにあなたはうなだれて居た
をばさんのかなしさうな様子を見ると
自分は胸がふさがる
美しいをばさん
私は持つてるものを皆あげちやつた
今でも上げたいのだ
だけれど困つたことには
私は一銭もないのです
実を言へば私はまだ晩の御飯もたべない
ゆるしてお呉れよ
をばさん
をばさん。

「雨ふり」


まるで子どものような愛情で、可愛らしく思える。
純粋でまやかしのような愛情。






9月4日(水)

朝であると、多少曇っていても建物内はぼんやりと輪郭は分かる程度明るく、窓のない廊下であっても電気をつけなくても良い時がある。
自分は結構面倒くさがって、すぐ済むことならあまり電気をつけずに済ます。
今日も手を洗うくらいだからと、電気をつけないで手を洗っていた。けれどその途中、カンっと何かが落ちた音がして、慌てて周りを見渡す。けれど薄暗すぎて何が落ちたのか分からなかった。
流石に電気をつけなくては見れないなと思って、廊下、出入口のすぐ脇にあるスイッチに手だけを出して押そうとした。

「わっ!」

そうしたら、突然の叫び声。
何事かと思って外に顔を出したら、人がいた。驚いた顔と目が合う。

「びっくりした!出たのかと思った」

どうやら、誰もいないと思っていたのに急に手が伸びてきたから、幽霊だと思ったらしい。薄暗い上に丁度白い服を着ていたから、余計に幽霊ぽかったのかもしれない。
凄い驚いていたから、申し訳ないことをしてしまったかもしれぬ。
なんか、ごめんよ。
次は気をつけなくもなくも(またやらかすパターン)



筒井康隆『時をかける少女』を読む。

言わずと知れた。タイムリープを繰り返すSF小説。
映画版『時をかける少女』を何度か観たけれど、内容は少し違っていた。映画は、原作を大分現代にして、ロマンチック度(?)を増させている。それはそれで良く、けれど別物という感じがあった。

今回の小説版は、映画を先に観てしまうとあっさり、という印象を受ける。それは短編というのもあるかもしれないけど。
どことなく昭和のような、昔懐かしい感じがある。それがまた青春感を増させ、青が失われたような少々の切なさと、青で得た温かさで、なんともいえない幸福感があった。

「時をかける少女」の他に、2つの短編が収録されていて、どれも不思議がありつつ惹き込まれる世界観と魅力があった。
中でも「悪夢の真相」は、他の人にはそうでもないものが何故かとても恐ろしく感じる主人公が、何故恐ろしいと感じてしまうのかを突き止めるにつれ、真相にたどり着いていくといった話なのだが、怖さとミステリー感があってとても良かった。
ホラーらしくはあるが、現実からは決して離れない。バランスも着地も見事な作品だった。

SFというのは、難しいというイメージがあってあまり読んでいなかったけれど、この方が書くものは読みやすくて尚且つ面白い。もっと読みたいなあと思わせてくれるから凄い。
それも、完全なる異世界というよりも、現実世界から離れすぎない、何処かで繋がっているかもしれない世界、というのが自分には入り込みやすいのかもしれない。
『旅のラゴス』も良かったし、この方の作品結構自分に合っているようだから、もう少し集めてるみようかな。






9月5日(木)

群ようこ『忘れながら生きる 群ようこの読書日記』を読む。本エッセイ。

その月に買った本のリストが載っていて、こういうの珍しいなと思った。けれどそれが良い。人が買った本、持っている本を覗くのが好きな身としては、とても嬉しい掲載。

エッセイ自体も、本好きならではが多く、あるあると思いながら読んだ。
例えば、積読本が多くなりすぎると、減らすために手放しても良さそうな本を探して読むようになり、そうやってだんだんと減っていくことが快感になる、とか。
増えすぎるから図書館の本で済まそうと最初は思うけれど、やはり手元に残したいと思って結局買うようになってしまう、とか。
少し分かるなあという感じだった。

そういえばこの方の本、初めて読んだな。



何か不足する度に思う。何故備蓄しておかなかったのだろうかと。大概の場合、突然になくなるということはない。予兆は前々からあったのに…。買い占めを怒る人がいるけれど(確かにそれも問題だけれど)、怒らざる負えない状況を作ったのは誰だろうかと思ってしまったり。
大家族なら仕方ないにしても、一般家庭ならある程度備蓄しておけば1、2ヶ月は問題なく過ごせた気がするのだけどなあ。






9月6日(金)

荒木経惟『センチメンタルな旅』を見る。写真集。

思った以上に順番が早く来た。

やはりセンチメンタルが良く似合う女性だ。こちらまで電線して、センチメンタルな気分になる。
ずっと忘れていた失ったものを思い出されるようだった。

色味が『センチメンタルな旅 冬の旅』の方が濃い気がした。手元に残すなら「冬の旅」が良いかも。



『カフカ短編集』を読む。
「父の気がかり」を読み終わる。

オドラデクという生物の話。とても短い。
どことなく『変身』の雰囲気がある。不思議生物が出てくるからかもしれないけど。ただ『変身』よりも優しい。不条理感はないという点で。寧ろ。


(略)彼(オドラデク)が誰の迷惑にもならないことははっきりしている。それにもかかわらず、彼がわたしより長生きするかもしれぬと想像すると、ほとんど悲しみに似た心地にひたされる。


カフカの不条理の対象は、いつだって人らしい。





9月7日(土)

米不足、米不足で1番困るのは、それならパン(小麦)を食べれば良いじゃなーいと、マリーアントワネット状態になることが不安。心配。
(まあマリーアントワネットの、パンがならなら発言は、捏造の可能性があるらしいけど)
もしくは、海外米に頼ってそれを食べれば問題ないじゃないかとなるのが…。

日本人にとって米は、本当に大切な存在で守るべきものだと思う。米は連作障害もなく、毎年出来る作物であり、日本人の体に最も合った食材。
それなのに上は米をなくしたいようで…この困った状況でも、助けようとはせず、寧ろ追い込んで辞めさせようとしている。
米農家は、今とても厳しい状況にある。だから辞める人も多く、年々作り手が減っている。米を作らず、その土地を貸すか、家畜の餌を作る方が国からお金が貰えて利益になるシステムになっているから。
何故助けず辞めらせたいかといえば、アメリカのために輸入したいから。日本で作るにしても、大きな会社で作り手を取り込んで、一定に作れるようにしたいから。それが何故問題かといえば、そうして作ったお米は、何が入っているか分からない。でもそれに従って、与えられた何が入っているのか分からない苗で米を作って出荷すれば、社員のようなものだから、不作でも一定の給料はもらうことができる。そうなるとまあそっちの方がいいとなるわけで…。
でもそれが全てになってしまったら、もう安全な米を食べることは出来なくなる。もし種を買わせないとされたら、米は作れず食べれなくなる。(それは米だけでなく、他の作物にも言えることだけれど…)

そもそも日本は本来、米の自給率は100%だった。でも負けてしまったがために、アメリカから買わざるおえず、そうなると安い方に走られたり何があっても補助されないから辞めざるおえなくなり…。そんな厳しい状況だから担い手も現れず、高齢化が進む米農家はどんどん廃れ…。
もつ聞けば聞くほど悲しくなる。悲鳴が聞こえてくるようだよ。
だから願わずにはいられない。どうか米農家を支えてあげてほしいと。自分たちが食べるものは、自分たちで支えていかなくてはいけないと思うのです。

こんなに足りないは、自然災害だけの問題ではない。米が足りないことよりも、何故こんなにも足りないのか、足りなくなってしまったのかに少しでも目を向けてほしいなあ。





9月8日(日)


桃あんみつ。

黒蜜たらっと。


良い桃が丁度値引きされていた。けれど問題なく美味。黒蜜とも餡子とも相性が良く、なんとも贅沢なあんみつだった。



『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読む。
「田山瑞穂と平野謙」編を読み終わる。

田山花袋の話。
田山花袋は、私小説作家と言われていた、そのことについて。


父はいつもこういっていましたよ。自分のことがしっかり書けなくて、なんで他人のことがうまく書けるかって。(略)


なるほど、確かに。

島崎藤村が田山花袋の元へお見舞いに言った時の有名な言葉の話もあった。でもそれは田山花袋にとっては、良く言ってくれたというものだったらしく、寧ろ柳田國男が来て「しっかりしろよ」と言われた時は、なにくそという感じだったらしい。面白い。

旅好きだった田山花袋。瑞穂さんも良く連れて行ってもらったようだが、私小説家だけに何か使えるところはないかと思ったのか、いつも観察されているような怖さもあったのだとか。
そして、外へ働きにではなく勤め先が家だった田山花袋。


だから子供としては、たまにどっかへ行ってくれればいいなと思うときもありました(笑)。父が旅行などへ行ってしまって、一、二ヵ月いないと、ほっとしたこともありますよ。母までが喜んでいた(笑)。


笑ってしまうよ。父親とはそういうものだよね。

田山花袋ではないけれど、少し出た泉鏡花の話で興味深いなと思ったところがあった。


(略、泉鏡花は)文章を書くとき、火鉢の中の灰に、かならず指先を突っ込んだりしないと書けないんだとか。ひとつの癖だったんでしょうね。


凄い癖だなあ。






ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様の食がいつまでも豊かでありますよう、願っております。
ではでは。


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