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檸檬読書日記 黄色い犬と、本は佇んでいる人に似て、Dの謎。 9月23日-9月29日

9月23日(月)

藤田嗣治は額縁も自分で手がけていたと知って、驚く。どれも素敵だった気がしたけれど、どれが藤田さんの作ったものだったのだろう。
作っていたのだと知った上で見たいなあ。
軽井沢、また行きたくなってきた。



シャロン・クリーチ『あの犬が好き』を読む。詩。

詩なのだそうだけれど、ある少年による日記調になっているから、日記のような、それでいて先生という人に見られている前提だから、手紙のような、それ故に物語のような、不思議な作品。


いやだ
だって、女の子のもんだよ。
詩なんてさ。

男は書かない。


これが始まり。
それからもこんな調子で続いていく。少年らしいというよりも、何処かふわふわと漂っているような、幼さが滲む文章。

最初は詩なんてと言っていた少年も、次第に詩のようなものを書いていく。詩というよりも、文章を詩のようにしていく。


ぼくの黄色の犬は
どこにでもついてくる。
ぼくが道をまがると
やってきて
しっぽをふる。
よだれを
口から
たらす。
ぼくにむかって
笑う。
いつもいつも。
まるで
こういってるみたい。
「ありがとうありがとうありがとう。
ぼくをえらんでくれてありがとう」
それから、ぼくに飛びついて
もじゃもじゃの、もしゃもしゃの足を
ぼくの胸にぺたっとくっつける。
ぼくのなかのぼくを
抱きしめたいよって、いってるみたいなんだ。


自分が好きな箇所。
さらっと読むと微笑ましく、考えようによっては深さを感じる最後の部分に、惹かれるものがあった。







9月24日(火)

ようやく涼しくなったから、気合を入れて雑草刈り。
雑草ではないけれど、もう紫蘇が…すごすぎるよ…。雑草よりも強敵。巨大になりすぎて、最早木。ぬ、抜けぬ…。運ぶのも、お、重い…。
全部は流石に無理だったけれど、少しスッキリした。

収穫は、紫蘇の実と、空芯菜、モロヘイヤ、唐辛子、葱。そして里芋も1株だけ掘ってみたらいい感じだった。その日にけんちん汁にして食べたら、ぬちっとした食感で美味しかった。やっぱり取りたては格別。

埋もれていたジャガイモも結構採れた。大分長い間土の中に放置したためか、巨大化していた。でも味に問題なし。それならよし。寧ろ食べれる量が増えたから、大よし。
そしてそして、とうとう胡麻を収穫した。収穫したものを1週間くらい干して、種を採ったら完成らしい。食べる時は煎る。楽しみ。
後は、初めてレモングラスを収穫。匂いが凄い檸檬。切って干してお茶にする。

最後に芽が出たキュウリを植えて、ルッコラとベビーリーフの種をパラパラ蒔いて終了。わりと、頑張った、気が。




アイスティーを飲む。アイスなティーはもう最後かもしれない。
檸檬を入れてさっぱりと、レモンティーに。



もう温かい飲み物が飲みたくなるけど、この新しいグラスを使いたかった。
一目惚れした通り、やっぱり合う。良いですなあ。
来年たくさん使おう。






9月25日(水)

衝撃。行こうと思っていた『ロートレック展』がもう終わっていた。しょっく…。
何故か10月ちょいすぎまでかと勘違いしていて、今日ふと確認したらまさかの終了していたという…。泣きそう。
また何処かでやってくれないかなあ。



江藤淳『なつかしい本の話』を読み始める。本にまつわるエッセイ。


本というものは、ただ活字を印刷した紙を綴じて製本してあればよい、というものではない。
つまり、それは、活字だけででき上がっているものではない。沈黙が、しばしば饒舌よりも雄弁であるように、ページを開く前の書物が、すでに湧き上がる泉のような言葉をあふれさせていることがある。その意味で、本は、むしろ佇んでいるひとりの人間に似ているのである。


冒頭から刺してくる。凄く好きです。


(略)本とは活字だという考え方は、本とは思想だという考え方とどこかで通じ合うものであるが、私はこういう考え方にまつわる一種貧寒なものに、あまり親しみを感じることができない。本とは、むしろ存在である。活字になった言葉と、語られていないそれより重い言葉との相乗積である。そして、また、そのように感じられる本だけが、私にとってはなつかしいのである。


これから読んでいくのが楽しみ。



『ブレヒト全書簡』を読み終わる。

いやぁ、長かった。合計887通の手紙を、毎日3通ずつ読んでいった。
最初の方は情勢が思わしくなく、脚本どころではない感じだったけど、恋愛面がゴタゴタしていたのは見応えがあった。
後半は青年から大人になった感じで、恋愛というよりも仕事に熱が注がれる、という変化が興味深くあった。
おそらく、というか確実にブレヒトの作品を何作か知ってからの方が楽しめただろうけれど、知るきっかけにはなったし、知らないは知らないなりに楽しめた、かも。

1人に対しての手紙だけを詰めた1冊も良いけれど、複数の人への手紙も様々な面が見れて面白いなと思った。

さぁ、次はいよいよ『カフカの日記』だ。



谷崎由依『遠の眠りの』を読み始める。

大正末期に貧しい農家に生まれた少女・絵子は、女であるがために制限されていることに、不満を抱えていた。本を読むのが好きなのに、好きに読むことも出来ず、学校にも進めてはもらえない。それが出来るのは、男である長男ただ1人。
ある日とうとう不満を口にしてしまった絵子は、父親に激昂され、家から追い出されてしまう。


(略)さまざまな思いつきが、川を渡っていると、浮かんでは消えた。本を読むみたいだな、と思った。(略)
そしてまい子(友達)の手で織られていった、透明なまぼろしの布。いっぽんの糸が織物になっていく。綿が面となっていく。それは絵子の好む書物というもの、文字の繋がってできた文字が、そのいっぽんの線が連なって連なって、やがてはおおきな一枚の物語になっていくさまにも似ていた。目の詰まった織物であればあるだけ、たくさんの文字が密にならんで、白い紙を黒く埋め尽くせば尽くすだけ、絵子の気持ちを豊かになる。


この人の、こういう表現、こういう文章がとても好き。


あとに残られたまい子を、それでも近づかずにしばらく見ていた。やがてまい子のほうでも絵子に気づいた。目が合ったが、ぷいと逸らされた--。
(略)
その出来事を絵子は思い出した。そして自分が、それをどう思ったらいいのか決めあぐねていることを意識した。何度か思い出し、意識したまあとで、自分は怒っている、ということに決めた。怒っているが、許さないでもない。(略)それくらいの、怒っている、だった。絵子はときどきこんなふうに、自分の感情を自分で分類することがあった。絵子の生きている世界には、自分で決めることの叶わないものがあまりにも多かったので、せめて自分の内面くらいは律していたかった。


最後の文に、当時の重苦しさを感じる。






9月26日(木)

江戸川乱歩の名前を最近良く見かけるなあ。本も出ているみたいだし、流行っているのだろうか。

江戸川乱歩、読もう読もうと思いつつ、まだ『押絵と旅する男』『怪人二十面相 少年探偵1』しか読んでいないな。
「押絵」は分からなかったような。それで読みやすそうな「怪人二十面相」を読んだら、今読むとツッコミどころが多くてある意味面白かったな。でも怪人二十面相の方を好きになってしまった身としては、これからも怪人二十面相が勝つことはないのかとなんだか気持ちが落ちて、それから縁がないなあ。

悪役って何故こうも勝てないのだろう。それが当たり前で、それが現実だったら応援する気は微塵も起きないけれど、架空で、尚且つ魅力的だと負けてしまうことがモヤッとする時がある。正義が勝つことにモヤッとすることも。
『刑事コロンボ』の犯人役達とか、『アンパンマン』のバイキンマンだとか、勿論正義側も魅力的なんだけれど、悪役側も同じくらい魅力的すぎて、本当に困る。応援してはいけないと分かりつつ、捕まらないでくれーとか思ってしまったり。(あ、でもコロンボの場合、唯一1人だけ逃れることが出来るんだよなあ。あの時は驚いた。でも切ないけど…。)

そう考えると、『戦隊大失格』という漫画は画期的だよなあ。戦隊ヒーローものの悪役が主人公で、尚且つ悪役といっても、ボスや魔王とかではなく、脇役中の脇役、「D」という記号だけで名も与えられていない隊員の1人というね。凄い。よく思いついたというか、ありそうでなかったというか。
今や名も上がって、なんか凄いことになっているし…信仰者まで出来てしまって…最後どうなるのだろう。

「D」といえば、重要人物でアルファベット1文字の場合「D」というのが多い気がするのだけれど、何故なのだろう。
『ワンピース』も「D」だし、『蜘蛛ですがなにか?』も「D」様だし…後なんかあった気がするけど、思い出せない。
「A」や「B」、他のアルファベットでもいい気がするけど…。
でも「様」つけた場合「D」が1番かっこいいか。濁点に小文字付きだもんなあ。「D」に似た「B」もあるけど「ビィー」だと、しまりが悪いもんなあ。「G」もね。あれになってしまうもんね。悪者感は凄いけど。「V」はお調子者っぽいし「J」「Z」は2文字プラス小文字で多い感じがするもんなあ。となるとやはり「D」が丁度良いということか。なるほど。(なるほど?)

そういえば、江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』も「D」だな。名前ではないけど。



『カフカ短編集』を読む。
「掟の問題」を読み終わる。

ぐるぐるしている。
掟があると思っていたら、やはりないのかもしれないと思ったり。カフカの人生はそんな繰り返しなのかもなあ。混乱ばかり。






9月27日(金)

『アンネの日記』を読む。


(略)わたしは、空中楼閣を描くのが、それほどばかげたことだとは思いません--



江藤淳『なつかしい本の話』を読む。

ルナールの話。


(略)本というものは、思い出をさきどりするものだと、いえるのかも知れない。われわれは、いつかそのうちにめぐり合って、親しくなる人々とそれについて話し合うために、本を読むのだ(略)


なんて素敵な考え方なのだろう。
自分が楽しむだけでなく、いつかの人との関わりのために読んでいる。良い考えだなあ。

ルナールの『樹々の1家』にこんな文章がある。


私はもう、過ぎ行く雲を眺めることを知ってゐる。
私はまた、ひとところにぢつとしてゐることもできる。
そして、黙つてゐることも、まづまづ心得てゐる。


この部分は、著者が特に好きな箇所らしい。


(略)当時の私が「知つてゐる」といえるのは、このなかで、「過ぎ行く雲を眺めること」ぐらいのものだったが、人間もまた、樹木と同じように、「ゆつくり時間をかけて死んで行く」ことができるという認識は、私にやすらぎをあたえた。生存を維持しなければならない、と考えるから、ヒリヒリするのだ。「ゆつくり時間をかけて死んで行く」と、考えればいいのだ、と。


なんと深く刺してくるのだろう。そう考えられるようになるまで、どれほどの道を辿ってきたのかと考えると…。

江藤淳が聞いた、アメリカに行った先生の話。


「(略)それは親切にしてくれた。その親切が身に浸みるようになるころには、君(略)、大便まで変って来る。量が減ってだな、チーズみたいなやつが、チョコッと出るようになる」
「ハア、大便まで変りますか」
「ウン、変る。大便が変るころには、人間も変るさ。君も、いまにアメリカに行って来るといい。ひろびろと、はればれとした気持になるぞ。(略)」


こういうの見る度に怖くなる。アメリカにしたら日本人って可愛いなという感じなんだろうなあ。
体質上食が合ってないのがよく分かる。けれど負けたからね…。






9月28日(土)

『ハリー・ポッター』の教師役の人が亡くなったと聞いて、あまり観ていないから誰だろうと分からなかったけど、顔みたら『ダウントン・アビー』のお祖母様役の人で、衝撃。そうか…。

あぁ、そうだ。『天使にラブ・ソングを』の修道院長もあの方だ。あぁ…。



『アンネの日記』を読む。


(略)いったいどうしておとなって、やたら口論ばかりしたがるんでしょう。それも、原因はおよそくだらないことばっかり。いままでは、口喧嘩なんて子供のやることで、おとなになったら、しなくなるものかと思ってたのに。もちろん、れっきとした理由のあるときもたまにはありますけど、ここで言うのは、ただのくだらない口喧嘩のことです。こういうことには慣れるべきなのかもしれませんけど、わたしは慣れませんし、いつか慣れるとも思いません。


アンネ、結構強かったのね。自分のことを全否定されても対抗したり反論したりと、つ、強い…。惚れ惚れするよ。



江藤淳『なつかしい本の話』を読み終わる。

紹介される本、全部読んでみたくなってしまった。
どちらかというと江藤さん本人の思い出話が多めで、その時寄り添っていた本を少々といった感じだったけれど、それでも思い出深さが伝わって興味を抱いた。

幼い頃から病弱で、死が近く感じられたからこそ見える世界や視点に、とても惹かれた。本に対する重さにも。
この方の他の作品も読んでみたいなあ。




谷崎由依『遠の眠りの』を読む。

家から追い出され、友人の家に住まわせてもらっていたが、そこからも出ることになった絵子は、人絹工場で住み込み女工として働くことになる。


あるとき、夕飯に正体不明のものが出た。茶色くてどろどろしていて、体臭に似た匂いがする。
(略。それは)ビーフシチューというもので、牛の肉が入っているらしかった。
牛肉を食べる習慣のことはもちろん知っていたけれど、実際に口にするのははじめてだった。
(略)翌朝ムツ(同じ女工仲間)は腹を下したし、絵子もまた同様だった。(略)


日本は少し前まで、牛肉も牛乳もバターも卵もパンも、なかった。食べていなかった。でもアメリカが自分たちの利益のために入れ見事に成功。なくてはならない物という認識になってしまった。ただ日本人の体質にとって合わないのは確かで…。
それでも全てほどほどなら良いのだけれど…。


(略)誰かが誰かを恨みに思うとき、かならずしもその相手の悪意が関わっているわけではないのかもしれない。場合によってはそれは、妬みであることもある。たとえば正しさ--(略)圧倒的な正しさの感覚への妬み。







9月29日(日)



発掘調査に行ってきた。ついつい。
結構大成功な気がする。「折々」以外は知らない本だったけれど、見た目といいキーワードといい、なんか良さそうだなあと。
『王妃マリーアントワネット』なんか特に、分厚さといい見た目といい中の文字の感じといい、全部が完璧に好み。内容は分からないけど、多分大丈夫だろう。

それにしても、あまり買わない単行本を買ってしまった。置き場所困るからあまり買わないようにしているのに、つい…。
でも良い発掘だった。合計千円とちょいだしね。良い買い物な気が。ただ置き場所考えなきゃなあ。



谷崎由依『遠の眠りの』を読む。


(略)金銭というのは大変なものだと、内心絵子は驚嘆した。それは人間に取り憑いて、性格まで変えてしまう。



『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読む。
「安倍能成と津田青楓」編を読み終わる。

夏目漱石の話。

津田青楓といえば、集英社文庫の表紙の絵の人だ。知ってるからこその感動。
津田さんは、夏目漱石に絵を教えたこともあったのだとか。


(略)西洋流に写生を中心にやったわけだ。ほんの一枚か二枚やったんだけどね、漱石という人は写生ということがきらいなんだ。物を前において写生していても、先生はすぐに自分で勝手なことを描きだして、それで写生はやめになってしまった。


凄く分かるよ夏目さん。
絵の基本は写生だもんなあ。たくさん写生するからこそ上手くなる。分かってはいるけど、つまら…。写生した上で夏目漱石と同じように勝手に不思議なものを加えたら駄目だと言われるし…。そういえばそれでやめてしまったんだよなあ。絵描くのは好きなんだけど、自由がないから。自由を許されるのは天才だけということかな。凡人は筆を置きます。見る専に回ります。


津田  芥川なんかも、ずいぶんかわいがられたね。
安倍  そうだ。芥川龍之介は、ひじょうに先生を敬愛していたね。(略)芥川の先生に対する心持ちは、きわめて純粋だったんだね。むろん、生前に小説「芋粥」を「新小説」に先生が紹介されて掲載になったということもあった。そんなこんなで芥川は、自分の全集は先生の全集が出た岩波から出したいと遺言して、岩波から出すことになった。今は著作権がないので方々から出ているけど。


ほぉ。





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様に安らぎが訪れますよう、願っております。
ではでは。

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