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檸檬読書日記 カフカが付き纏い、過去と未来を見つめ、太宰治の煌めきを知る。3月4日-3月10日

3月4日(月)

か、か、か、カフカの本が出ている!

マリ=フィリップ・ジョンシュレー『あなたの迷宮のなかへ:カフカへの失われた愛の手紙』

カフカの本というか、カフカに宛てたミレナという女性が書いた手紙を集めたもの。
読みたい。

少し前にカフカ関係の本を読んで、お腹いっぱい、暫くはいいかなと思っていたけれど、これはかなり気になる。
けれどこの本を詠むなら、まず『ミレナへの手紙』を読むべきだろうか。んー。

あぁそれにして、自分は暫くカフカから逃れられないようです。





3月5日(火)

荒川洋治『文庫の読書』を読む。

文庫のみに厳選された文庫本案内エッセイ。


多くの場合、一冊の単行本から、一冊の文庫になる。単行本化という最初の世界を通ってきた文庫に、読者は安心して向き合える。そして、文庫から始まる、新しい世界を見ることができるのだ。読み終えたあと、柔らかくなった紙の感触もいい。読んだ。確かに読んだ、しっかり読んだ。そんな気持ちになる。それが文庫だ。
文庫には、古典的価値をもつもの、これからの時代にこそ光を放つものも多い。読書生活の大きな部分は、文庫を読むことで形成されるといっていいように思う。


自分は基本的に文庫派というのもあって、文庫だけというのはとても参考になって良かった。こういうものを求めていた。

本の感想、エッセイというよりかは、紹介や案内という言葉がしっくりくる。あまり自分自身の感情を入れず、淡々とした文章で紹介されている。だから読みやすいものの、少し物足りないような、個人的にはもう少し熱があっても…とは思ったけど、その分ゆったりという気持ちで読めるのは良いところ。

同じ作品であっても、出版社や訳者が違うものがある場合には、どれが新しいや、どれが読みやすい等も書いてくれているのも、凄く有難い。
文庫派には堪らなくためになる、そんな一冊だった。


Amazonのリンクが貼れなくなってるので、復旧するまで代わりに写真。



高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』を読み始める。

何がどうなってそうなったのか忘れてしまったけど、おすすめされて読んでみることにした本。
戦争についての本や小説や詩を通して、自分たちの戦争を考えるというもの。

まず著者は、小学生が最初に習う国語の教科書に着目した。
教科書には、著者は明記されていない。たくさんの作者・作品は載っているが、それを選別した者の名は書かれていない。では誰なのか。


(略)その「教科書」に「わたし」と「わたしたち」と書いてあるとすれば、その「わたし」や「わたしたち」は、誰なのだろうか。自信たっぷりに、子どもたちになにかを教えようとしている誰か。それは、「国」ではないだろうか。ときにははっきりと、ときにひそかに、わからぬように、「国」が「著者」として教科書を「書いている」のである。


教科書を、いや、とりわけ、公的な背景を持つ歴史の教科書を読むとき、ぼくたちは、その「国家」の「声」を聴き取ることができる。それは、ふだんは、ほとんど知ることのないものだ。誰でも、ふだんは、自分の属する「国家」の「声」しか聴かないからだ。そして、そんなふうに、いつも耳にする「国家」の「声」は、当たり前すぎて、「国家」の「声」であることさえ忘れるのである。


教科書を誰が作っているのか、考えたこともなかったけど、そう考えると恐ろしく思える。舵を握られているのだなと。

教科書に関して、様々な国の教科書とも比較がされていて、その点も興味深かった。その国にとっての重要性が分かる。



高原英理『川端康成異相短篇集』を読む。
「たまゆら」を読み終わる。

曲玉を糸に3つ通して揺らすと、かすかな音がするという。それを「たまゆら」と言い、治子はこときれる寸前にも、その音を聞いたという。
3つあった曲玉は、それぞれ形見として分けられ、その1つを「私」がもらう。
「私」は、たまゆらを聞けなかったことを後悔し、嫉妬し…。

頭が弱いせいなのだろうか、完全に理解することは出来なかった。「たまゆら」が境目からなる囁きとしか…。


(略)晩春と初夏との境で、みずみずしい季節であった。やわらかい緑のなかの八重桜の色がまたやわらかいので、私は曲玉をかざして、片目にあてると、片目をつぶった。曲玉を通して濠向うの木々を見るつもりだったらしい。ああ、きれいだと、私は吐息した。手の指ほど厚みのある、古代の翡翠を通して、向うの見えるわけないのだが、曲玉そのものがすきとおって見えたのだ。
青碧色というのか、翠緑色というのか、思ったよりも緑の勝った青で、この世の色でないように美しい。玉そのものの色が外に逃げないで内にこもるという透明度で、曲玉のなかに深い色の世界があるようだ。夢の空であるか、夢の海であるか、しかし、あざやかな五月である。


ただとても綺麗で、微かな音がふんわりと広がり耳の中を通り抜けるようだった。
静かな美しさがあった。





3月6日(水)


もらった大きな金柑を蜂蜜煮にした。
お店で売っているものみたいにできて大満足。

一応種も取っといたけど、植えたら出てくるのかなあ。試しに撒いてみようかな。
この金柑、名前聞いたのに忘れてしまったけど、絶滅危惧種(?)のものらしいから、増やせたらいいよなあ。



高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』を読む。


長い間ずっと、どうして、ぼくは(略)「戦争」に関する思い出話を聞くことが苦痛なのだろうと思ってきた。
しかし、「戦争」に関する思い出話に反発し、苦痛に感じるのはぼくだけではない。もしかしたら、あるときから、この国の人間の大半は、自分が経験していない「戦争」について、経験者が話すことに、うんざりしてきたのかもしれない。


正直自分も、あまり聞きたくないとずっと思っていた。だから戦争関係の本は避けて、今まで読んでこなかった。
それはやはり、うんざりというよりも「聞きたくない」からなのかもしれない。せっかく違う世界に行くために本を読んでいるのに、暗い気持ちになりたくない、特に戦争は現実の延長線上だから、恐い知りたくない見たくないという気持ちが大きかったのかもそれない。
真実というものは、それほど怖く恐ろしく、目を背けたくなる。考えたくなくなる。


ある日、突然、人びとは「戦争」に巻き込まれるんじゃない。
気づいたときには、「戦争」のさなかにいる。いや、最後まで、自分が「戦争」の中にいることに気づかない人もいるのかもしれない。ぼくは、そんなことを考える。


でも、考えないで目を背け続けていると、気づけなくなってしまうのかもしれない。
その方が怖いなあと、最近思う。


誰がしゃべっているのか、誰が書いているのかわからないようなことば。それは、つまらない。つまらないだけじゃなくて、イヤな感じがする。
こういうことばには、気をつけなくちゃならない。
「大声」は、特に要注意だ。
どの時代にも、どの世界にも、「大声の人」がいる。
そういう人たちは、「大きなこと」について、「大きな声」でしゃべる。そういう人たちの特徴は、他の人たちのことばを聴かないことだ。(略)そういう「大声の人」は、他の人から、少しでも文句をいわれると、もっと「大声」になる。(略)そうすると、ふつうの声の人たちは、もう我慢できなくなって、黙ってしまう。(略)
そういうふうにして、世の中には、「大声の人」ばかりになってゆく。そして、その「大声」は、誰かを攻撃するものだから、そうではない人は、なにもいわなくなる。誰だって、「大声」で攻撃されたくないから。そして、「戦争」は、いちばん、「大声の人」に適した時代のでしごとなんだろう。


そういえば、この本の中にもカフカが出てきて驚いた。
君、そんなに前は出てこなかったじゃないか。





3月7日(木)

おでかけ。





3月8日(金)

カフカフカ 城の窓から カフカフカ 変身し顔 覗かせ見ゆる

カフカ関係本読んでからというもの、今までは全く出てこなかったのに、ちょこちょこ現れてくる気がする。ふとした時に顔を出す。避けても避けても、追いかけてくるよう。
もうやめてくれー。



高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』を読む。


「遠い」と感じることばがある。ぼくたちが使っているのと同じことばなのに、なぜかとても「遠い」と思えることばだ。
その一つは、多くの政治家のことばだ。
(略)
以前、ある有名な政治家とラジオで話したことがある。その有名な政治家は、ぼくがする質問に、ただの一度も答えなかった。ただの一度も。
いや、回答はした。けれども、それは、ぼくの質問への回答ではなかった。彼は、自分がしゃべりたいことだけをしゃべった。(略)
その政治家にとって、誰かと話をする、というのは、会話をすることではなかった。コミュニケーションをとることでもなかった。「自分の意見をいうこと」だったのだ。


そんな人ばかりだから、国民の声は届かないのだろうなあ。そして確かに、聞いてても皆回答がちぐはぐで、何を言っているのか分からない。
でもそういう人たちは大概「大声の人」だから、選ばれてしまう。だから結局、変わらずぐだぐだ。自分中心で良くならない。
でもそういう人たちを選んでいるのは自分たち。んー、辛い。見る目が…。
どうにかこうにかずるずるっと出来ないかなあ。箒でぱっぱっと。
そんでもってピカピカの1年生みたいなね。もうすぐ入学式の時期だしね。合わせて。(合わせて?)



『暮しの手帖』26号を読む。

今回もとても素晴らしかった。
創刊75周年記念特大号とあって、読み応えも抜群。特に「あの人の本棚より」で、数人の本棚やおすすめ本を知れる特集はとても良かった。
角田光代さんの本棚は、いつ見ても圧巻。

個人的気になった本(メモ)

吉田修一『永遠と横道世之介』
ティム・オブライエン『戦争に行った父から、愛する息子たちへ』
ユリー・シュルヴィッツ『よあけ』

そして今回、胸に深く刺さったのが「これからの暮らしの話をしよう」での、武田砂鉄さんと上間陽子さんの、沖縄についての対談。

沖縄の問題について、昔から色々と言われてきているが、まだまだ終わっていないことを実感させられた。

もう全部載せたいぐらいだった。
変わらない、口だけの政府。
他人事で、軽くとらえて笑う人たち。
若年出産を支援する施設、ケア、安心出来る場所の少なさ。
沖縄の問題を通しての日本全体の問題。
それらを訴えても全く届かない、届いていない現実。

考えさせられること、考え続けなくてはいけないこと、受け止めなくてはいけないこと、それらが短い中でたくさん書かれていた。


武田「沖縄の主戦場が沖縄だけであると捉えるのは、自分たちは飛行機でそこから離れられる、と考えているということ。何かのメモリアルにだけ報道して一時的に考えるのではなく、日常的に、それぞれの現場で考えたいですね。」


考え続けなくてはいけないと、改めて思った。
自分の言葉では薄っぺらくて、余計に軽いものになってしまってそうなのが心配だが…。
多くの人に読んでほしいなあ。



のっぺらぼう!?
歩いていたら、仮面のように白い顔、目も鼻も口もない顔を見かけ、驚いて2度見してしまった。けれどよくよく見たらそんなはずはなく、ただ白いマスクに白いキャップを目深にかぶっていただけだった。
目の錯覚かー!
平成ぽんぽこじゃなかったー!





3月9日(土)

米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読み始める。エッセイ。

凄く良い本に出会ってしまった。
最初の段階から、グサグサ刺さりまくっている。
もう良すぎて興奮が止まらない。(え)
何がこんなに刺さるのか分からないけど、凄く好き。

口調もたまにチクッと毒があったりするけど、丁度いい匙加減で、鋭利になりすぎず、寧ろ癖になる。

何より、米原さんが語る本がどれも興味深く、読みたくなってしまう。語りが上手いのか紹介が読みやすいのか、どれも気になる。割と文字がびっちり書かれているのに、スラスラ読める。
『研究社和露辞典』など、絶対使わないし読んでも分からないだろうに、作者の熱に押されて、読んでみたいと思わされた。

もしかしたら、基本的に自分があまり読まない分野の本ばかりなのも良いのかもしれない。知れる喜びか。

いやぁもう本当に好き。
これはもったいないから、少しずつ読んでいこう。これから少しずつ読むのが楽しみ。

そういえばこの方の本、読んだことがなかったなあ。難しそうというイメージがあったけど、これだけ読みやすくてウィットに富んだ人だったとは。今度何か読んでみようかな。



高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』を読み終わる。


「みんな」と名前がつくものには、気をつけなくてはならない。なぜなら、ぼくたちは、弱いからだ。
「みんな」が同じ方向を向いていると、ついぼくも、「みんな」が見ている方向を眺めてしまう。それは、ひとりだけちがう方向を見るのがこわいからだ。


でも同じ方向は、安心だけど、気づかないまま穴に落ちてしまう危険がある。
だから今の時代、孤高に生きることが大事になってくるのかもしれないなあと、思ったり。

色々と、考えるきっかけとなった。
著者と一緒になって、自分たちの戦争のことを考えさせられた。
書いている著者自身も、まだ答えははっきりとは出ていないようで、もがきながらも必死に掴もうと、考えようとしているのが伺えるのもとても良かった。

本当に、他人事ではなく、過去でもなく、世界の何処かに戦争がある以上、自分たちの戦争を考えていかなくてはいけないなあと思った。
何処かであるなら、可能性はあるということだから。
終わらせるためにも、防ぐためにも、日常や大切な人たちを守るためにも。

この本の最後に、太宰治が登場する。その話が、とても興味深かった。


ぼくは、太宰治の全作品を読み返しながら、もしかしたら、平和の時代であったら、彼の作品は、あれほどまでに素晴らしいものにはならなかったのかもしれないと思った。
太宰治は「戦場」の作家だった。「戦場」でこそ生き生きと輝く作家だった。世界が、焼き尽くされようとしているときでも、いや、そんなときだからこそ、そこに、「文学」の「戦場」を作り出すことができる作家だったのである。


太宰治作品、自分は『人間失格』と『女生徒』しか読んだことがなかった。
けれど今回この本を読んで、作品をもっと読みたいと思った。彼の魅力、輝きを教えてもらった気がする。太宰治は、ユーモアがあると。黒く染まりそうな中でも、染まりきらないように調整し、落ちきらないようにさせる素晴らしさが。
何故気づかなかったのだろう。
でも確かに、太宰治は(個人的に)暗いイメージがあるが、その中でも笑いを忘れていない気がする。『人間失格』も、道化となって笑いを提供しようとしていた、ような。(2作品しか読んでない上に、『人間失格』を読んだのも随分昔であやふや記憶だけど)
「戦場」の作家。体感したい。これから読んでいきたいな。

この本は、戦争自体について、教科書や戦争についての作品・小説から見ていくため、歴史がつらつらと並べている訳ではないから、歴史を知るという感じではない。
当時の人達がどう自分たちの戦争を捉えていたか、が中心であり、それから自分たちの戦争を考えていくといった感じ。でもだからこ、近くに感じることが出来た。

歴史が苦手な人や好きでない人でも、読みやすく、戦争を考える1歩としてとても良い作品だと感じた。





3月10日(日)

大根の 干した葉風で さらわれて 空にぷかぷか 見たら私の

大根の葉を外に干していたら、強風で飛ばされたらしく、行方不明になってしまった。もし落ちてたり飛んでいたりしたら、それは自分のです。見つけたらお知らせを。



ジャガイモ植えは3月10日からというのがあるから、よしと気合いを入れて植えてきた。
今回は去年収穫したものを種にやってみた。
男爵、メークイン、キタアカリ、キタムラサキ、ノーザンルビーの5種類。確か。
どうなるかなあ。上手くいくといいのだけど。

いやぁ、それにしても腰痛い。
次は種蒔だ。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「柳田国男」編を読み終わる。

民俗学者であり『遠野物語』のお方。


一見人の好さそうな柳田は、考古学を蔑視し、国語学や民族学にも毒舌をふるい、嫌いな学者を罵倒する気の強い性格だった。


結構な曲者だったらしい。
島崎藤村が嫌いだから、国語の教科書に詩をのせるなと言ったり。

それでも採集技術はずば抜けており、初めて会った人でも、村の事件などをするっと聞き出してしまうのだとか。凄い。
そうやって情報を集め、旅から旅へと渡り、本にした。
ただ旅ばかりしてたのは、家にいるのが嫌だったからという理由なのが…うむ。

そういばいつか読もうと思いつつ、未だに『遠野物語』読めていない。読みたいなあ。
少々お高く単行本だけど、割と最近出た大和書房の『遠野物語』が気になっているんだよなあ。
表紙がヒグチユウコさんというのが凄く良いし、遠野の写真も入ってるなど、結構豪華な作りなのも惹かれる。欲しいなあ。うーんでも…悩む。




今週は、おでかけが長すぎて収まりきらなかったから、「旅行記」の記事(とはいえ旅行でもプチでもなく、本当にただのおでかけだけど)をもう1つ投稿予定。


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様にいつまでも安心して眠れる日々が続きますよう、心から祈っております。
ではでは。


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