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檸檬読書日記 額縁には名画を、鉄道員は沁みて、国語力を生かしたい。 9月16日-9月23日

9月16日(月)

嘘のように涼しい。これぞ秋。



伊藤悠『シュトヘル』(全14巻)を読み終わる。

なるほど、そういうことかぁ。少し分かった気がする。

物語の中で、1つの文字達が消されそうになる。
主人公たちは、それを必死に守ろうとする。文字というのは、その国の歴史であり、その国で生きた人々の証でもある。それが消されそうになる。そんなこと今まで考えたことがなかったけれど、それはどれほどのものなのだろうか。上手く想像出来ないけれど、きっと命の半分を奪われたような感じなのではないかなと思った。
今まで使っていた言葉、文字が禁止されてしまう。それは今まで積み上げてきた歴史、生きた証、全てが奪われるということで…。言葉にならない。
日本も1度、なりかけた時があるそうで。そうならなくて本当に良かったと思うし、これからもそうであり続けてほしい。

文字は、燃やせば簡単に消えてなくなってしまう。
言葉は、禁止させれば簡単に潰えてしまう。
なんて儚くて脆いものなのだろうか。
けれどだからこそ、言葉は力を持ち、そして美しいのかもしれない。そう、思わされた。








9月17日(火)

昨日が嘘のように暑い。これは夏。



ニコラス・ペニー『額縁と名画 絵画ファンのための額縁鑑賞入門』を読む。

随分前から額縁のことが気になっていた。
美術館で絵画を見る度に、その絵の素晴らしさと同時にそれを支える額縁の素晴らしさに魅了される度に。

絵と一体になって引き立て合うものもあったり、脇役に徹するようにひっそりと絵を引き立てるものもあったり、絵自体よりも目を引くものがあったり、様々で、だからこそ余計に額縁のことが気になった。額縁は、どうやって決められているのだろうかと。そして、誰が決めているのだろうかと。

先週、モネの絵が収められた作品集でモネには額縁があってこそだなと思ってから、より額縁のことが気になった。
そうして探し当てたのがこの本。
ただ、入門とあってか、軽めな内容ではあった。けれど額縁の歴史が知れたり、興味深い点も幾つか知れたのは良かった。
例えば、額縁は絵画に合わせて作られたり、絵画が出来上がった後に取り付けられたものもあるが、取り外せない、絵画と一体になった額縁もある、とか。特に宗教画、祭壇画のためが主らしいが、だからか装飾の細密さ美麗さが凄まじい。額縁というよりも、それ自体が芸術作品という感じがする。

他にも、家に合わせて作られた額縁もあるというのは興味深かった。
大がかりな室内装飾が施された家の内装等に合わせて、額縁は建築物の1部と考え建築家が作っていたのだとか。ただそうなると、その家の中では映えるものの、絵と言うよりも画面装飾という感じが強いため、家以外のところに置いてしまうと、違和感があるのだとか。面白い。

額縁は誰が決めているかについては、様々なよう。作者が決めている時もあるし、ただ作者が貧乏だった場合は安い額縁しか手に入れられず、買い手が変えたり。素晴らしい額縁であった場合であっても、買われた後に変えられてしまったり。時には、額縁が取れない上に劣化している場合は、額縁ごどまた額縁がつけられたり。
結局のところはっきりしたことは分からなかったけれど、基本的に額縁が絵にとって重要な存在であることは分かった。
これから絵画以外にも額縁を見るという楽しみが増えた。これはどういう経緯でつけられたのだろうかと、思いを馳せるのも楽しそう。

でも前々から思っていたけれど、絵画の説明の他に額縁の説明があってもいいのではないかなあと思うのだけれど…。
作者自身が決めたものなのかとか、注文主が決めたものなのか、後付けなのかだけでも…。でも難しいのかなあ。それか額縁に興味を持つ人があまりいないのか…。
額縁のことをもっと知りたいと思ったけれど、額縁に関しての本はあまりないようで…。やはり関心が薄いのかなあ。残念…。







9月18日(水)


おやつ。
チーズケーキにアイスティー。紅茶ゼリー入り。


分かりづらいけれど、キラキラしているのがゼリー



今年は色々な茶葉でアイスティーを飲んだけれど、1番はダージリンで入れるアイスティーが美味しいということが判明した。特に「BREW TEA Co」のダージリンが個人的にイチオシ。少しお高めではあるけれど、上品で爽やか、薄めで入れてもしっかりとした味わいがあって、絶品。
特に最近気に入っているのが、少々のアガベシロップで甘味を入れたこのダージリンと、お供に食べる烏龍梅干し。梅干しの塩気が甘味を増幅させて、これがまた…。良き。
普通の梅干しでも美味しいけれど、烏龍梅干しの方が甘味が優しく絶妙な加減で調和が取れている感じがする。この組み合わせを見つけた自分を褒め讃えたい。(言い過ぎ)

2番目はアールグレイ。アールグレイは癖がある上に牛乳とはそんなに合わないから避けがちではあったけれど、アイスにすると爽やかで美味しいことが分かった。華やかでフルーティーな感じがさっぱりと夏向き。
これまた烏龍梅干しとの相性も、良き。






9月19日(木)

少しオレンジ色に色づいてきた果実に、目が止まった。

「あっ、カキだ。もうカキの時期かぁ」
「いや、牡蠣じゃなく柿ね」

またこの季節がやってきた。
毎年毎年、懲りずに間違えているが、今年もまたやってしまった。どうしてか「柿」を「牡蠣」の発音で言ってしまう。
でも仕方ないと思うのです。柿は1年のうち数ヶ月しか登場しないから…。頻繁に言っているなら間違えないと思うのだけれど。(という言い訳)
きっと来年もやらかして注意されそう…。(そろそろ学習しなさい)



石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を読み始める。

なんとももどかしい。

今の日本は、国語力がない人が多いようで。国語の点数が悪い良いではなく、考える力や想像する力、この世の中を生き抜く上で必要な力が低くなってきているのだとか。
その原因は様々であるが、1番は家庭の問題が大きいらしい。
家庭で起きる問題、暴力や放置、または過剰に接することによる負荷は良く聞くが、それだけではないようで。分かりやすいものだけでなく、一般的な家庭であっても、国語力低下を引き起こしているらしい。例えば、共働きで子どもと接する時間が少ない、とか。携帯ばかりに気を取られて子どもと会話をあまりしない、とか。子どもの意見を聞かず、言っても無駄なのかと思わせたり、とか。理由の分からない苛立ちや叱るが理由を言わないなどで、子どもを混乱させる、とか。
まとめるなら、コミュニケーションを取らない、というのが問題となっているらしい。
会話をしないから、相手が次に何を言うか予想出来ないし、読み解く力がないから質問に上手く答えることが出来なくなっている。

それならばと、家庭では難しい分は学校で…といいたいが、問題は家庭だけでなく教育にもあるのだとか。国語力を身につけるための教育が、今の授業てまは不十分になっているらしい。
それも、詰め込み教育になってから。
将来のために、グローバル化や情報化が進んでいるからと、様々なものを教えようとする。基盤が出来ていないのに、詰め込もうとするから、全てが中途半端になり、ただただ子どもの負担になってしまっている。躓きやすくなるから、容量が良くない子は、身が入らなくなり余計に落ちていく。自分もそうだったから分かるけれど、勉強は嫌いではないのに、嫌になってくるしつまらないものに思えてくるのだ。こんなことやっても意味がないじゃないかと、思ってしまう。

でも本当に、今の教育は意味が無いと思わせる要素が多い気がする。
最たるものは英語。確かにグローバル化が進む中、とえも必要なものなのかもしれない。けれど、基盤である国語が出来ないのに、英語をやったとて…と思う訳で…。
そもそも、小・中・高と英語の授業があるにも拘わらず、日本の英語力はあまりにも低い。外国人が英語が出来ない日本人が多いことに驚くくらいには、低いと思う。かくいう自分も全く出来ないし、英語は特に落ちこぼれ中の落ちこぼれだった。(まあ他ももれなく相当な落ちこぼれなのだけれど…)
そして最近良く聞くのが、小さい頃は出来なかったけれど、大人になって必要性を感じ、勉強して覚えている、という話。
ということは、必要性を感じ学ぼうとすれば、大人になってからでも遅くはないのではないかなと、思ったり。
子どものうちから学んでおけば、と良く聞くけれど、結局ふわっと覚えたものは、直ぐに忘れる。将来のことを想像出来ない子どもにとっては、必要性を感じない。必要性を感じないということはやる気が起きず、ただの苦痛になる。
コンピュータ系も、どんどん変わっていくのに子どもの頃にやっても、使う時には通用しないとかなりそうだよなあと。


大学にせよ、産業界にせよ、彼らは彼らなりに、今の子供たちに必要な力を与えたいと考えて提案しているはずだ。子供たちが必要最低限の知識をつけて大学でスタートを切れるように、グローバル化や情報化の波に乗り遅れないようにと善意で行っているのだ。
しかしながら、子供たちに国語力という基盤がなければ、砂上の楼閣だ。日本語でしっかりと物事を考えて表現できない人が英語で何を語ろうというのだろう。他者の気持ちに寄り添えない人がプログラミングで何をつくろうというのだろう。今の日本の教育において盲点になっているのは、まさにその部分なのではないか。


英語は出来なくても、身振り手振りで結構通じたりする。
外国の方に道を聞かれた際、突然で驚いたのか英語が少しだけ出来る人が、一言も英語を使えず全て日本語で説明していた、ということがあった。それでも相手にはきちんと伝わってるいたから驚き。
別に言葉は関係ないのだなあと、この時思った。そして咄嗟の時は、出てこない。
英語を学ぶのは確かに将来有利になる。でもだからといって、絶対的に子どもに学ばせなくてはならないかといえば、首を傾げてしまう。親ではなく子ども自身がやりたいと思っているなら、塾とかに通わせてあげるとかするのでは駄目かなあとか思ったり。そうしなくても、今はYouTubeとか学べる方法はたくさんある。

シンプルに、授業を国数社理を中心にして、他は表現力を身につける美術とか工作、国語力を高める道徳、協調性等を身につける体育とかだけでは駄目なのかなあと。
他の知識や情報は、大学で学ぶでも遅くない気がするのだけれど。自身が必要とするものを学び深めたいとするのが大学な訳で、そのための大学な訳で、だから他は大学に任せるというのは駄目なのだろうか。


「文科省も、学校も、親も、みんな結局は成果主義なんですよ。すぐに形として表れる結果ばかりを追い求めつづけている。だから、もっともっとという具合に新しいことをやろうとする。
国語力を育てることって成果主義とは真逆で、目に見えないものなんです。一つの詩を丹念に読み込んで感動の涙を流しても、テストの点数に結びつかないし、資格を取得できるわけでもない。でも、そうやって内面で育ててきたものがあるからこそ、何十年か先に誰も想像しなかったような素晴らしい人間性を持てるようになるんです。
私は、人にとって本当に大切なものって不可視なものだと思っています。その子のやさしさを育てる、その子の勇気を育てる、その子の誠意を育てる。どれも明確な方法論があって、数日後に点数化させて見えるものじゃありませんよね。
それでも、その子の未来のために毎日水をやり、丁寧に語りかけ、手を汚しながら土を取り換えて育てていく。家庭でも、学校でも、地域でもそれをやっていく。これが本来の教育だと思うのです」






9月20日(金)

チームK『私たちは売りたくない!』が既に売ってなくて驚いた。2日前に発売されたばかりなのに…。差し止め?



有力候補が3人かあ…。
言いなり君も危険だけど、女の人がなっても終わりだなあ。金、金、金と宣言するくらい人よりお金大好きらしいから、危ない。

いつも思うけれど、何故国民のことを決める人を国民が決められないのだろう。アメリカでも国民が決められるのに…。まあいい候補者を決めてない時点でどっちみちなのかもしれないけど…。悩ましいのぉ。




林檎ゼリーに林檎炭酸水を入れて飲む。ダブル林檎。
当たり前ながら林檎感が凄い。林檎ゼリーの優しい甘みに林檎の酸味がきいたジュース、それに弾ける炭酸が最高。なかなか良いぞ。

ちなみに林檎ゼリーは、ゴールド農園のストレートリンゴジュースで作ったもの。
このリンゴジュース自体が美味しいから、ゼリーも間違いなし。ゼリーにすると調度良いけど、そのまま飲むと濃いから、半々の水で割ると調度良き。






9月21日(土)

映画『鉄道員』を観る。

廃線間近の終点駅「幌舞駅」。その駅長を長年務め見守ってきた乙松は、一人娘を亡くした時も妻をなくした時も、駅に立っていた。最後の駅をも失おうとしている今、奇跡が起きる。

なんて沁みる映画なのだろうか。
雪に覆われるように、大切なものは消え失われていく。その中で取り残されたような寂しさと切なさがじわじわと浸透してくる。
最初から最後まで切なく、心が幾度も揺さぶられた。それでも雪の中で灯る明かりは暖かく、救われるような優しさに、最後は満ち足りたものを覚える。
本当に、素晴らしい映画だった。

全体に、とても素朴な作品ではある。だからこそ、今は作れないだろうな、と思った。いや、求められていないだろうなと。
今の映画は、基本的にバラエティー系か刺激系のどちらかという気がする。(プラス恋愛系か)展開も早く、隙がない。
反対に、この作品は隙や余白が多い。つまりは自分で考えさせる瞬間が多いということ。ただ楽しむためではなく、感じるための映画。見せる映画。
それでも、あっという間に感じた。もう終わってしまうのかと、名残惜しくもあった。
隙、余白が多いのに、2時間弱もあるとはまるで感じられなかった。反対にバラエティー系や刺激系は、展開が早いが、凄く長く感じてしまう時がある。だから1度目は楽しく観れるけれど、2度目とはあまりならない。(個人的には)
『鉄道員』も、直ぐに2回目を観るかといわれるとそうではないけれど、年後10年後、きっとまた観たくなる。何度も思い出し、何度も観ることになるだろうなと思った。

この映画を観て、大竹しのぶさん、やはり演技が上手いんだなあと改めて思った。その演技の素晴らしさに、感動さえした。高倉健もまた良く、あの渋さと滲み出る優しさにはグッとさせられた。

そして主題歌の作曲は、またもや坂本龍一。素晴らしい映画には必ず名が出ている気がする。歌は娘さん。
主題歌も良かったけれど、映画内で幾度も歌われた曲が個人的には惹かれた。大竹さんの少し籠るような高い声で歌われるあの曲。鉄道員の曲。明るさと切なさを呼ぶ、印象的で心に残る曲。

見終わった後も、何度も思い出している。いくつもの映像が、流れ、その度にまた、込み上げてくる。心を揺さぶられる。
観れて良かったと思える作品だった。もうこんな作品は、きっと生まれないかもなあ。だからこそ、いつまで残ってほしい。

原作は浅田次郎さんなのだとか。読んでみたいなあ。







9月22日(日)

石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を読み終わる。


自らを言語化するというのは自分自身を理解するだけでなく、周りの人たちに自分のことをわかってもらうことでもある。親やきょうだいは当人のこのを理解すれば、考えを改めたり、それまでとは違う形で触れ合おうとしたりする。こうしたことを堅実に重ねていくことが、社会で安心して生きていくということなのだ。


国語力が低くなることで何が問題かといえば、想像力や考える力がなくなることだという。想像力がなければ、相手が何を思っているのか理解することが出来なくなる。考える力がなければ、未来を予想することが出来なくなる。そのことによって最大の問題は、誤解や衝突が多くなるということらしい。
誤解とは例えば、母親が息子に対し「勉強もしたしね」と言った。直後、息子は激怒し母親を殴るということがあった。それは何故かといえば、前の文章と後の文「しね」を切り離して考え、「死ね」と言われていると誤解したのだそう。信じられないことだけれど、それほど読解力が落ちているらしい。
文書をひとまとまりとして考えられず、尚且つ相手がどういう感情・感覚で言ったのか想像出来ず、その上勘違いでも怒って人を殴ってしまったらどうなるのか、予想することさえ出来なくなっているのだ。
これだけでも恐ろしいけれど、その上やった事が悪いことだと理解することも出来ないから、罪悪感を抱くこともないらしい。だから犯罪を起こし捕まっても、またやってしまうのもそういうことなのだとか。そして詐欺や窃盗を命令されてやる人や、闇バイトに乗ってしまう人も、そんなことやったら捕まるに決まっているのに、自分の将来を台無しにすることなのに何故やってしまう人がいるのかというと、そういうことらしい。
想像する力、考える力があれば、悪いこと、やっては自分に不利になることは分かるが、それがないと簡単に自分を貶めてしまう。それゆえ生きづらさを感じ、追い込まれてしまう。

悲しいのが、子どもが悪いことをして学校側や被害者側の親から注意しても、子どもは理解できないのは勿論、その子どもの親も何故悪いのかが理解出来ないということも増えているらしい。それがまた親になると思うと…。
だからこそ学校の教育というのは、とても大切なものだと強く思う。そして国語力を育てるために頑張っている学校も、あるのだとか。
例えばある中学校では、『アンネの日記』を教材にして、1年間を通して取り組んでいるらしい。そうして、理解力を深め想像力を磨き、自分の考えを言葉として表現する力を身につけていく。
そしてアンネ自身のことだけでなく、その背景にも着目することで、歴史なども学んでいく。
とても素晴らしい取り組みだなと思った。たくさんのものを浅く取り組むよりも、きっと1つのもので充分なのだろうなとも。

他の学校では、哲学対話の時間というのもあるらしい。1つのものを題材に、皆で考えていく授業。ただ、1つルールがあり、他人の意見は否定しないこと。そして必ず答えは決めないことにしているらしい。そのことにより、考える力や相手の意見を聞き取り入れる姿勢、こういう考え方もあるのかという柔軟さを身につけていく。
その箇所を読んで、とても羨ましいなと思った。そんな授業があったら、楽しいだろうなと。
頭は悪いけれど、考えることが好きな自分にとっては、凄く羨ましい。ひとつの事に対して深く考え、意見を聞けるというのも、今まで哲学対話をする相手がおらず出来なかった身としては…。まあいても問題はたくさんあるけど…。

本の中では、ゲームにおいての問題のことや、どうやって国語力を奪われてしまったかの例、そして国語力が備わらなかった人達に国語力を身につけるためにはどうしたらいいかなど、考えさせられることが様々載っていた。書ききれないほど、全てが勉強になった。

やはり理解することは大事だのなあと改めて思った。ニュースなどで犯罪を見る度、何故そんなことが起きるのだろうか、何故そんな考えになるのか分からなくて、モヤモヤしていた。
けれど本を読んで、少し分かった気がする。理由はあったのだなと。だからといって許されることではないけれど…。やはり、生まれながらに悪い人はいないのだ。全ては状況環境によって起きている。
知れて良かった。読めて本当に良かった。

そして本を読まない人が増えていると、問題になっているのは良く聞くけれど、問題はそれ以前のことなのだろうなと、この本を読んで思った。
本を読むことで、想像力や考える力はある程度身につくし、読むことは大切なことだと今でも思っている。
けれど今の状況では、読んだとしても刺激的な箇所しか残らないのではないかなと。
国語力がなければ、読んでも想像出来ないのだからきっと退屈なものになる。退屈なものを読む訳がない。それでは、どんなに読めと言われたとしても、増えない。
だから本を読まない人が増えているのを問題にするならば、国語力を身につけるため、教育を見直してほしいなあ。まずはね。
切実に、本を読む人が増えて欲しいから。

なんやかんや書いたけれど、自分も国語力を上げる努力をしなければなあと強く思った。自分も国語力が低い側の人間だから。
昔から親に主語がないと怒られ、言葉が足りないから誤解されたりしてきたけれど、面倒臭いからと避けてきてしまった。伝わらないなら仕方ないし、誤解されて自分が悪いように見られても、弁明する気力も起きなくてそのままにしてきていた。でもそれでは駄目なのだろうなと、それではいつまで経っても国語力は身につかない。身につかなければ、相手のことは勿論自分のこともどんどんと分からなくなってしまう。
そう考えると、日記や本の感想を書くということは理にかなっているのかもしれない。
日記は出来事を振り返り、客観的に自分や周りを振り返えって見ることが出来る。感想は自分の考えを深め表現する、言葉にすることが出来る。
たまに何故こんなことをしているのかと思うけれど、続けることが大事なのだろうなあ。違う形になっても、日記や感想を書く行為は続けていこう。




『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読む。
「夏目伸六と中野好夫」編を読み終わる。

夏目漱石の話。

頭の病気の状況が悪い時、機嫌が悪く危ない状況になるため、子どもたちはひやひやしていたのだとか。理由も分からずに呼び出され座らされ睨まれ続けたりもしたらしい。
親が機嫌が悪くなるのは、子どもにとって恐ろしいことだよなあ。それも予想がつかなく、理由も分からないとなると…。
意外な一面だった。
そして相撲が好きというのも。機嫌が良い時は相撲をしたりもしたのだとか。
見てみたかったなあ、夏目漱石の相撲。



稲作でメタン発生は、土に水を張っていて酸素が入らないからと聞いたけれど、それならコンクリートで土を埋めてしまっている方が問題なんじゃないかなあとか思ったり思ったり。それで土面積が減っているからではとかとか。減ってきている稲作をこれ以上いじめないでくれー。






ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様が言葉に溢れ生きやすくなりますよう、願っております。
ではでは。

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