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文章を書きたいだけ/19歳までの私


noteを書くときって朝の誰もいない教室感がある。



高校生のとき、なぜか4時ごろには目が覚めて7時には学校にいたw朝陽が赤く燃えていて、オレンジのグラデーションも幻想的で、めちゃくちゃ綺麗でひたすらぼーーっと見ていた。


L'Arc〜en〜Cielを歌いながら、チャリで最短45分の旅だった。ずっとミルクティー派だったのに、その頃はレモンティーばかり飲んでいた🍋


教室に人が集まり出したらバレーボールとかしに行って、授業を受けて、早弁して、たまに部活などをやり、10人ぐらいでプリを撮り、ファーストフード店とかでお茶して、チャリで帰るのめんどくなって、電車で近くのおばあちゃん家まで寄って、はちみつ入りのコーヒーと美容にいい食べ物をもらって、バスに乗って家に帰ってきてた。チャリは学校に置いてw


ここではない何処かってなに?と聞かれたら、高校生のときに早朝の教室でひとりで見てた朝陽って答える。みんなが知らない色^o^❤️


英会話が好きだったから英語が多く学べそうな学校へ行ったんだけど、帰国子女とか自分よりもできてる人が多くて、授業のスピードも早すぎてぜんぜんついて行けず、授業初日に絶望を感じ、会話を楽しむ授業もなく、あまり英話が好きじゃなくなってしまった。


それまでずっといちばんだったから、いちばんじゃないと楽しめなかったwそのときに、今までは予習をしてきたから楽しかったんだとわかった。遊ぶために高校へ進学した私は、予習をする習慣も余裕ももうなくなっていた。自業自得である。


そこから興味が失せてしまい、夏期講習なども勝手にサボってしまい、先生にめちゃくちゃ怒られて、遊ぶ以外の学校生活が楽しくなくなる。


学校は1年で辞めてしまう。うちにはお金がない!と思ったのです。なぜなら私が高校へ入学してから両親がお金のことで毎朝大喧嘩をしていた。


そして学校への交通費やご飯代を、毎朝機嫌の悪い人間に話しかけて交渉しないともらえないというストレスがあった。だからできるだけチャリ通をしていた。疲れはするけど風が気持ちよかった。


学校の人間関係も少し煩わしくなっていた。クラス内でイジメが流行り出して、それを見てるのも間接的に関わるのも面倒になっていた。みんな勉強のストレスで潰し合ってるなぁ、もっとサボればいいのにと、サボり魔な私は思っていた。


家の悩みとかを話せる友達や先生は1人もいなくて、みんな幸せでお金に困ったりしてないのかなぁなんて思うとすごく惨めになり、友達はいっぱいいたけど本当のことを誰にも話せないのが精神的にきてしまい、軽い鬱になっていた。


本当のことを話したところでお金が湧いてくるわけでもないからね。なんかすごい弱ってたなぁあのころ。


海外のホームステイにも1ヶ月間行く予定だったけど、うちには飛行機の往復代とホームステイ代を払うお金はあったけど、そのほかに1ヶ月分の食費やなにかあったときの雑費も必要だけど大丈夫?と母親に聞くと「え……あ、だ、大丈夫だと思う!」って反応だったから、私行けないじゃん無理じゃんって思い知らされたよね。


両親は行かせようとしてくれてたけど、食費と雑費を想定してなかった。無料だと思ってたのかもね。私は海外はそんなに甘くないと思ってて、土台が不安定なまま国を越えるのは不安が大きすぎて、海外のホームステイには行かないことを決める。


そして、お金のことで両親が争うときの怒鳴り声がもう本当に嫌というか、不快だった。そのタイミングで母親に「あの人があなたの入学金を出してくれたのよ!?」と言われた。あの人とは母親の再婚相手のことで、私はそんなことは知らなかった。


そこまでしてほしいと頼んでないからものすごく気持ち悪くて、そこで即退学することを決めたと思う。そのほうがマシだったから、迷いはなかった。


頼んでねーーーーーんだよぉぉぉ!あのさぁ、頼むからなにもするな!!!結婚相手の娘だからって関わろうとしてくるな!!!他人の世界に土足で入ってくるな!!!これが素直な気持ち。


まぁ、せっかくの善意を母親が最悪な感じにバラしちゃったのが大ダメージだった。母親も学校を辞めてほしくなかったんだろうな。でももう無理なんだよ。私は疲れた、鬱である。


母親に聞かれたことがある。お母さん達と暮らす?と。絶対に暮らさないと即答した。なにが悲しくて私とは全く関わりのないおっさんとひとつ屋根の下で暮らさなきゃならないのか。その提案をしてくること自体が嫌だった。同じ家の中ですれ違ったり目が合うのすら嫌。 



母親は実の父親(私の祖父)を早くに亡くしていて、今のおじいちゃんと小5のときに一緒に暮らすことになった。最初はすごく怖かったと思う。おじいちゃんはたまたま思いやりのある優しい人間だったけど、他の人はわからない。大博打だ。世の中にはとんでもねぇやつもいる。



母親は父親のDVを知らない。助けようと思って提案したんじゃない、一応礼儀として言っておかなきゃいけないのかな、、が透けて見えた。母親はそういうところがあった。


だったら自分家でDV父と暮らすほうが100億倍マシだった。そのときはもう父がDVを発動しても、自力で倒せるようになってたからwww


わはは)^o^(
障害は素手でぶっ壊すタイプです^o^💪💪
※悲しい


父親に退学することを話したときに、お金のことは気にしなくていいと言ってたけど、現実を見ろと思っちゃった。けど父親、母親には入学金は払えないと言ったらしい。よくある母親の早とちりだったのかな。それか"そのとき"本当になかったか笑
※この10年後、あーしはとんでもないお金の使い方をしはじめますgkbr


ただね、こうなりたいから今この勉強をする!っていうのはなく、やる気もなかったから、親に高い授業料を払わせ続けなくてよかったなと思ってる笑 ホームステイの件はちょっぴり悲しかったけど🥲



高校を辞めて(春休み初日)すぐにやったことは、毎日夜の12時から昼の12時まで寝て、起きたらお気に入りの公園へ向かい、近くに住んでるお友達Aちゃんを呼んで、お日様の下で思う存分喋らせてもらっていた。たまにカラオケで熱唱した。


そこで軽い鬱はよくなってきた。近くに住んでた友達と公園とお日様(セロトニン)が本当にありがたかった。ポッカポカやで🌞


春休みが終わると通信制高校に編入する。通信制は私にとってすごく楽だった。あまり学校へ行かなくてよくて、レポートは郵送すればOK。これはいっぱいバイトができる!と思っていろんな仕事を掛け持ちして調子に乗っていたら、卒業の単位が取れなくて1年留年してしまったwww


いっぱい働いてバンギャル活動もガチガチにしながら無事に高校を卒業🤝


高校を卒業することだけは両親との約束だった。父親は元々無関心なのと、母親はもう別居していたので、留年したことは誰も気づいてなかった😂



初バイトは球場のビールの売り子だった。


背中に背負ってるビールがとんでもなく重たいので、威勢よくビールを売っていましたwお釣りいらないよーと言ってくれる気前のいい方が多く、だいたいそのお釣りが日給よりも多かった。めちゃくちゃ楽しかったけど、肩と体力が持たずすぐに辞める。


次にコンビニバイト、セレクトショップの店員、厳しすぎる単発の派遣、キャバ嬢、モデルと映画やCMやドラマのエキストラを1年間だけ。これらを全部掛け持ちしてた気がする。
※すごい力だ…今じゃ考えられなぁぁぁぁぁい


たかがエキストラでも、ガチでやると使ってもらえるときがあるw名も無いただのエキストラだったから、自分の中で勝手に役を作って、監督やスタッフからの要望は柔軟に入れてそれに徹してた。だから楽しかった。


総長になったり、バンドマンに恋してる乙女になったり、緊張して話について行くのに必死な新入社員になったりww


あと、友達と一緒にメイド喫茶の面接に行ったら、元気すぎて雇えないと言われましたw


キャバクラで指名のお客様は、ちょっとマゾっぽい人が多かった。


そんな感じ。


文章を書きたかったので、私の高校入学から19歳までのお話を気まぐれに書いてみました。


気まぐれなので続編はないと思ってください
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ\❕


グッバーイ!




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