「 信仰に対する羨望と恐怖心、そして憎悪へ。(白い人/遠藤周作) 」 

私は、
でもなく、どうしようもなく主人公側に属し、どんなに抗おうとも、そちら側に振り分けられる存在であると思う。

やはり「信仰」というものに強く興味がある。
その激しいが、でも、穏やかで清々しいまでの頑なさに美しさを感じる。
素直に憧れる。それが自分を貫く感覚を味わってみたいと思う。
信仰心を有するというのは一体どんな感覚なのだろうか。
今の自分とではどんな風に違うのだろうか。
素直に知りたい。

信仰に呈する憧れ。強い興味。
募るとやがて、そのあまりの強さへの恐怖心を抱いてしまうのではないか。
自分の持つ材料からでは見出すことのできない未知に対して、恐ろしさを感じることを避けられない。
そして、やがて憎悪や妬みへの道が開けて言ってしまうのかもしれない。
どうだろうか。
自分の中にもそういう感情が芽生えてはいないか。渦巻いてはいないか。

「塩狩峠」を読んだ時だった。
信仰というものに対して美しさと同時に、私は確かに恐怖心も抱かずにはいられなかった。
当時は「美しさ」に焦点を当て、ただ羨望の眼で見ていたと思う。
ただ、自分の中にも信仰というものを見出していけるのだろうか、と、自分なりに信仰や宗教について学びを深めていく中で、際立って行ったのは「恐怖心」の方だった。
私にとって宗教というものは、現状「未知」の部分があまりにも広すぎる。
未知は、やぱっり、恐怖だ。

その頑なさを自分の手で壊してしまいたくなる。
試してみたくなる。
そんな心理が働くのだろうか。

「なぜ、」
「どうして、」

信仰を持つ人々に対しても自分自身と同じような弱さや邪悪さ狡さを見つけて、そうすることで安心したがっているのかもしれない、と感じた。
そうすることで恐怖心に打ち勝とうと、
私には決して届かない「未知」ではなく、たいしたことのない私と何も変わらないものなのだと、自分を安心させようと、納得させようとしているのかもしれない。

だからこそ、恐ろしいほどに美しい信仰を有するジャックやマリー・テレーズに対して試すような行動がどんどんと加速していってしまったのではないか。
信仰と、そうではない部分(そもそも、そんなものは果たして存在していたのだろうか?)との狭間を、信仰が途切れる最果てを、見つけて安心したかったのだと思う。

自分が弱いということに突き付けられると
他者の中からも同様の「弱さ」を見つけて安心する。
それは何の問題解決にもなっていないということを、忘れてはいけない。
いつだって自分の弱さと、ただそれだけと向き合い、戦っていくように生きていかなくてはいけないのだ。

その反面、完璧な人なの存在しないのだから、
自分の弱さや醜さを許すことで、他者のそういう部分も許してあげられるような寛大な心を持つことができるという考え方もできる。

主人公は一貫して自分の暗い面を許すことができなかったのかもしれない。
いつでも信仰を貫くジャックが自分と対比するように立ち上がってくることで認めることも、許すこともできなかった。
翻って、ジャックのことも認めることができず、ひたすらに試し続けた。
そんなふうに考えることはできないだろうか。

忘れられない一冊になった。
何度も読み直していきたい。

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