「 進む方向に角度を与えてくれた思考 ー松浦弥太郎/センス入門・岡潔/数学する人生ー 」

やっぱり本を読むことははやめられない、とつくづく思う。
自分にとってはなくてはならない大切なことだ。自分では満足していた場所からさらに何歩も踏み込んだ深い場所へと思考を広げてくれる。見過ごしていた反省に気づかせてくれる。
どんな本でも私の歩みに少しの角度をつけてくれると思っている。本によってその角度は様々ではあるが、確かに読んだ後の私の歩んでいく方向は少し角度がついている。たったひとつの言葉だったり、一説だったり、一章だったり、読後感に残るなんとも言えないじんわりとした名残だったり、そういうものが角度を作る。
 
角度が付かなけれは、その道のりはずっとずっとまっすぐだ。
角度が1度でもつくと、向かう先は全く違う場所になる。
この道を真っすぐ行くのがきっとより良くて、私らしくて、ベストだと歩む方向を決めた時にはそう確信する。
でもそんな確信はぐらりと揺らいでしまう。
本は色んな道を、選択肢を教えてくれる。
本に出会い、角度をつけて私はこれからも歩んでいくのだと思う。
 
「いつもけっして止まらないというか、いつも成長しているというか、変化している、そういう自分であるということは大切だと思います。自分が変化を止めずにいることが大切だということです。常に新しい自分であるということを受け入れることです。(センス入門/松浦弥太郎)」
本を一冊よむことで、確かに私は変わり、歩む方向も変わっている。
どうしても頑なで頭でっかちになってしまう私を何度も何度の本たちが揺り動かしてハッと目覚めさせてくれるのだ。
 
松浦さんの書籍の中から関連して岡潔さんの「数学する人生」を手に取って、今読んでいる。
まだまだ本は始まったばかりだけど、私を変えてくれる思考に触れることができた。
今の私にとっては少し難しい内容だった、うんうんと悩みながら読み解き、ほんの少し掴み取れた感覚があり、それをどうにか私の中につなぎとめておくためにここに私の解釈を私の言葉で残しておきたいと思う。
 
松浦さんは
「循環させていくということです。「美しい」ものがあったら、その魅力を自分のところで堰き止めてはいけません。独り占めしないことが大切です。
幸せというのは、独り占めするものではないのです。自分の幸せをどうやって分けていくかも、ひとつのセンスなのだと思います。」と伝えてくれます。

自分の思考の整理でもあり、忘れっぽい未来の自分を励ます備忘録でもある。
そして、今の私の心を震わせ胸を打ってくれた思考や言葉を、私番で止めてしまってはいけないという強い思いがある。
素敵な思考や、美しい言葉は私の生きる糧であり、まさに「幸せ」です。
どれくらいの人の心と、どれくらい重なることができるかはけしてわからないけれど、独り占めすることのないようにここに残しておきたいと思う。

書籍「数学する人生」の第一章「最終講義」の文章を、私なりに読み解き、深め、自分の言葉で言い直し、それらを自分の思いと織り交ぜながら書き記していく。

「自分のことは自分が一番わかっている」「自分自身のことをすべて理解してあげる」「すべて自分の意志で自分の人生を切り開いていける」こういうものが正解ではないというのはなんとなくわかってきた。今まで読んできた本、出合ってきた思考からも沢山教わってきて、そういうものだと自分をなんとか納得させてきた。
年を重ねると、昔と比べると「自分」というものが分かってくるような感覚がある、ということも実際否めないでいる。
自分を怖い物ひどい物から守るために、上手にコントロールできるように、難しい世の中をどうにか生き抜いていくために、自分をなるべく素敵に見せるために…どうしても「自分をわかってあげたい」と思ってしまうのだ。とても自然に。
これは私の中にある一つの葛藤だった。

ただ、この「私」という肉体が「生きている」という仕組みを私はその大部分を理解していない。
エネルギーとなる食事は自分の意志で選び取ることは可能であるが、それが体に取り込まれて肉体を「生かす」という仕組みを理解できていない。自分の意志は全く影響力は有さない。意志など関係のないところで勝手に私は「生きている」。

凄く当たり前のことなのだけど、この内容を突き付けられたとき、唖然としてしまった。

「生きること」が苦手だと思う。なるべくできる限り私らしく素敵な人生にしたい。そもそもなんで生きているんだ…?私の心は、いつもぐるぐるごちゃごちゃ慌ただしくしているのだけど、そんなものをよそに私の心臓は鼓動を刻み、血は流れ、ただ生き続けているんだ。

自分をまとめている(主宰している)のは「心」だと思ってしまいがちであるが、それは間違っている。すべてバランスよく調和がとれた世界・自然が成り立ち、今日も進んでいるということは、全てを同じ共通の「主宰」がまとめているのである。(ここの解釈が少し難しい…)それぞれの中にある「心」ではなく、自分だけの中にたったひとつ「主宰」があるのでもない。

自分一人ですべてが完結するという思考を手放さなくてはいけない。

己を木に付く一枚の葉であると考える。狭い視野で、個人主義的な思考でいると、自分はひとりの力で成り立ち生きていると思ってしまうが、葉は木から落ちてしまうともう生きることはできない。葉(=私/自我)が生きていられるのは木(=主宰/真我・大我)が生きているからなのである。

この思考でいると仮に葉が死んでしまっても木は冬を超え生き続ける。「葉=自分」という考えを捨て、「木全体=自分」と考えると自分は不生不滅であり、巡っていくという仏教の教えに繋がっていく。

私が私が、ではなく、大きな全体の小さな一部であることを忘れず、全体の為にという選択をしてみるのも一つの道なのだ。

二つの視野を持つことが大切だという。一枚の「葉」としての営みがあり、それを楽しみ大切にすることも大事だ。それは自分にしかできないものだから。ただ、もう一つの視点を忘れてはいけない。自分の肉体は主宰性を帯びているからこそ存在しているのである。基本のエネルギーを常に「木」受け取っているのだ。一枚で、1人で成り立っていると思ってはいけない。

”幸福とか生き甲斐とかいうものは、生きている木から枝を伝わって葉に来る樹液のうちに含まれている。”

以上が書籍「数学する人生」を読んで足が止まり、考え込んでしまった内容だ。上手く解釈しきれていない部分も多くあると我ながら思うが、完全に私の人生に角度を与えてくれた思考だ。

私自身「幸福・生き甲斐」について思いを巡らせるときどうしても「葉」という視点でしか考えることができなくなってしまう。自分にぎゅっと焦点を集めてしまう。ただ、この思考が木全体にとっての幸せの為にできることを、恩返しできることを、還元できることを考え、その選択をするという道を教えてくれた。

そして自分が知りえる自分なんて本当に微々たるものだということが、初めてすとんと自分の中に納まった感じがする。

「葉」として「木」として。

どんな選択をしていこうか。


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