「 私が「言葉」を残すわけ 」

どうして文を綴り続けるのか。

自分の「言葉」を残すことは怖いと思う。
「言葉」をどんなに思いを込めて選び並べても、届けたい思いとぴったりと重なることがないから。さらに、その「言葉」を受け取った読み手にまたさらにずれが生じてしまう可能性はどうしてもぬぐえないから。
なるべく取り溢すことなく、「言葉」に思いを託し宿らせたいと願っても、完全に上手くはいかない。
自分の実際の行動に責任が生じる。自分が残した「言葉」が多くを禁じ、制限をかける枷となりうると思う。立派な言葉は、素敵な思考はいつでもあるけれど、それに嘘のない「行動」は一つ難しいと思う。自分の言葉で、自分へ負荷をかけることにもなる。

それでも、私が言葉を紡ぎ続ける勇気をくれる考え方がいくつかある。

「自分は、自分よりももっともっと思考や言葉、考え方を欲し、必要としている存在に届けるための媒体であるから。受け取った自分の番で巡りを止めてはいけないから。」
これはヨガ哲学の「清らかである」という考え方。
自分は本を読むのが好きで、学ぶのが好き。ただ受け取ってばかりではいけないと、この思考を学んだときにはっとした。

「周りよりも、お金、知識等、多くを有している者は、それらを正しく使う責任がある。」
これは夏目漱石の思考で心に残っている。
人は知識・財産・成功・地位等を手に入れることばかりに気を取られがちだが、多くはその使い方が重要視されず、ずさんになっている。手に入れたものをどう使うかの「使い方」をもっと大切にするべきだと、ハッとさせられた。果たして、私の有している物が他よりも豊富なのか、貴重なのか、重要なのか、特別なのかはわからないけれど、有していることに間違いはなく、それを私自身はとても素敵で力を帯びていると思っている。有している責任を果たす、と考えた時に、「言葉」で残していきたいと思った。

「ニーチェはカモメの話を語っている。
ひとりで海を飛び続けたカモメは、ある岩に降り立ってそこで力尽きる。
そして、後に続くカモメたちに、自分を超えてさらに遠くまで飛んでくれと願うのだ、と。
私はこれを読んだと気に、ニーチェから直接勇気を届けられたように思った。
私がニーチェから考える勇気を受け取ったように、ニーチェもまた過去の哲学者たちから同様の勇気を得ていたに違いない。哲学とは孤独な営みであるが、それは、時と場所を異にしたもうひとつ別の孤独へと、直接的につながっていけるような孤独である。
ここにこそ、哲学の真の希望が集約されているのではないだろうか。(33個目の石/森岡正博)」
これはニーチェの言葉を引用した、哲学者森岡正博さんの書籍の言葉だ。
哲学を指しているけれど、私が「言葉」を残す理由の一つになった。
色々な本を読んで、思考に触れて、自分の悩みやもやもやと静かに向き合ったり、生まれた思考を言葉として救い上げる。
それは晴れやかになることはほとんどなく、より靄が深くなったりする。明確な何かが立ち上がってくることもほとんどない。でも、この揺らぎが誰かに幅を与え荒れるかもしれない、助けるというよりも、更にもうひとつ遠くにすすむ活力になることを静かに願う。
自分では、長い歩みなのか、それとも些細なものなのかはわからないけど、その歩みを「言葉」で残したいと思った。言葉がなければ、その歩みは私だけのものになってしまう。あゆみを共有することの価値をこの文で教えてもらった。

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