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2022年3月の記事一覧
膝に置く二百二十日の拳かな 田草川㓛子
「椋」2021年12月号より。
膝の上で静かにしている拳。地を耕して作物を収穫する人間の手を、今は少しだけ休ませておきたい。
水めぐる羽衣町も竹の春 海津篤子
「椋」2021年12月号より。
〈羽衣町〉という具体的な掲示が句に説得力を持たせている。人々の生活に葉脈のように巡っている〈水〉。
水も人も交通もお金も巡り巡って町が成り立っている。その葉脈の上にある季節だと思うと、町のすべてがいとおしくなる。
葦のこゑ聴かんとすれば橋に人 石田郷子
「椋」2021年12月号より。
同作者の「来ることの嬉しき燕きたりけり」(『秋の顔』(ふらんす堂、1996))、「掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ」(『木の名前』(ふらんす堂、2004))と並べて眺めたくなる一句。三句の共通点はなんだろう。
自然と人間の共存、とでも言うのだろうか。そんな貧弱な表現しかできない自分にがっかりする。季語をフランクに手元へ引き寄せる力が作者にはある。
蔦いつか閲覧室の内にまで 藤井あかり
小川洋子の小説に出てくる標本室やタイプライター室。長野まゆみの小説に出てくる理科実験室や鉱物資料室。そういう小説を読んできたから、閲覧室にも不思議な物語性を感じてしまう。
〈閲覧室〉は知のアーカイブ室だ。知は〈蔦〉のように人のこころを侵していく。〈蔦〉が〈閲覧室〉を侵していくイメージは知や情報の果てしなさに途方に暮れる私たちの背筋をぞわぞわさせる。
これからのこと語りあふ葛湯かな 立本美知代
「椋」2022年2月号より。
今年の冬、女性五人で吉祥寺のネパールカレーを食べに行った。その際どんな流れだったかは忘れたが「60歳になったらしたいこと」をそれぞれ語り合った。
そのうち一人は南極に行く(冒険家の彼女らしい)、一人は大学に通い直す(彼女はこの春大学を卒業したばかり)、一人は農業を始める、うち二人は出会うべきパートナーと自然のある余生を過ごす(山か海かは悩みどころ)。こんな内訳であ
歩道橋に誰も来なくて冬夕焼 安藤恭子
「椋」2022年2月号より。
もう撤去されてもおかしくない歩道橋が全国各地に存在する。〈歩道橋〉はもはやノルタルジーの存在になってしまった。
〈歩道橋〉を愛する人は多い。だからつい上る。こんなに楽しいのになぜ誰もここに来ないんだろう。その、わたしだけが知っていてみんなが気づかない宝物らしさ。そういうものが小さい頃はたくさんあったはずなのに。
掲句は「来る」という動詞の選択が軽妙。わたしがいる
読経の畳にのびる冬日かな 田草川㓛子
「椋」2022年2月号より。
〈冬日〉といえば思い出す句がありますよね。
大仏の冬日は山に移りけり 星野立子『立子句集』(玉藻社、1937)
名句過ぎる.....ので比較してしまうというより、この句がベースにあってもう季語の本意みたいになっている状態。だから〈冬日〉には仏教の香りがする。澄んだ空気の中のぬくもりは、この国の生活に根付く信仰心。
〈畳〉に家庭の小さな仏間を想像する。仏間だから
皀莢の貧しき日ざし返しけり 海津篤子
「椋」2022年2月号より。
2019年の初冬に名栗の山で皀莢を見た。その日初めてお会いした冬芽さんがほらほら皀莢がこんなに、と指さすので車道に目をやってみるとからからと実のない皀莢がたくさん落ちている。風に吹かれて音をたてていた。
あれは貧しさだと思う。掲句で貧しいのは〈日ざし〉なんだけれど、赤子のお尻拭きシートに「お尻成分」があるように感じてしまうのと同じで、〈日ざし〉を返す〈皀莢〉にも「
椋鳥の百羽に冬の来たりけり 川島葵
「椋」2022年2月号より。
大学に入学して初めての秋。必修の体育でグラウンドを内周したときのこと。いなかっぺのわたしが「この鳥はなんですか?」と女性体育教員に訊くと「そんなどこにでもいる鳥なんか知らんわ」。
そののち、あれはどうやら「ムク」という鳥らしいと気づく。どこにでもいるのに、皆知っているようで知らない。そんなの羨ましいじゃないか。単純に「鳥」と呼びたき鳥だ。ちいさくて愛らしい。ちょっ
武蔵野をきのふ歩みし風鶴忌 石田郷子
「椋」2022年2月号より。
今和次郎『考現学入門』(筑摩書房、1987)を読んだら、井の頭公園がかつて自殺の名所であったことを知った。今の吉祥寺はずいぶん新しくて賑やかな町になったけれど、このへんには暗い影もあったのだな。そういえば太宰治が死んだのもこのへんだったな。波郷は自殺ではなく病死だったけれど、死の匂いは共通する。
これらのことをふまえると、現代のわたしたちが思う武蔵野(市って考えち