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たかが昔話、されど昔話...昔話に潜む"慰め物"だけじゃない壮大な連絡網ー柳田國男を読む_14(「口承文芸史考」「昔話と文学」「昔話覚書」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集 8』ちくま文庫(1990)

序論

 さて、今回は前回の伝説回に関連しての昔話の回となります。

昔話といえば、戦後日本人にあって、にほん昔ばなしという漫画やアニメが大変脳裏に焼きついている感じですが、皆様はどうでしょう。

大人になると"慰め物"要素として、忙しいがモットーのbusiness社会へのある種の反抗、幼児帰りとして摂取するという方も私だけではないと信じたいのですが(白目、まぁ、あとは、変に斜に構えて、冷笑系として扱うこともあるでしょう。それが良いか悪いかはともかくとして、我々の昔話の扱いも今と昔ひいては人生の各段階でも変化していることは容易に想像できるかと思います。

昔話にあっても、人の一生の変化とともに、長く語り継がれてきただけあって、それだけの変化があります。伝説もそうでしたが、昔話には昔話の法則で変化しています。

さて、今回もストライクゾーンが広すぎる系学者の柳田國男氏をお招きし、この変化を通して昔話の理解を深めたい訳です。

言わずもがな、柳田氏は民俗学者ということになっておりますが、これを民俗学的に扱うと...という観点から見ても面白いかなと個人的には読後感想を抱きました。

まぁ、ここでガタガタと与太話が長くなるのが常の癖でありますんで、もう本編へ映った方が良さそうです。

ではでは本論に入っていきたいと思います。

本論

昔話の定義と強さ

...我々がハナシといっているもののうちで、「昔々ある処に」という類の文句をもって始まり、話の句切りごとに必ずトサ・ゲナ・ソウナ・トイウなどの語を附して、それを又聴きであることを示し、最後に一定の今は無意識に近い言葉でもって、話の終りを明らかにしたもの、この形式を具備したのが日本では昔話、西洋の人たちは民間説話とでも訳すべき語をもって呼ばれている特殊の文芸である。...そうしてこの昔話にはだいたいに定まった内容があり、その内容が未開既開の諸民族を通じて、かなり著しく一致している。

同書 90頁

 まず、昔話の用語について、諸外国とりわけ西洋ではなかなか定まりにくく、メェルヘンとフォルクスメェルヘン、コントとコントポピュレエル、フェアリテェルズとフォクテェルズなどと、その総名にあたって、だいぶ苦労が窺えるという。

一方の我が国では、訳語としての民間説話ないし説話というやや堅苦しい語はあるものの、昔話という大変便利な用語が昔からあるわけで、柳田氏が屡々述べるように、諸外国より採集しやすかった背景の一つに考えることもできそうですよね。

ちなみに説話との比較では、説話は標準語のハナシに近い用語であって、冒頭の一句や断りを添える一部の説話が昔話として分かれたのではないかとの分析でした。

伝説との相違は前回触れたので、ここでは割愛しますが、ことに『口承文芸史考』はここら辺の話の総括した嫌いがありますので、整理の意を込めて、一部抄録しておきましょう。

我々が昔話の背後に、仄かにその面目を窺おうとしている上代の神話には、もとあるいはこの三つの側面が兼ね備わっていたのではなかろうか。すなわち語りものはもっぱらその音律句法の外形を踏襲したのであったが、夙く職業の徒の管理に帰し、新たに異郷の文芸と言語とを加味して、おいおいに民衆の実際生活と遠ざかり、同じく実質には触れない伝承であっても、特に初期の興味に固執する後者の文芸すなわち昔話と、永く手を分つに至った...ところが伝説のみはこの二者に反して、かつて信じられたものを信じ続けようとしたのであったが、それは時代とともに不可能になって来るゆえに、しばしば改訂せられまた増補せられ、ただその資材としての昔話...がまず弘く迎えられたのかと思う。

同書 116-117頁

「3つの側面」とは当シリーズで親の顔よりみた例の伝説の特徴(あれ?四つだったような...)のことを指しておりますが、最初の起源は共通としつつも、今ある伝説が悉く当初の昔話を母胎とはしていないと述べております。変遷過程を注視する柳田氏にあっては、ここら辺の区別ははっきりとしておきたいのでしょう。まぁ、いつものように断言は避けてますがね。

民俗学者が昔話を分類してみた()

 いつもなら諸外国の文献を漁っているのをあまり露顕させたりしないのですが、今回は熱が入り過ぎて、だいぶヲタク気質←を隠せないでいます()そんな可愛らしい側面も愛でつつ、為になるヲタク成分をまずは採取したい(限界ヲタしぐさやめろ

どうやら、当時の欧米における昔話分類法の定説に疑念を抱きまくっておりまして、まずは定説とされた3つの大別を紹介しております。

  1. 動物説話(天然説話)

  2. 本格説話(狭義の民間説話)

  3. 笑話

これを日本で適用すれば、抜け漏れ等が生じるとして、猿真似せず、自身で改良を加えたらしいのですが...大体こんなことを仰っておりました↓

社畜快速列車で作成したものなので、だいぶ手抜きです(白目

本書では柳田氏が丁寧に図示しておりますんで、熱心なる民俗学学徒の皆様は、手にとってご確認頂ければと思います(他力本願 

...三つに昔話を分ける今日の通説は、単なる便宜主義ならばともかくも、本質論の上には利なくしてむしろ妨げがある。もとは一続きの纏まった話の中から、特におかしいと思われる一小部分を切り取って、そのだけを話にした点は、笑話も動物譚も同じだからである。この二つの後者が単純幼稚で、前者がやや智能的であるのは、派生独立の時期の早い遅いを示すとは言えるが...必ずしも動物譚の方が皆古いとも限らない。...総括してこれを派生説話もしくは不完形説話と呼び、目的に従ってその中に小別すべきである。しからば一方これに対する完形説話、古くは本格説話といったものの特質は何かと言うと、手短かに申せば終末を「めでたしめでたし」、あるいは「それで一期栄えた」といって相応する者、すなわち主人公の生い立ちから、家門の安固なる基礎を築き上げたまでを、説いて詳かにしようとするにあったと、私などは信じているのである。

同書 160-161ページ

「口承文芸史考」は、この分類案に沿って論考を展開されていますが、ここに詳述することは社畜低学歴の腕では到底叶いませんので、上述の本場の味から堪能頂ければ...(白目

とりわけ笑話は、変化が大きく、ここでは三分類としていますが、若干自信無さげの書きぶりで、あくまで便宜的にという感じがいたします。派生説話には、すなわち派生させた完形説話があるというのは、柳田氏の根底にある考えからすれば尚のことでしょう。

それより、笑話が神話に通ずると勘繰ったその感性に目を見張りたい。後に派生説話が一人歩きし過ぎて、その本来を忘却させた感はありますが、後述する馬鹿聟や竹取翁の話で笑話化されつつも、より古来の姿を伝承を通じて窺うことができるので、このような昔話の分類法は、今からしたらなんとでも批評できますが、当時からしてやはり慧眼であったと言わざるを得ません。

昔話にある広大な連絡網

○竹取翁

「竹取物語」。「源氏」の絵合巻に相似するものがあり、別に純然たる創作ではなく、当時の世に似た説話が出回っていたのではないか(ひいては昔話は文士の専有物ではない)とのこと。

羽衣説話は当該文芸に大分参与されており、羽衣説話自体は、沖縄の飛衣のそれや伯耆羽衣石山などから全国的分布は確認できますが、ここで一直線にいわば天人女房説話に根源を見出そうとはせず、変遷段階としてこれを捉えようとしています。少なくとも、駿河国では古くから羽衣を取り隠し、天女を抑留するという話が行われていたそう。

また、竹取の翁についてですが、「竹取物語」では、野山にまじって竹取を行っていたとあり、後の「海道記」では家の竹林云々と改まっている箇所に着目。

富士の縁起には、翁を作箕為業とあるのを見ると、いわゆる"尋常の者"ではないことは、箕直しという特殊部曲の名からも証明し得るという。貧人でありながら、尚且つ世にも稀なる長者になるという古来の昔話の息遣いが窺えるとのこと。

「吉蘇志略」や「名所図会」にも箕作翁という大富人の口碑があり、それが童観翁という他の富人と宝競べをしたという話が断片的に伝わっているそう。これにこの変遷過程を夙に窺え、竹取翁も尋常には解さぬ法則によって、予想外な者に恵まれるという不信と反抗とによる幾許か笑話化の誇張が見られると分析されています。

笑話でいえば、関西方面で有名だった屁こき爺の話も土地によっては、竹伐爺の名で呼ばれていたらしく、そこから小鳥との関係ないし、雁取爺や花咲爺の後段への連絡・変遷を説いています。

花咲爺もにほん昔話の十八番と言っていいぐらいだと思いますが、ガキの感性からは到底ここまでの連絡網は想定できませんでした...昔話はただの御伽や慰め物と冷笑できないものです。

○猿地蔵

猿地蔵も親の声より聞かされた花咲爺などの類と同様に笑話化が顕著なものです。昼飯に持って来た焼き餅を猿が勝手に喰い漁り、爺はそれをじっと坐したまま田畑で見つめていると猿は地蔵と勘違いし、手車を組んで御堂はと担ぎ込み、様々なお賽銭を納めると。それで隣の爺がこれを羨み真似をするが、担がれている時に唄われたおかしい文句に吹いてしまい、猿は驚きかつ怒って手車を解いて川に流される云々...とまぁ、こんな感じだったように思いますが、柳田氏はここから今一歩分析を進めます。

筑後あたりの話だと爺が誤って糊を頭から被り、これを猿は地蔵様と勘違いしたと。豊後では婆さんがハッタイ(炒り粉)を昼食に持って来て、それを顔いっぱいに引っ付いたまま休んでいるとこれまた猿が地蔵様と勘違いする...

これは東北地方の風習にある春の祭りの日に石仏を白く塗り、殻粉を塗す等の行事に関連があるだろうとし、粢を塗りたぐる話などは東北にも広く伝わっているそう。八戸あたりでは、麦畑等が荒らされて、ほとほと困っていたので、婆さんと相談の上、顔に粢や蕎麦粉を全身に塗りたぐって、畠の真ん中の根株に坐ったというのを見ると、もとは害獣を追い払うために石仏を祭る習俗があったのではないかとし、雁取爺などに似た槌で打ち殺して猿汁喰った云々という頓狂な話もそう乱暴な作り替えではないだろうとこれまた変遷過程を紐解いています。

弁当が喰われたのも別にわざわざ喰わせんがためではない事例も多いとし、謝恩とはいってもいくらか淡白であり、これが天の気に召されるというのは、動物援助譚のいまひとつ古い形ではないかとのこと。

○馬鹿聟

笑話でもかなりの割合を占める聟入話。これは昔話でもなかなか王道に入る物ではないでしょうか。しかし、この変化や注文の絶えなかった話にあって、根底にはいつか取り上げた記憶のある我が国の婚姻制の変遷が大きく影響しているのではないかと柳田氏は分析しています。

聟が嘲り笑われる境涯というのも、婚姻制における他村からの入り聟というのがこの流行を促進したとし、婚姻成功譚が引き離され独立に笑話が極められるようになったと。

炭焼長者では、貴人長者の娘が霊示により貧しい炭焼の小屋に嫁に来て、金塊に囲まれながらもあくせく働く男ではあるが、肝心の金塊の価値に気づいていない。女房に小判を貰って米を買いにいくも道中の沼の水鳥に投げつけてしまう。このような物知らずではあるけれども、運だけは争われず、後に長者夫婦として大きな家の先祖になる云々と、この昔話の後段は肝心要なので、早々変えられることはないですが、前段はかなり自由に改変されます。

これが時に聟の愚鈍を示すものとして、東北の方の話では、聟が舅に挨拶に行く度に、例えば、貰った銭を投げつける、次には財布に入れよと教えられるも、馬の首に財布を被せてひいて来る等々。厩に行って馬の尻をみて、この穴にも十三仏の御札か何かを貼っておけばようござろうというなどは、舅が気にしている床の間の節穴を嫁に教えてもらってそういったのが成功したので、もう一度それを試みて、馬鹿が露顕する。喜界島の話では、馬が死んで見舞いするのに、挨拶口上を女房から伝授され、これは中々の上出来だったが、後に姑の死去のお悔やみにも同じ文句を言ったばかりに怒られた云々と、まさに今日でいう「馬鹿の一つ覚え」として屡々教訓めいて伝えられることが多いものです。

しかし、馬の話が話柄になったり、新嫁が色々アドバイスし、忠実に聟の味方になってくれる点、女房が何より夫の本心を見抜くのは古代恋愛文芸の中心にも置かれるものであって、ここにこの古来の息遣いと、本来ここまで笑い飛ばされるために生まれた話ではなかったことが窺えると柳田氏は分析を加えています。

また、「結い付け枕」の笑話には、特に昔の入聟話の痕跡が存するとし、例えば、東北の話だと、聟が枕を今までしたことがなく、舅の家でとにかく枕が外れ困り果てていた。それで褌をもって首に括り付けて寝る。それを解き忘れて朝に炉の傍に行くと、大いに笑われて、「こんな馬鹿者に娘はやれんわ」と言われてしまう。嫁がそれを悲しんで、聟の朋輩に助けを求めると、次の日に若い衆が枕を頭につけて前の林で雉子追いをし、親がそれを見ていると「おら方の村では外へ出るとき、皆ああして枕を結われる」と娘が言うので、親は土地の風までは知らなかったと納得して再び添わせることにした云々と、朋輩の助けによって馬鹿者と長者の娘という不釣合いの婚姻が成立するというのも、東北のせやみ太郎兵衛、蕪焼き笹四郎、関西の隣の寝太郎などから窺えるとしています。

口伝聟の中に、隣の爺さんが魚すくいをしていて、舅礼の辞儀を教えてくれと乞うと爺さんはどれだけ獲ったのかと勘違いし、「なぁに今朝はわからない、朝飯前にこればかり」と魚籠を頭に挙げて見せる。この文句を後生大事に暗記し、いざ挨拶の際に一升樽を頭にのせ、暗記した文句を言ったなどは、笑話として受け取られるが、これほど不自然な話が最初からないと柳田氏は述べています。

色々改変も多く、広く伝承されるいわゆる「三人聟」にしても、柴波郡の話では、三人聟が秋餅に招かれるが、上の娘の聟が貧乏で土産がない。鉄砲を担いで途中で二羽の鴨を撃った。そのうち一羽が橋杭に挟まっていたので、股引きを脱いで捕まえると、橋杭と思っていたのは太い山の芋で十七本、それも獲って戻ると股引きがない。風に飛ばされ、水の中に落ちているのを拾うと雑魚が大量に入っていた。舅の家では、聟が遅く嫁がどうしたものかと心配していると、やがて入ってきてかか様台を一つ拝借と、獲物をずらりと並べる。うちには二つしか台がないからと、今度は膳を貸すと太い山芋をその上にのせ、二人の妹聟はまじまじとそれを見つめていた云々と、このような山芋やら将又鳥、野猪などの莫大な収穫は、三河花祭の演技や翁の若かりしの頃の聟入話として取り上げられることが多いそうです。「醒睡笑」では聟殿の鴨の収穫が書かれているとのこと。 

いずれにしても、馬鹿ではなかったわけで、ここにもこの「馬鹿聟」の昔話の変遷が紐解けるとは、我々にも驚きが隠せないでしょう...ん、私だけ?(白目

私の一方の家系に、聟入りされた方がおりましたので、この様な息遣いがどれほど残っていたのか、もう私が生まれる前に亡くなってしまったので尋ねることは叶いませんが、一つや二つ、何か伝え聞く所があれば、このような発見も早かったろうと、学校の授業で必死こいて机に隠し、読み解く必要はなかっただろうと←、思い耽ることが屡々。戦間期の男手不足もあって、苦労があったろうとは聞いておりましたので、ちと後悔です(自分語り

結論

 伝説回の次作ということで、パパっと書いて終わろうと思っていたのですが、メモ箇所をつらつらと書き綴っておりましたら、このザマとなってしまいました。すみません...(汗

それにしても、古くは神話から色々と変遷や変化を受け、ここまで大成された昔話をあれやこれやと博物学者のように解剖し、分類分けするとは、やはり神がかりのそれと言えるでしょう。

そもそも、"慰め物"やしばしば冷笑をもって迎えられていた昔話を真面目に民俗学のテクストとして扱うというのも白眉であって、なかなかに興味のそそるものでありました。

まぁ、伝説というか、例の高木氏への批判も兼ねてか、中々な熱量を持って取り掛かっておられたことは文章からも読み取ることができましたね(やめろ。

その他にも、当該分野を扱う、ことに欧米の著名な学者らが近代的価値観で、呪術的なの宗教的なのと標目を掲げて、その関連を疎隔することを名を挙げながら、やや厳しく批判し、また、昔話の退廃の一因でもある世間話の浸透に辛口な解説を加えていたのも印象的でした。

一応、柳田ファンに向けてですが、「昔話と文学」は主として国内、「昔話覚書」は世界との関係で論考が展開されています。インドからの波及といった欧米の説話研究者による定説に疑問を抱きつつ、もっと辺境に残存する資料の掘り出しに念を込めていらっしゃいました。

流石に連日の猛暑の最中にあって、体力もやばそう...送風機の半強制自動タイマーのおかげで、長時間活動できないという大変ありがたい(強調)状態になっておりますので、ここら辺でお開きといたしましょう。

ではでは。また次回?

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