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昔も恋愛結婚だった!?ー柳田國男を読む_03(「婚姻の話」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集12』 ちくま文庫(1990)

序論

 第三回目は、恋愛結婚に関連する論文を取り上げます。
当論文は戦後間も無い頃に作成された複数の論文より構成されており、婚姻体系として古い封建主義的な見合い結婚ではなく、アメリカ型の恋愛結婚を大いに学ぶべしといった気風が蔓延していた中で、柳田は我が国の古来の風習としても婚姻が恋愛結婚によって成立していたことを説きました。
また、近世に流行し出す武家制度を模倣した見合い結婚についても、しばしば、娘の立場に立った言及が散見できます。恋というある種の人間感情が錯綜する営みにおいて、お爺さんが女性の立場に立ち、未明な社会的事実を明らかにするというのは、大戦直後という時代背景を考えると、極めて新鮮なものに考えられます。

武家や豪農などの上流階級はともかくとして、平凡な庶民らがどのような婚姻を行なっていたのか、柳田氏の民俗学的解明から少しお伺いしたいと思います。

本論

語らいによる婚姻

 微々たる鳥類とて、家として用意された地点もなく、予定の養分も備わない場所において、雛をはくぐむ計画をしなかったとして、自己の切実なる情熱から始まって、談合・語らいによって新たな巣作りを始めるのは、極めて自然に近い形であり、誠実であると柳田は述べています。
むしろ、今日の家督というのが複雑になっているということでしょうか。

...武家や旧家が遠方の縁組をもっぱらとし、懸想と訪問の楽しい期間を持てないので、嫁入りをもって婚姻の開始としていた。それを上品と心得て模倣したのと、また一つにはいわゆる刀自番の風習が、やや双方にとって煩わしくなったためで、いずれは渡すべき身柄だから、早く監督の責任を聟方へ、引き継ぎたいというような考えも生じたものと思われる。

同書 32頁

若者たちの夜這い文化

夜這いという言葉は、今日において極めてふしだらな意味合いで語られますが、当時の若者らは今日のように繊細ではなかったので、子供の喧嘩と同様に恋愛遊戯が行われ、結婚生活との間には一つの境の掘があったとし、この一線を越えることは女一生の身すぎを決定するという意識があったのではないかと柳田は分析しています。

  枕ならべて千よき寝ても心ない子にゃ手はささぬ
  千夜かよてもシンテがなりゃわたしゃ下紐解きはせぬ

同書 59頁

とある海岸地方に伝わる盆踊唄ですが、このシンテは恐らく心底であって、必ず妻にしようという決心を指すそうです。
この意識がどれほどの範囲で共有されていたのかは分かりませんが、男女の情誼が交錯していた盆踊りの歌ですから、やはり、遊戯と結婚は一線を画していたのでしょう。

昔の村落では、男女の未婚者にて、若者組・娘組なる交際機関が組織され、相互の宿を拠点にいわゆる夜這いが行われていたというのが民俗学の通説ですけど、統制については、若者組が主体的に監督し、性教育も親兄弟が関知せずにそれぞれの集団にて伝授されていたそう。
しかし、村内婚だからこそ成り立つ関係図だけに、古来より情景の的なる遠方婚の数が交通の便の発達とともに増加すると、娘宿がまず衰退し、十分なる相互の心を見定めるという語らいが機能不全となったとのこと。

遊女と家制度

...大家族の世において、その主婦の数が今よりもはるかに少なかったのである。女徳を従順の一面に偏せしめた原因も、女の勤労の重要さが減じた以上は、やむを得ないその結果とも見られる。ことにいったん獲得した主婦の地位を、失った者の境遇はみじめであった。...古い世の中でも自由結婚は棄てられやすかった。まして親族の保障が必要であった時代には、家に入らぬ女の境涯はすでに浮草で、いつでも身のよすがを変えなければならなかった。

同書 106頁

沖縄方面では遊女をズリと一般的に呼ばれていたとし、また、本来はヅリ、九州方面ではドレなどと発音されていたそう。また、類似の史料から、D・Rの二つの子音が共通しているとみて、出を意味するデル・ヅルないしイヅルという動詞が関係しているのではないかと推論を立ててます。
併せて、いわゆる土妓の地方名に、女が出てくる特徴を認め、すなわち、東京方面や信州方面のサゲジュウ、または尾張方面のシンミョウなどの例証を挙げています。
一方、女側の夜這い文化は、京都方面で盛んであることは、当時の男の世界では密かに有名であり、貴族の日記にある傾城からの訪問や淀川下流にて遊女が舟で伺候する風習を確認されています。
この両者には相違があり、つまり、同村内に限ること、一方では、素性も知れぬ旅の女が多いことであり、これが実を結ばぬ恋愛遊戯に堕ちるケースに繋がっていると柳田は分析しました。

家制度で脱落した女性の受け皿になってしまっているということでしょうか。後者については、職業化したいわば娼婦でしょうから、ますます恋愛結婚からは乖離したご遊戯ということなのでしょう。

嫁盗み

全国的にも話は伝わっており、とりわけ西日本は近頃まで事例が多かった嫁盗みですが、現在からみれば、野蛮の極みでしょう。しかし、そう単純にみるとしてもなぜ、近代までこのような風習が残存したのか、その必要性と理由を夙に説明できていない...柳田はそのように述べています。
大体は同村内で、また、若連中に間に入ってもらい、相手方の親子に事前に承知してもらうのが普通であり、度々略奪婚といわれる荒々しさが散見できるのは、この引き渡しに不具合が生じた場合であるそうです。

...総括して言うならば今日知られている限り、女が予想しなかったものはすでにはなはだ少なく、拒絶して還ったという例はさらに少ない。そうして一方には親が承認したものが、ますます多くなろうとしている。ソビク・カタゲルまたはオットルなどというのも、要はただ普通の仲人式交渉を経由せず、もっと直接な手続きをもって、嫁を聟の家の人別にするということに留まり、必ずしも不法の拘束を伴うものの名ではなかった。...少なくとも以前の若い女性が、婚姻を結んで後もなお生家に留まり、主婦の入用が生じて後、始めて夫の家に迎えられていた時代には、今日見るがごとき仲人往来もなければ...花々しい嫁かたぎもなかったろうとは言える。別の言い方をするならば、今のいわゆる嫁盗みは、中世以後からだんだんと普及した嫁入風習の副産物に他ならぬのである。

同書 133頁

近世における仲人の需要

近世のとりわけ男媒酌人の出現は、若者組・娘組の退化とそれに伴う風紀の乱れ、また、ある意味で、家制度を制限していた同齢団体が零落などの他に村外縁組の増加も考えられるとのこと。この過渡期にはその宿親が間に入りサポートを行なっていましたが、家制度が次第に武家風習の浸透とともに婚姻にまで大きく干渉した時代に入るとなかなか折合いが付かなくなり、新たな顔役仲人ないしその労力に需要が集中していきます。

婚姻要件

柳田は日本の歴史における婚姻成立の要件として以下の3つを挙げています。
1.双方の意思
2.婚族との関係
3.社会の承認
とりわけ、1,2では双方で盃を交わすのが常であり、これには前の柳田シリーズで挙げた古来の共食信仰の風習が窺えるとしています。また、それぞれの夫婦盃(今日でいうと三献の儀がその名残か)と親子盃はその共食信仰から、別々に行われ、嫁入の際に親子盃を交わす時は、聟が台所や隣家に行って席を外し、婿入の際は、嫁が上記と似たような形で退席していたそうです。
また、離島の風習では嫁入において、嫁は普段着で参加するそう。盛装するのは葬式のみで、これは、同時に主婦の就任式ではないかと柳田は分析しています。
つまり、婚姻ないし結婚とは西洋のような決然としたものではなく、時間をかけて緩やかに営むものであったことが窺えます。

現代人からは、面倒くさいような奇習とも捉えられそうですが、西洋のような教会に行き神前で宣誓するという文化は少なくとも近代以前はありませんでしたから、このような形で契りを交わしていたということなのでしょう。

また、主婦就任に関連して、隠居を行い、土蔵の鍵を譲渡することで、主婦の権能を譲るというケースも滋賀県方面で確認できるとして、一家に2人の主婦が併立し得ないよう工夫していたとのこと。大きい家ではこの引き継ぎで色々と喧騒があったようですが、同居主義は、そう自然なものではなかったと続けて後述されています。

...嫁と姑...わざわざこの二者をかち合せて、余分の複雑を種蒔くようにしたのは、何としても幸福なる変革とは言われぬが、それもどうやら武家という階級の、特殊の要求が元であったように考えられる。この原因はまだ確かにはわからぬが、第一に...遠方婚姻、次には娘たちの生家における重要さの減退、家の収入の単一から来る生計上の必要、儒教倫理のやや身勝手なる解釈...その他まだ幾つかのものが綜合して、ちっとでも早く娘を聟の家へ渡してしまおうとする念慮が強くなり、ついには嫁入をもって婚姻の開始、もしくは恋愛の初芽期と見て少しも差支えのないような、一種の特別の世相を作り出したもののようである。

同書 189頁

婚姻生活の始め

「さる処に二十四五になる息子あり、いまだ女房も持たずにヘヤ住居に、さる夜女一人さる方より呼びヘヤに置く。夜半ばかりに母御ヘヤに行き、不思議やないこと、ヘヤに人の音がする。気分にても悪く候や。心もとなきと申されたらば、息子きもを潰し、いや気分もよく候が、今夜何と致したやら、蚤がせせり候と申す。しからば気遣いなし。憎い蚤かなとて、母御もオモヤへ帰られた。かの女夜明けぬ先にいなしけり。夜明けてて親仰せられ候は、いかに兄、かわいそうに、ゆうべの蚤にも朝飯を食わせと言われた」

同書 236頁

宝永時代に刊行された『軽口あられ酒』からの引用で、いわゆる一夜妻の夜這いを書き綴っていますが、柳田はここから、産屋や喪屋のように婚姻にも根城いわば婚舎というものがかつてあったと分析しています。
前項の隠居等による引渡しに関連しますが、この正式な引渡しが行われるまでは、婚舎なる別棟の小部屋が、新婦が聟の方へ、また聟が新婦の方へ、通い詰める風習の拠点となったいたのではないかと考察されています。
また、壱岐の事例では、中間に泊り宿を設け、とにかく若夫婦は両親と起居を共にしなかったことが伺えます。

嫁入時に中宿を経由し、着替えや挨拶することは一般的であったため、若者宿や娘宿ももとはこれらのヘヤの集合体であったという考えもできそうですね。

結論

 若者組・娘組という同齢集団が村内にて成立し、とりわけ若者組は村内の治安や祭事にも主体的に活動していたという事情は他の文献でしばしば見かけていましたが、婚姻や家長権の制限にまで大きく波及していたとは少々驚きでした。

村外婚などの場合、とりわけ娘さんが嫁ぐ場合は、若者組が暴れるというある種の儀礼も全国的に散見できますし、彼らの共同意識というのもかなり根強かったことでしょう。

現代からみれば、野蛮の一言で片付けられますが、交際機関としての共同体は、正式にはないにしろ不完全ながら学校というものが連想されますし、婚活アプリやらネットやらで交際を始めるより、お互いや周囲に顔を知れた学校の生徒同士で交際する方が健全と思われる風潮も程度に差はありますが、本源的なものを垣間見れることもまた事実かもしれません。



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