100点は目指さないし、赤点でも死にはしない
風に傘を木っ端微塵にされました、くるねです。
待てども暮せど仕事のことばかりを考えてしまうわたしですが、今日もしっかり考えてます。
考えることをやめると死んでしまうのかというくらいかんがえているのだが、前世はマグロだったんかというくらいだ。
(マグロは動き続けていて止まると死ぬらしい、しらんけど)
自覚はしていたのだけれども、どうもずっと心に引っかかる利用者さんがいる。どう考えても自分には力不足は明らかで、力不足なりになにができるのか考えるもまったくピンとこない。
ピンとこないまま過ごすもんだから、休みの日もずーっと考え込んでしまう。何ができるだろうか、何ができただろうか。
数週間前のわたしも今のわたしも大して変わりはしないので、明確な答えなどでやしない。
おそらく悩み考えたところでいい答えは出ないだろう。
そもそも、いい答えとはわたしの中で100点に近いことを意味しているようで、だからこそしっくりこないらしい。
では、100点である必要はあるだろうか?
学校のテストでさえ100点など取ったことはなく、いいとこで80点くらいだったわたしに社会で100点などとれるだろうか。
とれるわけがないのだ
テストという答えありきのものでさえ、100点をとることは難しい。それならば答えもわからない人間相手のことに対してなど難問中の難問である。
では、悩みに悩みながら介入している利用者さんに対しどのように考えて介入していこうか。
まずは、介入していてもし赤点をとるようなことになると想定してよう。
もし、赤点をとったところで大前提死にはしないだろう。
ただ死にもしないので、生き続けることを考えなければならない。
赤点をとり続けるであろうテストを受け続けるのは正直しんどい。げんに、今がそのような状況だ。
生き続けるためと考えるのならば、担当を変わってもらえないか打診するのもひとつの手だ。幸い今の職場はわたしよりも経験豊富な猛者たちがいる。ほんとうに瀕死であれば頼っても問題ないだろう。
自分が弱ってたり、戦えない状態を察して手を挙げるのも必要な能力だ。
戦えなくなってからでは、時間がかかる。
立ち上がるまでには本当に時間がかかる。
適応障害になってからよくよく知った。
生きているだけでエライし、仕事をしていてエライのだ。
もし本当にみていくのが難しいと感じるなら、職場に相談する道もある。それならそれで英断だ。
仕事がわたしの全てではない
まずわたしを幸せにするのが最優先だ
でも、もうすこしだけやってみよう。
100点を目指さない。
前回20点なら、つぎは30点からでいい。
そのあとからまた考えよう。
では、またね。
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