常識の海で哲学をひろいたい
この前、ツイッターを見ていると、気になる引用ツイートがあった。
というものだった。
元のツイート内容を見ると以下のような概要。
今見ると、消されてしまったようなのだけど…。
このツイートを見ると、
「空港で人の荷物を運ぶなんて危険」「頼まれても断るのが普通」「犯罪に巻き込まれるのでやめしょう」
と
「いい話だった」「とても感動した」
という感想(つぶやき)があった。
同じ文章でも、人によって「見え方」が違うんだなと思った。
常識としての話なのか
哲学としての話なのか
常識と哲学
空港で全く知らない人の荷物を運ぶのは、基本禁止されていて犯罪に巻き込まれる危険がある、という事は当人も相手も知っている。
それでも、相手はそれを判った上でしてくれた。
というのは、常識の話の範疇ではなく、哲学の話なのかも?と私は思う。
そして、ブラック・ジャックの以下のような話を思い出した。
この話の冒頭で商社マンの人は、いかにも怪しげな主人公ブラック・ジャックを、ただの善意で助けている。
話は漫画のように大げさでないにしても。
そういう事なのだろう、と私は思った。
私だって常識的な判断で日常を暮らしている。
でも、常識とは別に、人にはそれぞれ、その人の哲学というものがあると思う。
常識では「間違った事」であっても、その人の哲学という面で見れば「正しい判断」の事もある。
私が感じたのは、この話は「常識」ではなく「哲学」に沿った行いの話ではないだろうかと。
だから、
「いい話だった」「とても感動した」
という感想の人がいる。
とはいえ、「常識」で判断した場合、この行為は間違いなわけで、
「空港で人の荷物を運ぶなんて危険」「頼まれても断るのが普通」「犯罪に巻き込まれるのでやめしょう」
という感想にもなる。
ツイッターでも、そんな色々な感想があったりで、元のつぶやきはお詫びの文と共に削除されてしまったらしい。
「常識」を超えた「哲学」で心が動かされる
ツイッターを含むSNSでは、「常識」から離れた事を書く事はできない場になりつつあるように思う。
この話のように、常識外の事は受け入れてくれない場。
私は時々「それってどうなんだろう?」と思う事がある。
確かに
『常識的に判断しました。』
という内容を見た時、参考になるし、いいねを押したりはするのだけど…。
それだけでは、何ともつまらない物を見ている気分にもなる。
人は常識を超えた行為に、心が動かされる事があると思う。
常識は必要な事だと思う。
でも、それに従ってばかりで、本当に自分がしたいと思ったその時、常識を超えた事を何もできなくなってしまう。
それは、人生であまりにも悲しい事ではないか。
そして、それを書く場も、読む場もなくなってしまうなんて。
私は、エッセイが好き、ツイッターを見るのも好き。
くだらない事も好きだし、些細なつぶやきに心動かされる事もある。
常識の海で哲学を拾いたい
私は、常識という海の底に眠る、小さな哲学を拾っていきたい。
溺れて、見つけられなくなる前に。
それが石ころであっても。
それが自分にとって、本当に大切なものであるなら。
私はそう思っている。
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