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水の飲み方を忘れた。適応障害であの日起こったこと。

目の病気と育児のストレスで緊急入院した時があった。
病名は適応障害。

最近よく見かける病名で、診断されている人も多いと思う。
無理せず過ごすのが一番だけど、それでも無理したら…どんな事になるのかというと。

無意識に出来てた事が出来なくなる。そんな事が起きた。

前兆

目の手術のあと、4ヶ月、眠いのに全く寝られない状態が続いていた。

目を閉じても、この後、目が見えるのか不安だった。なので、あの頃は毎回閉じた目の裏をじっと見ていた。
寝られる気配はなくて、
「この病気をどうやったら乗り越えていけるか」と
「この後の育児は誰一人助けてくれない」、
そして母に言われた
「貴方は子供のために生きていくしかない」
という事をを考えていた。

なので、食べるものは目に良い物のみ、とにかく、元の生活や仕事に戻るだためだけに生活していた。

そのうち、気絶したいくらい眠いのに、全く寝られない状態になっていった。

病院で薬を処方してもらった

あまり寝られないので、精神医療科で睡眠薬や漢方を処方してもらった。
だけど、メンタル系の薬では、一部眼圧を上げてしまうものがあったり、それ以外の薬も、目に影響があるのではないかと、飲むのが怖かった。

それに、兄弟が大量の薬を処方されていて、母から毎回兄弟の事を相談されたりされていたので、私も薬を貰う事になるのは避けたいという気持ちもあった。

そして、毎日、頑張って薬を飲んでみたけど、頭痛が酷くなるばかりで、一向に眠れなかった。

少しづつおかしくなっていった

最初は落ち着けなくなった。
普通に座ってじっとは出来なくなった。ぐるぐる歩いているか、体操みたいな事しているか。何かしていないと落ち着かない。

後は、疲れ切って定位置のソファーに寝てテレビを見ていた。

そのテレビも、子どもが見ている機関車トーマスしか見れなかった。せいぜい10分、それ以上のストーリーは受け入れられない、といった感じ。

10分以上集中する事ができない。
ほんの数分も集中できなくなっていた。

回復してもその分壊れていった

食事は、決まった物以外食べれなく、最初はヨーグルトと野菜ジュースのみ。
しばらくして、何故か夕食は普通に食べられるようになった。

ある日、朝食も食べれるようになったが、
毎日同じ物
「ゴマをかけた納豆」「たらこ」「ヨーグルト」「ご飯」
しか食べれなかった。そして、夕食には決まったサプリを飲んだ。どれも目に良いと思い、食べていた。
食事というより、目の回復のため摂取してる、という感じだった。

だけど、朝食を食べられるようになった分、数分は続けて寝られていた睡眠が取れなくなり、数秒(気絶)間の睡眠になっていった。

何もかも怖かった

通院以外の外出が怖かった。

目の手術の後、私が育児出来ない状態になり、子供と二人で実家へ帰郷していた。家の中が安心できる場所だった。

実家では決まった場所に座り、そこにいると目の歪みが感じられないという場所があった。いつもそこにいると安心できた。でも、そこ以外の場所は怖くなった。

そういう理由で外に出るのも怖く、外出している時は常に怯えていた。

特に通院で札幌の自宅に帰る時は、パニックだった。
落ち着ける場所が自宅のどこにもなかったし、夫と会わないといけなかった。
夫は、子供以上に厄介な事を急に押し付けてくるので、不安の塊だった。
普段は先回りして色々警戒や準備をしていたけど、目の病気の後は「怖い」という感情しか沸かなかった。

不安で何も出来なくなるので、札幌の家にいる間は、実家で子供の話し声をiPadに録音して、それを聞いて、夫の声を聞かないようにし、自宅で過ごした。

それで何とか平静を保ってられた。

それでも何とかしようとした

症状は酷くなって行き、眠りたいのに寝れず、身体は常時震えていた。意識を保っていないと、おかしくなってしまいそうだった。
その日は休日だったが、どうしようもなくて、母と精神科の外来に行った。

私は「注射でも何でもいいから、少しでも眠らせて欲しい。」と言ったが、母が何故か私の意見を無視して、薬を貰って帰るという事にしてしまった。

母は世間体を気にして(この日も「救急車の音がするとご近所に恥ずかしいから。」とか言っていた。そういう性格なので仕方ないと思っている。)私の意見を聞かなかった。いつもは気をつけているけど、私はその日、極限状態で、それ以上どうしようも出来なかった。

そして、もう誰も助けてくれない、誰も信じられない、眠る事も出来ないと判ったら、症状も物凄いスピードでひどくなっていった。

最後に完全におかしくなった

最終的に、入院前は自分が自分で無くなるというのを体験した。

まず、眠り方を忘れてしまった。

目を閉じるのも怖くなっていたし、横になりじっと出来ない。落ち着かない。眠るという動作自体が怖かったのだと思う。
それでも、試行錯誤して、座椅子に浅く座り、薄目を開けて数秒位寝る事が出来た。

起きている時は、感情を抑えられないと、怖いのとで、大声で叫んだり、落ち着くために頭を振ったりしていた。
その後は、ぐったり倒れるしかなかった。

上手く立ち上がれなくなった。

身体が重くて、誰かに引いて貰わないと一人では起き上がれなかった。

そして、喋れなくなった。

何か喋ろうとしても、声に出せない。あっ、という口の形は出来るけど、声も出ないし、ただ口をパクパクさせるだけになった。

思った事を言うには、一言、一言、ゆっくりと、区切らないと、喋れない。今、書いた、こんな、風に。

頭の中で思っても、それを発音するまでに、とても頭を使わないと駄目だった。
でも、何故か文章を書く事は出来たので、私が居なくなった今後の事を紙に書いて伝えた記憶がある。

水の飲み込み方を忘れてしまった。

物を「ごくん」と飲む事(正確には飲み込み方)を忘れてしまった。
当然、水も飲めない。
でも、ストローで少しづつ飲む事は出来た。

喉はカラカラだけど、どうしようもなかった。
口に水を溜めても、飲みこむ事が出来ないので、そのまま吐き出すしか出来なかった。
入院した時は、脱水状態だった。

いま、話していた事を思い出せなくなった。

入院した当日が、一番症状が重かった。

今、話していた内容を思い出せない。考えていた事をすぐ忘れてしまう。
話したかったことも、自分がどうしたいのかも、どうして欲しいのかも、全部判らなくなっていった。

そして、緊急入院した

もうこれはまずいと思い、弟に、「もう自分の事が判らなくなりそう、自分が誰だったかも思い出せなくなりそう。」「この先、もう自分が自分で無くなったら、子供を何とかして欲しい。」というような事を伝えた。

それを話したら、弟がすぐに入院しないと駄目だと言って、緊急入院になった。
入院直前に夫が玄関に来てパニックになりそうになったが、会わずに何とか病院まで辿り着いた。

あまり記憶がないが、先生が診断している時は、どんどん忘れてしまうのが怖くて、何故か頭をブンブン振っていた。

まだ何とか自分の名前が書けたので、入院の手続きはすぐ済んだ。
連れていかれた病室ではベットで点滴を受けて、少し楽になった。

ベットで寝ていると、安心できた。
ここでは、育児も、仕事も、生活も、自分がやる事が出来ない。もう、やろうとしても出来ないんだ、と思うと安心した。

そして、付き添いの弟に、そういう事を話そうとするのだけど、考えをどんどん忘れてしまう。

自分が考えていた事、そして自分の事、全部思い出せなくなるので、自分が自分と判らなくなっていった。

「悲しい」という感情だけが残った。

何かを伝えたくても、それを思い出せない。
なので、ただ「悲しいな。」と思っていた。

そんな状態で最初は悲しかったけど、途中で少し可笑しくなって笑ってしまった。

もう、話す事もできないんだ、と思ったのと、弟に
「今までずっと辛かったんじゃないの。」
と言われたら、その通りで
「ああ、すごく辛かったけど、自分でも判らなかったんだ。」
と思うと、それが無性に可笑しかった。
弟に
「ずっと笑っていなかったんじゃないの。」
と言われた。その通りだった。

そして、笑ってたいぶ楽になり、寝られそうになったけど、ベットに近くの廊下に「あー、あー、あー」と言い続けるおじさん(精神科ならでは)が来て、眠りにつけず、またパニックになった。

そして、緊急でナースステーションの一番近くの個室に入る事になった。
バタバタと看護師さんが準備をしてくれ、やっとゆっくり眠る事ができた。

自分の名前を忘れてもよいと安心した

点滴で長い時間寝て、やっと起きた。
まず、手首に自分の名前のタグが付いていたのを見て「もう、名前を覚えていなくていい、忘れてもここに書いてあるから。」とホッとした記憶がある。

自分の事を誰かがすべて管理していてくれるのが、すごく安心できた。

寝返りの仕方を忘れた

入院し個室に入り点滴を打って、やっと寝られるようになったが、ふと起きて仰向けから横になる方法が判らなかった。

しばらく考えて、育児雑誌に載っていた、足をまず横に曲げて、それから身体を曲げる、という方法を思い出した。そして、何とか寝返りをうった。

不思議と「うちの子供も赤ちゃんの時、同じ気持ちだったのかなぁ。」と思ったりした。

この入院中で最初の一週間は、今まで無意識に出来ていた事が出来なかったりした。

食べ物を飲み込めないままだったので、大量の薬はゼリーをつかって飲んでいた。
看護師さんに食べないとだめ、とか言われた記憶があるけど、食べ物の食べ方を思い出せないのだから、仕方ない。

ゼリーは「ごくん」としなくていいから、それだけ食べていた。

今何時だとか、何をしたいとか、そういう事も考えられないし、ただ、この部屋からは当分出られないんだろうなーと思っていた。

そして今

今は、至って普通の生活をしている。

まだ適応障害で、不眠症の薬や体調の悪い時の薬を出してもらっているけど、あとは普通に生活できている。

当時は、もう一生病院から出られないなぁ、と思っていた私だったけど、結構すぐに退院できて、今では普通に生活できるようになっている。

今思うこと

入院するのに色々な事があったけど、いまだに、鮮明に思い出す。
物を忘れていくってこういう事なのか、痴呆症の診断をうけている人は、あんな悲しい気持ちなのだろうか。と。
だとしたら、みんな優しくして欲しいな、とか。

それと、入院して良かったことは、ビールよりも水が美味しく感じるようになったこと。

昔はお酒を飲む事も好きだったけど、あれからどんなお酒を飲んでも、水より美味しいと思う事は一切なくなった。

身体が危険なくらいの脱水症状で飲んだ水の美味しさを忘れられないのだと思う。入院中の水は本当に美味しく感じていた。

そんなこんなで、今は普通に生活している。

今言えるのは、適応障害と診断されている方は、決して無理しないで欲しいという事。

私も時々、また病室に戻ってしまいたい、もう何も考えたくない、と思う事があるけど、何とか上手くやっていけている。

無理してない、と自分で思ってたとしても、辛いな、と少しでも思うときは無理しないで欲しい。

もし、同じように辛い事があるなら、誰かに話したり、病院に行って欲しい。そして、自分で辛いという事が判らないくらい、辛い時があるという事を知ってほしい。

私は入院出来て、やっと普通に暮らせるようになったけど、やっぱりこういう思いは他の人にはして欲しくない。

このnoteを読んで、適応障害ってなあに?という人も、病気の事を少しでも知ってくれたらと思っています。


その後の入院中の事を書いたnote

入院前、眼科の待合室での事を書いたnote






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