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積み重ねない

努力を積み重ねる。noteを積み重ねる。トレーニングを積み重ねる。経験を積み重ねる。

そんなふうに、人類は歴史を”積み重ねて”、ここまで進歩してきたのだと思う。

何かを積み重ねることによって、その後の行動のときに予測ができるようになる。ようは、慣れるということだ。

慣れることによって、今までやってきたことはさらに効率的に。さらには、初めてやる行為にも今までの”積み重ねた”経験値を活かし、行動する。

何をやるにしても、どんな物語を読むにしても、どんなアニメを観るにしても、無意識のうちに今までの経験の中から使える素材を手繰り寄せ、

おそらくこうなるであろう、という予測を立てる。

そうやって予測を立てるからこそ、今までの経験値から外れた展開が繰り広げられたとき、人はいい意味で”裏切られた”と、感じる。

それは、今まで積み重ねてきた経験の中には無かった素材だったからだ。

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「継続は力なり」という言葉のとおり、何かを継続するのには驚くほどの効果があると、僕自身も感じている。

つまらないと感じる基礎練習をしっかりを積み重ねることによって、自分でもビックリするくらい、いつのまにか上達しているという経験をしたことがある人も多いはず。

ただ、継続には罠も仕掛けられていると思う。

それは、「目的」と「手段」が逆転しやすいことだ。

最初は文章力を向上させるためにnoteを書いていたのだけれど、いつのまにか、上達どうのこうのではなく、「毎日更新すること」が目的になってしまっていたり。

ある程度までの継続は「大変だけど、心地よい疲労感」が味わえる。

それを超えると、

「継続しなければならない」という、強迫観念にも似たような感情が湧いてくることがある。それは、執着でもあり、囚われているのかもしれない。

なぜそういった不安が出てくるのかといえば、継続していないときの未熟な自分に逆戻りしてしまうような、せっかく”積み重ねた”努力が、水の泡になってしまうような感覚があるからだと思う。

で、その先にを超えると、

呼吸になる。つまり、やるのが普通。やらないのが気持ち悪いという状態。

こうなったら人生を劇的に変えるほどのインパクトがあるように思う。僕も今まで書く、読む、運動を継続してきたけれど、明らかにゲームを継続してきたときの自分とは考え方も思考も変わっている。

こういった変化を自分でも感じると、なおさら”積み重ねる”ことに対して、不安を覚えたり、強迫観念が襲ってくる気持ちも分かる。

ただ、そうやって「積み重なることによる快感」ばかりに意識が向いてしまうと、

これをやっても積み重ならない(無駄だから)から、やらないでおこう。

という選択が生まれてしまう。

◯時間後に消える投稿。といったものがあるように、その時間だけ見れるという限定性に価値が生まれるという場合もあるわけだ。

仮にnoteを書いて、24時間後に消えるという仕様だった場合、ここまでユーザー数は増えなかったのではないだろうか?

ブログなどの文字コンテンツは、なおさらそういう(積み重ねるという)傾向が強いように思う。

積み重ねることによる恩恵は大きい。けれど、執着すればするほど、恩恵も小さくなるのではないかと感じる。

そういった状態は、シンプルに楽しくない。

別に、noteの投稿が1日後に消えたっていい。その時、その瞬間、今の自分の感情を「発散させたい」という思いが強い人も多いのではないだろうか。

つまり、書くという行為自体が「目的」であり、積み重ねるのが「目的」ではないのだ。

noteというプラットフォームを利用して、「結果的」に”積み重なっている”という状態が、僕は心地がよい。

こういった考えは、今この瞬間が楽しければいいという、短絡的で快楽主義的な思考にも聞こえるかもしれない。

でも、人はそもそも過去も未来も生きていない。

今、noteを”積み重ねよう”として積み重ねたとして、明日、自分が生きているという保証はどこにもない。

だったら、今の瞬間を最大限に生きて、”結果として”積み重なるということが自然のように思う。

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