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【短編小説】魔法使いは王命に従い竜殺しを試みる【SFファンタジー】

魔法使いは王に「竜殺し」を命じられた。
存在すらしない竜を、どうにかして殺せというのだった。

――遠い昔、もしくは遠い過去、ひょっとしたら今このときに、遠い星で繰り広げられる、ほんの小さな神さまとひとのお話です。

12,768 文字(読了目安: 26分)

初出『ファンタスティック・ヘンジ』2012年

■■■

 ジェニースは夢をみていた。

 どこまでも続く真っ黒な空、赤くひび割れた大地、くっきりと視認できる地平線、一本道の端にたたずむ自分。
 吹くはずのない風が吹いて、ジェニースのこしのない金髪を吹き散らす。
 音はない。声も出ない。
 まず、声を出す人間が自分の他にいない。
 自分はといえば、細かな鉱物できらきらと光る赤土に塗れて立ち、どこかすがすがしい気持ちで道の先を見つめているばかり。
 言葉など要るわけがない。
 要るのは瞳。
 道の先を見つめる瞳。
 すがるように彼が凝視するのは、一筋の地平線の近くに横たわっている竜である。
 竜はまるで巨大な岩山そのものの、灰色の塊だ。

 彼は、もしくは彼女は、長い首を優美にねじって自分の前足と後ろ足の間に鼻先をつっこんで眠っている。
 ゆっくりとした呼吸につれて、全身を覆ったぶ厚い灰色の皮膚に細波が走る。
 灰色の皮膚のくぼみに生えた水晶が、風にあおられた草花のように揺れる。
 揺れる水晶が空にかかったふたつの月から落ちる光を跳ね返し、竜は色とりどりのきらめきに覆われていく。

 ああ、これはなんて美しい光景だろう。

 ジェニースは魔法にかけられたような気分で、うっとりと立ち尽くす。
 ずっとここにいたい。
 これが夢でなければよかった。本当ならばよかった。

 本当に竜がここにいたのなら、ジェニースは竜を殺すことだって出来たのに。

「賭けをしよう、魔法使い」

 濁った人間の声が耳を打ち、ジェニースの襟首をつかんで現実に引きずり下ろす。
 ジェニースは薄いまぶたを閉じて、開ける。
 なけなしの勇気を奮い起こして現実を見ようと試みる。
 辺りは暗い。
 石の壁に石の床、床石の隙間に詰まっているのはなんらかの有機物が腐ったもの、そしてついさっき流された人間の血。

「地下は嫌だなあ。……寒くて、臭い」

 ジェニースがげっそりとつぶやくと、笑い混じりの咳がわき起こった。
 耳障りなそれをとがめ立てるように、ジェニースは傍らの椅子を睨む。
 ここはホシン王国王都の地下にある、ジェニースの別荘のひとつ。
 彼の権力に見合ったきらびやかな家具も、魔法使いの持つ英知の結晶たる道具たちも、古い知識を記した書物も、何ひとつない。
 あるのは狭い立方体の空間と、汚れた石の床の真ん中に設置された椅子だけだ。
 黒く重い石で作られ、ひとひとりの力では壊すどころか動かすことも不可能なこの椅子に乗った人間は、もれなく遠からず死ぬ。
 用途から言えばこれは椅子ではなく調理台であり、この場は魔法使いの拷問室であった。
 さて、現在その上に乗っかっている男を見てみよう。
 彼はいささか節足動物を思わせる男である。長身で手足が長く、異常に痩せてぎくしゃくしている。
 灰色じみた長い金髪は汚れたぼろきれの束のよう、ほお骨の浮いた青白い顔に浮かぶのは下卑たにやにや笑い。
 そこそこ整った造作なのに、美しい印象などみじんもない。死と不景気の気配しかない。

 そんな中で、瞳だけが妙に少女じみている。
 頭上で淡々と光を零すガス灯の光を跳ね返す、やけに潤んだ菫色の瞳。
 実に不愉快な不調和。

 この男の名は、コンドラート、職業は自称賢者だ。
 それはつまり、九割九分の確率で詐欺師ということでもある。
 ジェニースはもう少し前にそのことに気づくべきだった。
 いや、実際には気づいていたのかもしれない。
 気づいていたのに、気づかないふりをしていたのかも。
 ジェニースは自分が手にした人間用工具を見下ろし、肺の底からため息を吐いて訊く。

「で、何か言いました?」
「賭けだよ、魔法使い。賭けをしようって言ったんだ」
「俺、そういうのが好きそうに見えます?」
「いいや、全然だな。あんたは研究所から一歩も出ずに育ちました、って顔だよ。青白くって覇気がない。単純に目が死んでる。死んだみたいに生きてるように見えるよ、魔法使い」

 コンドラートは饒舌に、ただしたまに拷問で受けた傷の痛みで舌を引きつらせながら言って、にっこり笑った。
 よく光る菫色の瞳が細められると、やせ細った顔に深い皺が刻まれる。
 まるでホシンの地表に走る無数の亀裂のようだ、そんなふうに思いながらジェニースは言う。

「大体あってますよ。俺は遊ぶのが嫌いなわけじゃないですが、大抵においては面倒くさい。死んでいる気もしないけれど、生きているって気はますますしない。仕事中に賭けなんてしたい気分になるわけがない。ときに、そのいちいち『魔法使い』っていうのはやめませんか。なんだか嫌味だ」
「嫌味だって? 本当のことだろ、宮廷魔法使いのジェニース? あんたはそう名乗ったし、頭の石が光ってるのがここからでもよく見える。綺麗だな」

 コンドラートの水気のある視線が自分の頭を這っているのを知り、ジェニースは半ば無意識に自分の髪に触れた。

 ぶう……うん、

 そんな響きが耳の奥から伝わってくる。
 光はどうだろう。漏れているのか、いないのか。ガス灯の真下ではよくわからない。
 コンドラートが触れた柔い金髪の下、さらに皮膚の下にあるのは生まれ持った頭蓋骨ではなく、鉄板である。
 その下にはホシンで掘り出された石が埋めこまれており、その石固有の振動でもって本来人間が覚えることの出来る以上の情報を記憶していた。
 この地において魔法使いとは、つまり、そういった存在なのだ。
 最初の移民の知識をそのまま引き継ぎ、さらに発展させ、生きることに精一杯となった人々にかみ砕いた知識を与え、王に仕える者。
 現在では知識の引き継ぎに石の移植手術が不可欠となり、候補者のほとんどは不適合で死ぬ。
 ジェニースは選ばれたひとりというわけだが、前途洋々とは言い難い。

「綺麗、ねえ。能天気な感想だなあ。せっかく生死の瀬戸際でつかみ取った石だっていうのに、明日には他人のものになると思うと、さすがにちょっと残念です。死後に、国はありますかね?」
「おいおい、ますます目が死んできたぜ、あんた」
「そりゃそうでしょうとも。俺は明日死ぬんです。『竜を殺せなかった罪』で」

 ジェニースは細く長いため息を吐いてから、手の中の工具を床に落とした。
 耳障りな音を立ててさび付いた金属は愉快死にぶち当たり、跳ね返ってくるくる回る。
 ジェニースは代わりにぶ厚い軍用外套の中に手をつっこみ、これまた重い銃を取りだした。
 ホシンでは魔法使いくらいしか持たない武器の登場に、コンドラートの顔が引きつる。

「――なんだ? いきなり魔法使いらしいもん出しちゃって。今度はそいつについてでも語り合いたいって気分なのか?」
「話すのが面倒くさいから、もう終わらせるんです。あなた、結局竜については何も知らないんでしょ? 陛下が俺に『竜を殺せ』って言って切った期限は明日まで。俺は竜の尻尾すら見つけられてはいない」
「そりゃそうかもしれないが、諦めるのが早すぎやしないか! まだ夜明けまでには間があるぜ。最後まで可能性に賭けてみるって気はねえの?」

 コンドラートの瞳が徐々に緊張に震えてくるのを見下ろしながら、ジェニースは全くなんの感慨もなく銃口を相手の額に当てる。
 そのまま引き金を絞ろうかとも思ったが、結局唇を開いた。

「言ってませんでしたっけ。俺、知ってるんですよ。竜なんて、実在しないって」
「なんだって?」

 コンドラートの目が円く見開かれる。まるで緑の森の奥深くにひっそりとたたずむ水盤のようだ。
 ホシンには存在しないそんな光景も、ジェニースの石は覚えている。
 耳の奥で静かに震え続ける石の振動を感じながら、ジェニースは言う。

「この地で昔から神様みたいに言われてる『竜』ってのは、地表でたまに起こる大嵐のことです。その痕が竜の這いずった痕みたいだっていうんで、誰かが『竜』がいるって言い出したんですよ。で、落盤事故とか、その他でも人間の胃じゃ消化しきれないほどにきつい災害は全部竜の仕業だっていうことにした。で、竜の罪が重くなりすぎると、魔法使いが竜狩りをやる」
「竜はいないってのに? そんなもん……今までの魔法使いは、どうしてたんだ? あんた、ホシンの歴史を全部覚えてるんなら、その方法も知ってるんじゃないのか」

 いささか真顔になって言うコンドラートを、ジェニースは少し感心して見つめ直す。
 この男、地下深くの酒場で『賢者』なんて自称している詐欺師の割りには、頭は回るようだ。
 当たり前の問いを当たり前のように口にすることができている。
 だがまあ、そのくらいできなくては、一癖ある地下深くの住人たちを騙して金を巻き上げることすらできないか。
 ジェニースは銃を握る手に少し力をこめて答えた。

「今までの魔法使いは皆、竜殺しを命じられたときに自分の運命を知り、七日で今までの仕事をまとめて死んだんです。だけど俺は魔法使いになってそこまで時間が経ってない。まとめる仕事もないから、真面目に竜を探すふりをしてたんですよ」
「じゃあ、俺はそれに巻きこまれて拷問までされたのか!」
「そういうことです。結構盛り上がった気もするし、結局だるかった気もしますね……。取りあえず、ありがとうございます。それじゃ、」
「知ってる!」

 力の限り叫ばれて、ジェニースの指がぴくりとする。
 今にも発砲しようとしていた拳銃を見下ろしてから、ジェニースは眉根を寄せてコンドラートを見た。やけに光る例の瞳が、じっとジェニースを見あげている。
 ふと、そこに恐怖の色がないのに気づき、ジェニースは軽く目を瞠った。
 どうしたことだろう。この男は死を恐れていない。
 ……いや、そうでもないのか?
 体は震え、顔はこわばり、皮膚は青ざめている。ただ、瞳だけが違う色をしている。
 ジェニースが菫色の瞳に囚われているうちに、コンドラートが早口で喋り始める。

「いいか、魔法使い。あんたは俺を強引にここへ連れて来た。そして俺があんた流の尋問に答えられなかったから、俺を詐欺師だと言い張ってる。だけどそりゃあ間違いだよ。俺の知はあんたの知とは違うんだ。俺の知は結果なんだよ」
「意味がわかりません」

 そっけなく言ってから、ジェニースはまた少し驚く。
 この地の全てを知っているはずの自分が、「意味がわからない」だなんて。
 そんなことは滅多にあってはならないはずだ。
 戸惑いのうちに言葉を途切れさせたジェニースに、コンドラートは椅子に四肢を拘束されたまま、出来る限り身を乗り出して主張した。

「賽子を返してくれ。俺の持ち物の中にある賽子だ。あれが、俺の知だ」
「……まさかあなた、確率こそが神だとか言い出す輩ですか? だとしたら――」
「神なんざ知るか! 俺がさっきから『賭けをしよう』って言ってんのは、あんたから金品を巻き上げたいからじゃない。俺の知は、賭けのときにしか発揮されないから言ってんだ! 俺の知は結果だ、賽子が振られた後に、真実が定まる」
嗄れた声で叫びながらも、彼の目は相変わらず妙な色に潤んでいる。
「意味がわかりません」

 ジェニースは言い、少し考えてから続けた。

「しかし、俺が二度も『意味がわからない』と言ったことには、意味があるようにも思います。賽子でしたね?」
「そうだ、早くしろ。じゃない……してください」
「大丈夫ですよ。何をどう言い換えようと、遠からずあなたは殺しますから」

 小さく肩をすくめて言い、ジェニースは拷問室の隅っこの作業台へ歩み寄った。
 人間解体のためのありとあらゆる道具の脇に、酒場から引きずり出したときコンドラートが持っていたものが積み上げてある。
 裏に毛皮を打った上着の隙間からがさつく合皮の財布を引きずり出して中をのぞくと、そこには硬貨など一枚もなく、何かの骨から削りだしたであろう真っ白な六面体がいくつか入っていた。
 ジェニースはその中に指を入れようとして、唐突に異様な予感にさいなまれて指を止めた。

 おかしい。
 これに自分は触れるべきではない。

 直感としか言いようのない感覚。
 しかしそもそも直感とは膨大な知と経験の上にしか生まれないものである。
 陰気な顔をほんのわずかにゆがめて、ジェニースは財布の端を持ってコンドラートの拘束された椅子のところまで戻って行く。
 コンドラートはいらいらと踵を鳴らしていた。

「拘束はどうせ、解いちゃくれないんだろ。まあいい。早く、賽子を俺の手に載っけてくれ」

 ジェニースは無言のまま、財布をひっくり返した。
 手首を肘掛けに拘束されたコンドラートは、どうにか金属製の枷の下で腕をよじって、やけに大きい手のひらに白い六面体を受け止める。そうして虫じみた指を揺らして、いくつかの賽子を床に振り落とした。

「――なんのまねです。くだらない復讐心で俺に拾えなんて言うなら、」
「違う。知を示すためにいるのはこいつだけなんだ」
 コンドラートは囁き、指の間でくるりとひとつの賽子を回す。
 その白さが目に浸みて、ジェニースはますますぞっとした。
 何を言うべきかを見失いかけてコンドラートを見ると、彼は彼で妙に興奮した顔をしている。
 もはや彼の顔には恐怖も悲嘆もなく、ただうっとりと賽子を見つめている。
 その目を見て、ジェニースは唐突に気づいた。
 この男の目が少女じみた印象を与える訳は、この目が恋をしているからだ。
 コンドラートの顔の表情はくるくる変わったが、瞳はその全てを裏切って、ずっと何かに魅入られていた。
 熱く残酷な縛る愛にがんじがらめになって、そこから出ることができない。

 そんなにも必死に、一体何に恋をした?

 コンドラートの視線の先にあるのは、賽子だけである。

「賭けをしよう、魔法使い」
「――どんな賭けです」

 今度ばかりは邪険にできず、ジェニースは片手に銃をぶら下げたまま訊く。
 コンドラートは手のひらの賽子から視線を外さず、歌う声音で告げた。

「この賽子が転がると、直前に俺の告げたことはなんだって本当になる。ジェニースは赤い、って言ったらお前は全身真っ赤になるんだ。俺はそのやり方で、お前に竜を出してやるよ」
「竜を」

 ジェニースは口の中で繰り返した。
 緩やかに瞬くと、まぶたの裏にちらとさっきみていた夢の竜がよぎる。
 灰色にひび割れた皮膚、その隙間から生えた色とりどりの水晶。
 コンドラートは続ける。

「そう、竜をだ。賽子をふって竜が出たら俺の勝ち、お前は俺の拘束を解いて自由にしろ。出なきゃ、お前は俺を殺せばいい。ああ、酷い目だなあ。信じてないのか? お前だって、こいつを持ってみりゃわかる。俺が気づいたのは、ある日の朝さ。俺は唐突に、この賽子が昨日とは違うもんになっていることに気づいた。理屈じゃない、とにかく気づいたんだ。こいつは賽子に見えて賽子じゃない。だったら何だって? そんなこと知るか! ただ、以来こいつをふ
ると、世界が変わる。変わるけど、誰もがそれをすぐに忘れる。変化は忘れられ、結果が残る。真実として。その前後を知ってるのは俺だけだ。俺は詐欺師じゃない。運命の支配者だ」
「自称賢者どころじゃない、自称神ですか」

 もう呆れた声を出すのも面倒なジェニースに、コンドラートはめげずに笑った。

「まあ、見てろよ。世界に変化が起こった直後は、誰もがその変化を見ることが出来る。忘れるまでには少しだけ間があるのさ。そうでなくてもジェニース、あんたは魔法使いだ。頭の中の石が、世界改変以前の知を保ったままでいさせてくれるかもしれない」

 ぶう……うん。
 ジェニースの頭の中で石が響く。
 いつもよりいささか甲高い響きだ。
 いつもと違うのは、よくないことだ。
 そんなふうにジェニースは思う。
 しかしいつもどおりの常識に従ってこのまま朝が来たら、ジェニースは死ぬしかない。
 ジェニースはゆっくりと息を吐き、吸って、体の横にぶら下げていた銃を引き上げながら言った。

「賽子を、ふりなさい」

 コンドラートは、ジェニースの言葉を待たずに、手の中の賽子を床へ転がした。
 そしてそれが床につくかつかないかのうちに叫ぶ。

「この魔法使いを、」

 そこまで言ったところで、コンドラートの頭は半分吹っ飛んだ。
 ばしゃっと石壁にかかった脳漿と血が胸を悪くして、ジェニースは泣きそうに顔をゆがめる。
 手の中にはかすかに硝煙を上げる銃があった。
 頭を半分なくしたコンドラートは、そのままがっくりと頭を垂れて二度と喋ることはなかった。
 ジェニースはその場で何度か呼吸を繰り返し、むせかえる血の臭いに吐きそうになって自分の口元をわしづかみにした。
 コンドラートが賽子の効果を説明し始めたあたりで、こうなる未来は見えていたように思う。
 拘束されて死を約束されたコンドラートが、ジェニースのために竜を出す必要などどこにもない。
 本当に賽子で現実を変えられるなら、ジェニースの死か何かを願うほうが現実的だ。
 ジェニースはどうにか呼吸を整えると、呪うような瞳でコンドラートを一瞥してから、床を見下ろす。
 ゆるゆるとコンドラートの血が広がり始めた先に、白い賽子が転がっている。

 触りたくない、ともう一度思う。

 触りたくない理由がわからないのが、ジェニースには恐ろしい。
 しかし、それ以上に奇妙な義務感も大きくなってきていた。
 自分はこの賽子の正体を知らなくてはならない。
 自分は明日死ぬとしても、自分の記憶は頭の中の石に記録されるのだ。
 この賽子が結局ただの六面体で、コンドラートが狂っていたというのならそれでもい
い。
 万が一そうでないのなら、この賽子に何か特殊な力があるのなら、そのことは記録されねばならない。
 ジェニースはゆっくりとしゃがみこみ、青白い指でもって賽子をつまんだ。
 その瞬間、誰かが笑ったような気がした。
 声が聞こえたわけではない。
 ただ、笑いの気配、のようなものを感じた。
 自分でもわけがわからないが、そんな表現しかできない。
 幻覚を見始めているのかもしれない。自分の死を間近にして、心身共に疲れ果てている。
 幻覚を見てもおかしくはない。
 他人事のように考えながら、ジェニースは賽子を床に転がした。
 転がしてから、何かを願うのを忘れたことに気づき、ぎょっとして言う。

「本物ですか?」
 
 短い問い。
 どうしてそんな言葉しか出てこなかったのだろう。自分でも呆れる。
 ただ、とっさに知りたかったのはそんなことだったのだ。
 この賽子は本当に、コンドラートが言うようなものだったのか、どうか。
 ただそれだけ。

 果たして賽子は軽やかな音を立てて転がり、やがて止まる。
 特に何が起こるわけでもない。賽子が喋るわけでもない。
 ジェニースはしばらく賽子を見つめてから、ほっと一息吐いた。
 なんだか、これで肩の荷が下りたような気がする。
 賽子はただの賽子だった。ただの八面体だった。それでいいじゃないか。
 それで、と、そこまで思ってジェニースは気づいた。

 コンドラートが持っていた賽子は、六面体ではなかったか?

 ジェニースは灰色の瞳をむいて、床に転がった賽子を凝視した。
 結局それだけでは足りず、手を伸ばしておそるおそる拾い上げ、コンドラートの死体の脇でガス灯にかざして見る。
 ……賽子だ。
 白い賽子。
 それは間違いない。

 だが、八面体だ。

 見覚えのない形だ。
 
 ――こいつをふると、世界が変わる。

 コンドラートの声が、頭の中の石で再生される。
 世界が、変わる。

「本当に? 本当に、お前には世界を変える力があるんですか?」
 
 そう告げた声は幽かに震えていた。
 ジェニースの指の間から賽子は転げ落ち、床に当たってころころと転がり、やがて止まる。
 瞬きひとつせずに傍らにしゃがみこんでみると、白い賽子は、今度は十二面体になっていた。
 ジェニースは我知らず低くうめいて、自分の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
 なんだか取り返しのつかないことをしてしまった気分で一杯だ。
 同時に、今なら引き返せる、とも思う。
 目の前の賽子は確かにおかしいが、六面体が十二面体になったところで、実害はない。
 頭の石にはちょっとおかしな記録が残るが、それだけだ。今なら膨大な記憶の中で、この賽子のことはちょっとした雑音として処理できるはずだ。
 わかっている。
 わかっているのに、ジェニースはもう一度賽子を拾い上げていた。
 頭の中の石が、少し笑うように歯切れよく震えた。
 知を、石が欲しがっているかのようだった。
 ひとは石を利用するつもりで利用されているのではないだろうかと思いながら、ジェニースは震える瞳で賽子を見つめ、囁く。

「教えてください。あなたが何者であるか。……これは、言い方が変かな。あなたが世界を変えるものだというのなら、俺を変えてください。あなたのことを知っている俺に、変えてください」
ひと思いに賽子を転がすと、十二面体はいささかぎこちなく転がって笑い声を立てた。

 いや、違った。
 笑っているのはジェニースの頭の中の石だった。
 石はきゃっきゃ、きゃっきゃとせわしなく笑ったかと思うと、どっと新たな、知るはずのない知識をジェニースの中に吐き出し始めた。
 それはジェニースの理解と認識の範疇を超え、ジェニースの全身からは一気に血の気が失せ、視界はばらばらに分裂してまともな像を結ぶことができなくなり、結果均衡を失った体は床へと倒れた。
 コンドラートの血だまりに顔をひたしながら動くこともできずに知識の奔流に弄ばれる中、ジェニースがどうにか言語化できた賽子の正体は、以下のようなものである。

 賽子はそもそも人間の認識を超えた世界に存在するものの影である。
 賽子自身の認識する賽子は六面体などではないのだが、人間の認識できる範囲ではあの形になってしまうのだという。
 賽子側はもちろん人間のことを完璧に認識することができ、無性に愛情を感じている。そこに理由はなく、ただひたすらに愛している。
 愛しているがゆえに干渉したいと熱望していたが、認識の差を埋めることは難しかった。
 人間が認識する形が自分たちと近い賽子の間に身を隠して、人間たちにとって魔法じみたこと――賽子たちにとっては
ごく当然のことだが、人間たちはその因果関係を認識できない――を起こしていた。
 しかしそこにあなたが関わってくれたことは素晴らしいことだった。
 あなたの知識を使えば、自分たちはもっと積極的に人間に関わることができるし、人間に認識しやすい形になることもできるだろう。

「……ばかばかしい」

 どうにか正気を保つために、ジェニースは言った。
 実際にばかだと思っていたわけではないが、我に返るためにはそういう台詞が必要だった。
 もがくようにしてどうにか床から起き上がろうとし、三回失敗した後に、ジェニースは拷問室の扉に取りついた。
 とにかく外に出たかった。ここよりはマシな空気が吸いたかった。
 扉を開けようと必死になっているうちに、ジェニースは部屋が立方体から八面体に変わっていたことに気づき、悲鳴ともなんともつかないうめき声を上げて、斜めの壁にしれっとくっついている扉を押し開けて外に出た。
 入り組んだ地下道を抜けて必死に先へ、先へと進むジェニースは、すぐに道が真っ直ぐ過ぎることに気づく。
 ホシンの地下はすべて昔からの坑道を改造したものだ。
 坑道は蟻の巣のように地中に枝をはり、からまり、ねじくれれて続いていく。
 こんなにも真っ直ぐな道などあるはずがない。
 ジェニースはよろめき、立ち止まろうとして、まっすぐな地下道の向こうを転がる何かを見た。
 硬質な音を立てて、たまにはねながら転がっていく白いものは、あれは賽子なのだろうか。
 ジェニースにはもはやよくわからない。
 それはおそらくもう百面体か、限りなく完全な球形に近いものになっており、誰かがふることを必要とせず転がっていくのだ。

「……本当に、ばかばかしいな。あんた、万人の望みを叶えるものになるのか? それとも、ふるやつがいないから、誰の願いも叶えないのか?」

 ジェニースが薄ら笑って言うと、頭の中に出現した知識が、こちらもきらきらと笑いながら返してくれる。

 私は全てを叶えるし、全てを叶えない。
 望みが結果として表れた時点でその望みは消え去るわけだから、叶ったと認識する人間は果てしなくゼロに近かろう。
 しかし君は違うかもしれない。君は知を持つ者であり、石の助けでもって私の贈り物を抱きしめてくれるかもしれない。
 私はそれを期待して君にお礼をしよう。
 君の願いは私の望みだ。
 君が望むものはこの先にある。

 自分勝手で甘い台詞はろくな予感を与えなかったが、ジェニースは先に進むしかなかった。
 実を言えば、最初は戻ろうかとも思ったのだ。
 しかし真っ直ぐなはずの地下道は振り向いてみると酷く入り組んだ見知らぬ道であった。
 それこそ蟻の巣のごとき地下道にはひとの気配すらない。
 賽子がジェニースに充分贈り物をしたと納得するまで、この世界はジェニースに贈り物をする他の機能を失っているのではないかとすら思われる。
 がむしゃらに戻ってもありふれた幸福や不幸のもとへは到達できないと見て、ジェニースは肺が空になるようなため息を 着いて正面を向き、のろのろと歩いていった。
 ジェニースが歩くと、先へ行く球体も浮かれて軽く飛び跳ねるかのようだった。
 ころころとどこまでも転がっていく球体だけを見つめて進むと、やがてジェニースは強い風を感じた。
 気圧の変化であろうか、そう思って反射的に鋭い視線を辺りへ投げると、四方を囲む暗闇に静かな光がまき散らされている。

 この冷えた光は星の光だ。
 無数にある。
 空いっぱいにある。

 つまりここは
 地下ではない。

 そう、地下道はいつの間にか終わって、辺りはホシンの地表であった。
 本来なら昼は血が沸騰し、夜は全身が凍りつく、ひとが住むには適さないホシンの地表。
 その赤茶け、縦横無尽にひび割れた大地の真ん中に、ジェニースはいた。
 誰ひとり生身で立ったはずのない場所だったが、呼吸は出来た。
 肌は心地よさと、強い風の感触しか覚えなかった。
 柔らかな髪が吹き散らされる。
 まったく理屈ではない。
 瞳が神経質に震えて、理屈にあったものを探そうとする。
 しかし見つかるのは誰も歩いたはずのない赤い大地に伸びる一筋の道である。
 球体はまだまだ転がっていた。
 風に追われるようにして奇妙な道を転がって、どこまでも到達しそうな勢いだ。
 いっそこの地を一周でもするのだろうか。
 自分はそれについていかねばならないのだろうか。
 ジェニースがいささかげっそりとして球体を視線で追っていくと、道の先に灰色の小山があるのが見えた。
 小山は随分先だが、ホシンの地表では遙か遠くまで簡単に見通すことができる。
 何もかもが鮮明で、多くの小山のごつごつした凹凸も、そのくぼみに密生した色とりどりの水晶も、暇人の描いた精密画みたいによく見える。
 真っ黒な空にかかったふたつの月が冷たい月光を落とす中、灰色の小山は緩やかに体を震わせると、足の間から静かに頭を引き出した。
 長い首が優雅にもたげられ、水晶が表皮の動きと共に波打ってきらめく。
 もう見間違いようはなかった。

 そこにいたのは竜だった。
 ジェニースの夢みた、そのままの竜だった。

 夢のような光景だったが夢ではなかった。そのことが何よりも残酷だった。
 どうしたらいいのかわからない、そう思いかけて、ジェニースはぼんやりと瞬く。
 石はジェニースの切実に望んだ竜を出現させてしまった。
 ならば自分はこれを殺すべきなのだろうか?
 しかし、どうやって?
 魔法使いは知識階級ではあるが、ホシンの民が思っているような魔法なんて使えない。
 魔法を使うのはあの球体。
 あの球体のように見えている、人間の認識を超えた何かだけであって、ジェニースではない。

 どうしたんだよ、ジェニース。
 こっちに来い。

 頭の中の知恵が球体の言葉を教えてくれる。
 何やら妙に人間くさい声と言い回しを使い始めたようだ。ジェニースは逆らいようもなく重い足をひきずって、真っ直ぐな道を歩いて行く。
 夜なのに世界は明るかった。
 月がふたつもあるせいだった。
 実際ホシンにはふたつの月があるが、同時に出ることは滅多にないはずだった。
 ジェニースはちらと片方の月を見あげて、それが異様に小さく、かつ、ホシンに近い場所に浮かんでいることに気づいた。
 赤茶けた球体の表面はでこぼこだ。
 ホシン地下の大空洞に広がる王宮の尖塔のようなものすら見える気ががする。

――そういえば自分は、ろくでもない命を下した王を恨んだことがあっただろうか?
 魔法使いとして生きる自分の運命を、ひたすらに呪ったこともあっただろうか。
 あの王宮をドロ団子のようにくるくると丸め、そのまま空に投げ上げたいと望んだことがあっただろうか?
 ジェニースを基準にして人間に干渉することにした賽子は、ジェニースのありとあらゆる妄想をこの世界に描き出す気だろうか?

 そこまで考えて、ジェニースはもはや自分が何も考えないようにするか、何も気にしないようにするか、どちらかの道を取るしかないのだと気づき、ひとまず後者の道を選んだ。
 まあ、まずは目の前の道を行くしかあるまい。
 竜を殺せるかどうかは知らない。
 そもそも自分の想像が正しければ、もう竜を殺す必要などないのだ。
 だったら取りあえず進んで、あの竜を間近で見よう。
 今はそうしたいような気がしているから。
 竜を眺めても何をしたらいいのかさっぱりわからなかったら、今度は賽子に自分はどこへ行くべきか訊ねよう。
 自分はホシンの神になるのかもしれないし、あっさり狂って終わるのかもしれない。
 どちらでもさして変わらない気もする。

 ジェニースは道を歩いて行き、世にも美しい竜は長い首をもたげてそれを見守っていた。
 ジェニースが疲れた瞳で見あげてみれば、竜は優しく潤んだ菫色の瞳を細めて、かすかに笑ったようにさえ見えた。


サポートは投げ銭だと思ってください。note面白かったよ、でも、今後も作家活動頑張れよ、でも、なんとなく投げたいから、でも。お気持ちはモチベーションアップに繋がります。