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田中克彦 『差別語からはいる言語学入門』 ちくま学芸文庫

やっぱり田中克彦はおもしろい。差別ということについては近頃妙に喧しい所為もあって、関心が無いわけではなかったのだが、本書を読むと己の関心が薄弱であることがよくわかった。自他の別の延長として差別もあるのだろうが、それは言葉によって如何様にもコントロールできる、その原理的なところについて考えさせられた。

本書の記述はかなが多い。意図的に漢字をあてることを避けているかのようだ。おそらく、漢字による表記が読み手に与える印象や先入観といったものをできるだけ排除したいのだろう。それがどれほど効果的であるかわからないが、それによって心ある読み手は文字が人の意識に与える作用の大きさにも気づくはずだ。

 ことばは、ふつうのからだをもって生まれてきた人ならば誰でも話している。長じて教室で外国語を学ぶときのように、発音や文法の特別の訓練をしたおぼえはなく、いつの間にか、気がついたときには身についているのがことば(=母語)というものである。(略)
 しかし書く方はそうではない。ことばを書き表わすには文字が必要になるが、その文字には二種類ある。一つはオトを表わす文字で、このオトは、たとえば日本語だと母音が五つとほぼ二十の子音があって、いずれにせよ、その数は有限個であるから、それを表わす文字も三十から五十くらいおぼえておけば足りる。
 ところが他方、オトではなく、意味(もっとこまかく言うと、単語の意味)を書き表わす文字がある。意味、具体的にはモノは何万どころか数限りなくあるし、その上、これから先どれだけ新しいモノが生まれてくるかわからないので、本当を言えば、その都度新しい文字が必要になる。(略)
 ことばは誰でも話せるという点で人は対等であるが、それを書く段になると、決定的なサベツが生じる。(略)
 このようなわけで、漢字語の多用は、ことばの民主主義に反する度合がより高く、ことばの使用に関するサベツを助長するおそれがある。
 二十いくつか知っていれば何でも書けるアルファベート文字が、ヨーロッパに科学と民主主義を育て、人間を解放する上で、どれだけのはたらきをしたかは、いくら強調してもしすぎることはない。

47-49頁

そもそも我々が認識している世界は言語世界であり、「自然」も人間がそのように認識している状態だ。人間の知覚で認知された情報に脳が秩序を与えて「世界」を拵えている。秩序を与えるのは言葉であり、あらゆる知覚情報のなかから自己の存在を正当化するのに都合の良いものを選りすぐり、それらを都合の良いように加工して、最大限に都合の良い世界が各自の認識の中に広がっている。人間は本来我儘で身勝手なのである。身勝手に世界を描き認識しているにもかかわらず「生きづらい」というのは認識の下地となる現実が余程過酷な状態であるか、知覚し認識する脳の側に問題があるか、その両方か、ということになる。「差別」についてもそうした文脈のなかで捉えられて然るべきだろう。

差別という、人間の心理状態を作り出すのはことばであり、そもそも差別という観念そのものが、ことばなくしては発生しないものである。(略)だから、人間に固有の差別という現実を問題にできるのはことばによるしかなく、したがって差別語を問題にしないで差別を論じる議論など、原理的に不可能なことはあきらかである。
 ここで特別に強調したいのは次のことである。「差別という現実」(くり返すが、これはことばによってはじめて生まれる)と、それを差別的に、ことばによって表現することとは別のできごとである。現実、より正確に言うと、事態は一つであっても、ことばはみずから、その創造的な力によって異なる表現をあてがうことによって、差別的な、あるいは非差別的な世界を、言語的世界の中に作り出すことができる。

29-30頁

世界とか世間といったものは既成のものとして在るのではなく、既成のものとして在ると己が規定しているものだ。その証拠に世界や世間に対する見方、「常識」や「合理性」といったものは各自各様で、その差異故に大小様々な諍いが常に人間世界のどこかで起こっている。世界や世間がひとつなら世界や世間はもっと平穏であるはずだ。これは個人のレベルのみならず個人間の同調や拒絶を通じて集団においても言えることだろう。本書では方言について触れている。

 日本の近代社会で、中央ではない地方の生活者たちは、この点では深い経験を持っている。かれらが受けた近代の言語教育は、「自分たちのことばは全体が誤ったことばであり、中央が指示しているとおりに入れかえるべき」であるという、反自然の言語運動としてはじまっている。誤っていることは恥ずかしいことだという感覚が、このことばの入れかえを、単なる機能上の(中央に行ってもよく通じるようにという)作業ではなく、道徳の感情と結びつけるに至った。
 差別語糾弾運動もまた、こうした言語教育の伝統から自由ではあり得ない。これこれの語は差別語であると指定した語を使用から排除し、辞書から消し去る運動は、じつは私たちが、すでに学校教育で受けた訓練によって熟知している、あの「誤ったことばは消し去らねばならない!」というモットーの応用問題である。だから、この運動が、どこかに方言撲滅運動をしのばせるおもかげをたたえているのはむしろ当然のことである。

33-34頁

平穏ではない現実の在り様こそが所謂「差別」の在り様でもある。「標準語」を設けることによって言葉に正誤が生まれる。「正しい標準語」対「誤った方言」の応用として「誤った差別語」という「道徳の感情」を生み出すことは難しいことではあるまい。現実世界にはひとつのことに対してそれに対する人の数だけ差異がある。そうしたなかで揚げ足をとるかのように差別に関わる言葉や行為を糾弾したところで恐らく何の解決にもならないばかりか、それが新たな差別や諍いを起こすこともあるだろう。

結局世の中は己の世界観の押し付け合いでしかないのである。所謂「差別」を肯定するつもりは無いが、物事の表層だけで右往左往していては何事か建設的なことになるとも思えない。しかし、我々は、たぶん、建設的なことよりも破壊的なことのほうが好きなのだと思う。少なくとも人と人とのつながりは、時代と共に断片化が進行しているように見える。

それは、我々が生身の五感を捨て去って、物事を言葉によって表現可能なもの、再構成可能なものだけに置き換えることを物事を「理解する」ことであると理解するようになったからではないか。だから、言葉がどれほど万能であるのかないのかを考えもせずに言葉で自分自身を含め全てのことが表現できると思い込んでしまい、言葉から零れ落ちてしまったことを認識しなくなってしまったのではないか。零れ落ちてしまったことも現実なのに。

人に自意識がある限り、自他を区別する心理から逃れることはできない。区別することは物事を分つことである。「分つ」「わかつ」「わかる」「判る」「解る」ということで、理解するということはそこに価値を見出すことでもある。つまり、単に区別するだけでなく、そこに上下左右の差異を設けるのである。そうして物事や世界に構造を見出して行動する性質を社会性などと称するのだろうが、そこで自分を絶対者の如く中心に想定し、それがさらに崇めたり恐れたりする「上」があり、排斥したり軽蔑したりする「下」がある。そう考えると「自分を中心に」とは言いながら、上下は均等ではなく「下」が厚く、「下」に対する区別や差別の自由度がより大きい造りになっているだろう。それだけ差別については社会や時代の変化に無節操に対応できるということでもある。

たまたま今の時代が「民主的」とか「平等」に価値を置く建て付けになっているので、意識の中にある「上」に対する卑屈さや「下」に対する傲慢を否定することでその「民主的」なる世上の価値観或いは共同幻想への迎合を図り、自分が世界の一部として存在していることを確認して安心しようとするのであろう。「差別」に対する差別的な拒否反応は今の時代の大衆社会の安定化反応だと思う。これが今とは別の価値観の社会や時代においては違った反応になるのだろう。人の意識とか社会心理というのはそれほど確たるものではないはずだ。尤も、だからこそ確かな何かを希求するのだろうが。

 さて、サベツにはほとんどすべてのばあいは社会的サベツ——出身地域、階層、職業、民族的、国家的などの——がかかわっているが、それらの土台の原点をなすものはからだから発している。なぜなら、からだは原則的には変えることができないからである。これは人間にとっての深い矛盾であるが、人間は何か変わらないもの、変えようと思っても変えられないものを、アイデンティティなどといって、異常に重んじるという保守的な性質をもっている。アイデンティティほど、人間を不動のものにしばりつけて、精神の苦しみを与えるものは他にないのにである。アイデンティティを重んじるかぎり、人間は運命などという、不合理の重圧から逃れることはできない。(略)
とにかく、変えやすいものから変えにくいものへという順序で、サベツの価値は高まっていくのである。

68-69頁

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