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田中克彦 『ことばと国家』 岩波新書

『ことばとは何か』の約20年前に刊行されたもので、『ことばとは何か』の中に本書に言及した箇所がある。

今から二十年ほど前、私が『ことばと国家』を書いたとき、はじめて言語学を社会や政治にむすびつけようとした試みだとして、そのような著者に期待が寄せられたことがある。構造主義に閉じこめられていた言語学が、ますます、自ら作った体系のわくの中に閉じ込もって、その節をつらぬこうという時代だったから、言語学者からは、私は学問の作法をよく知らない、行儀の悪い言語学のしろうとだと非難されたが、といって他方、その枠を破るほどの向こう見ずではないにせよ、ちょっと扉にすき間を作っただけの私に期待する側からは能なしの小心者だという失望を与えてしまったのはやむをえない。
田中『ことばとは何か』ちくま新書 164頁

言語学を政治と結びつけることが「試み」であったということに驚くのだ。今は当然のことだと思うが、それが高々二十数年前までは学問の「作法」に反することであったというのである。学問というのは真理の探究だと思っていたが、そうではないらしい。

尤も、学問も商売なのだから、市場原理の中に収まる在り方でないと成り立たないのは確かだ。政治勢力は学問にとっては主要な顧客であるようなので、そこに受け入れられないことには学問として存在できない。その政治にとっては、まとまった単位の票の供給源が主要顧客となる。供給源の素性は一切問わない。政治も市場原理下にあるので、数字が全てだ。市場原理の下で巨大資本が優位に立つように、選挙においては巨大宗教もものをいう。7月の暗殺事件以来、ちょっとした話題になっているようだが、政治家にとっては票をくれる勢力はどのようなものであろうと「神」なのである。神の世界では「はじめに言葉ありき」なので、政治と言葉と宗教は、なるほど親密であるはずだ。

もちろん、本書にはそんなことは書いていない。書いていないが、四章の「フランス革命と言語」を読むと、フランスもフランス語も私にとっては知らない世界だが、グッと現実味のある世界に感じられる。思えば、20世紀の終わりに雪崩を打つように崩壊した「人民」とか「労働者」の国々も、日本の明治維新も、フランス革命同様、人間というものが「社会的」な生き物であることを再認識させるものだった。要するに上下関係という構造抜きに人間社会は成り立ち得ず、その構造を決するのは理念理想というような綺麗事ではあり得ず、「国王」だの「将軍」だのといった呼称を「ナントカ議長」であるとか「ナントカ書記長」であるとか「ナントカ大臣」に変えただけで統治の仕組みは従前の体制を実質的に居抜きで使っているようなものだろう。権力や権威を支えるのは結局のところは市場原理で、その市場原理を巧みに活用できない権力は早々に崩壊する。「美人薄命」という言葉があるが、綺麗事に徹すれば早々抹殺されるというのが、たぶん、本当の意味だろう。どのような組織であれ、社会構造の基幹部分は多かれ少なかれ火事場泥棒風の人々が担っているように見えなくもない。

どのような統治システムであれ、統治の言語は体制安定の鍵を握る。この点で母語は決定的に重要なのだが、その重要性は我々日本人にはわからない。否、わかりすぎているのかもしれない。殆どの日本人にとって母語=母国語なので、事実であるか否かを問う以前に、母国語で記録に残るものは感覚としてほぼ絶対なのである。「書いたものがものをいう」と言われるのは、書かれたもの、つまり、母国語表記に対する信頼感が強力であるからだ。

しかし、諸外国、殊に世界情勢において発言力の大きい国々との交渉が国運を決する一大事と考えられた時代には、当然のことながら、その信頼感が揺らぐ。日本の統一国家としての揺籃期にあっては大陸の言語を母国語にしようと考えられた時期は当然あったであろう。結果としては、母語はそのままで文字だけが取り入れられた。さらにその結果としては、大陸の激しい権力闘争からは距離を保ちつつ、大陸の先進知見の導入と活用が進むことになった。そうして千年近くを経て、欧米列強との交渉の時期を迎えた。黒船に度肝を抜かれて、言語の見直しも当然検討されたであろう。

幕末から明治はじめにかけて、いわゆる国語外国語化論が議論された。後に日本の郵便制度創設の立役者となる前島密は「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出。その後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んだ。維新後の初代文部大臣森有礼は英語を日本の国語にすることを主張した。熊本の第五高等学校で英語の教師をしていた夏目金之助が1900年5月に文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられたのは、そうした国語問題の一環であったのかもしれない。夏目金之助は帰国後、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任し、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる。後に『吾輩は猫である』を執筆、小説家夏目漱石が誕生する。1905年のことだった。

結局、我々は相変わらず日本語を母語=母国語としてこうやって暮らしている。明治維新の時に英語を国語にしていたら、果たしてどのような国になっていたのだろう。それ以前に、人は実利的な理由で母語を自発的に放棄できるものなのだろうか。母語と母国語との葛藤のない国に生まれ育っているので、そういう葛藤がどのようなものなのか全く想像ができないのだが、世界で母語と母国語が一致していない圧倒的大多数の国々はかつて列強の植民地であったところだ。その列強の方にしても、複数の言語を内包している。日本のように母語=母国語という国は極めて珍しいのである。このことは何を意味しているのだろうか。

見出しの写真は夏目漱石がロンドンで最終的に落ち着いた下宿のあった建物だ。撮影は2008年10月13日。漱石は1900年9月10日に日本を発ち、1903年1月20日に帰国した。当時の往来は船便なので、片道1ヶ月ほどを要するとすると、英国での滞在期間は約2年2ヶ月ということになる。この間に何度も引越しを繰り返し、最後に落ち着いたのが見出し写真の81 The Chase, Lambethにある家の3階(写真ではわからないが地階がある。黒いドアの上の部屋なので、そのドアのある階を基準にすれば2階)の部屋だ。地下鉄Northern LineのClapham Commonから歩いてすぐのところにある。漱石はここで1901年7月から帰国直前の1902年11月まで暮らした。その部屋の外の壁にイングリッシュ・ヘリテージのブルー・プラーク (blue plaque)と呼ばれる史跡案内板がある。

NATSUME SOUSEKI 1867-1916 Japanese Novelist lived here 1901-1902 とある

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