富士山頂に響く音色(前編)

「お、萌からじゃ。お前の姉さんがワシにネタを送ってくれたぞ」
「へえ、姉さんからなんて珍しい。東京での生活は楽しいのかなあ」
 ここは静岡県の富士市。家の近くにある富士川の河川敷には、大学生の大樹とその祖父・茂がいた。この日は快晴。しかし少し暑い。それでも目の前に見える雄大な富士山の姿を見ると、多少暑いことなど忘れてしまうのだ。

 ペットボトルの水をあけて口に含む大樹が口を開く「今年は富士山登れないんだね」
「ああ、登山道が閉鎖されたようじゃな。30年以上も毎年富士登山が楽しみじゃったが、ついに今年その記録も途切れてしまうのう。まあ良い。来年また登るぞ」そう言った茂は、力いっぱい両手を上げて元気さをアピールした。
「そう考えたら昨年僕がじいちゃんと一緒に、富士登山に付き合ってよかったと思っているよ」
「おう、そうじゃった。お前と初めて登った昨年の富士登山。ワシもいつもと違って楽しかったぞ」

ーーー

 1年前の夏。大樹と茂は富士駅の駅前から出発する、富士山富士宮口5合目行きのバスに乗り込んだ。「大樹、お前そんなもの持ってきて大丈夫か?」「うん、だってどうせ日本一高い山に登るんだったら、そこで絶対に演奏したいなと思って」
 初めて富士登山をする大樹は、どうせ山頂まで登るのだったら、そこで子供のときから演奏しているトランペットの演奏をしたいと言い出した。だからひときわ大きなリュックを背負い、その中にトランペットを入れている。
 しかし茂は、初めて登るのに楽器の演奏ができるのか心配でならない。そうでなくても富士山頂は地上と違い気圧が低い。実際に高山病の症状が出始めた登山客を茂は何度も見ている。
 彼らは慌てて酸素ボンベをかきこむが、それでも苦しそうな表情を浮かべていた。もちろんベテランの茂は慣れていて、そのようなことはない。ただし常に慎重に行動する。だから大樹のやや軽率な行動が気になって仕方がない。

 バスは富士駅から富士宮駅に止まり、やがて湧玉の池というバス停に到着すると、ここで10分間休憩するという。
「よし大樹、浅間神社に参拝するぞ」そういうと茂はバスを降りる。他の登山客らしい人も同じく下車した。「初詣じゃあるまいし」大樹は半ば不思議な気がしたが、着いていくことにする。
 浅間神社の本宮は、立派な朱色をしていた。
「これは本宮じゃが、山頂に奥宮がある。ここで最初に登山の安全を祈願するんじゃ」と茂が、得意げになって説明する。賽銭を入れると2回拝礼を行い、柏手を2回打つ。そしてもう一度拝礼。茂はいつものにこやかな表情と違い、背筋を伸ばし、めったに見ることのない、凛とした真剣なまなざし。大樹は見よう見まねで後に続く。ただ願う際に「頂上で演奏ができますように」と頭の中で呟いた。

ーーー

 再びバスに戻り席に着くふたり。他の乗客が揃ったところで再び動き出した。バスは富士のすそ野を少しずつ勾配を上げて進んでいく。そのまま5合目までノンストップで行くのかと思いきや、以外にいくつものバス停に立ち寄っている。このあたりはまだ高い木の緑も多く、森の中のアスファルトの道をバスはどんどん高度を上昇。この間、茂はあたかも体力を温存するかのように体を背もたれにつけて、そのまま目をつぶっている。一方大樹は初めてだからか、窓に映る風景が気になって仕方がない。

 こうして五合目に到着した。バスから降りると先ほどとは空気が違う。目に見えないのに、五感でわかる空気の澄み具合。夏だというのに涼しさが感じる気温。空は晴れていて気持ちいい。時間はちょうどお昼である。
「ほんとうだ、上着を持ってきてよかった」「じゃろ。山頂はもっと気温が低くなる。夏とは思えない世界じゃ。よし、そこのレストランで軽く食事を取って、金剛杖を買うぞ」
「杖?僕は若いからそんなのいらないよ」と大樹。
しかし茂は楽しそうに笑う「ハハハハ!やっぱり初めてだと何もわからないんじゃな。杖があるといざというとき役に立つ。それ以上にこの先にある茶屋で焼き印を押してもらうので、登山の記念になるぞ」「あ、わかった。富士登山のベテランに従います」そう言って大樹はリュックから長袖を取出し、Tシャツの上から羽織った。

 レストハウスで軽い食事をとる。するとテラス席から富士市や遠く伊豆半島の輪郭も見える。「地図みたいに伊豆半島。あ、あれは御前崎かな」「大樹反対方向も美しいぞ」「え?」
 大樹が茂の言う方向に視線を送ると、富士山の剣ヶ峰が堂々たる姿を見せていた。「そうか、あそこに登るんだ」大樹はいよいよ挑戦する目の前の相手に少し身震いする。そして気持ちを落ち着けようと大きく深呼吸をした。

 売店で杖を購入。いよいよ登山口から山頂を目指す。「大樹、道に迷うことはない。特にこの登山道は裸に近いところを登るので、ずいぶん高いところまで登っても五合目の駐車場が見えるほどじゃ。だがゆっくり上るのがコツじゃ。他の登山客に追い越されても気にするな。徐々に気圧が低くなり、大樹のように初めて登山をするものは、最悪高山病になってしまう。そうなると登山を諦めて下山せねばならん」
「え、そんなに高山病って怖いの」
「ああ、舐めてかかるととんでもないことになるな。だがゆっくり上って行けばそれほど恐れることはない。少しずつ登って体を気圧に慣れさせていけば、問題なく山頂に登れるじゃろう」

 茂の注意を素直に聞いた大樹は、茂の後ろについて行くように登って行く。茂は杖を突いていたが、大樹はつかずに杖を浮かせたまま登る。登りはじめると、ハイキング道のようにサクサク登れるような雰囲気ではない。多くの登山客もゆっくり噛みしめるように登る。大樹は観念したかのように購入したばかりの真新しい木目の金剛杖を富士の大地に突く、鈴が付いているのでその都度鈴が鳴る。そしてそれを合図に片足が浮き上がり、ゆっくりと数十センチほど先の地面に落とす。足をクレーンのように膝を曲げ、左右交互に行う。普通のハイキングの山歩きに杖の存在が加わる。
 このあたりはすでにそれなりの標高があるためか、木々と言って低い高山植物が生えているだけ。だから視界が非常に良い。
 やがて建物が見えると6合目の文字が。ここに売店があり、海抜2500メートルと書いている。「ここで焼き印をもらうぞ」とは茂。大樹は言われるままに杖を出すと焼き印が押され、それは6合目まで来た証となった。

「じいちゃん。ここで道が分かれているよ」「ああ、そっちは宝永火山の方のコースじゃ。ワシらは山頂を目指すからこっち」そう言って茂は、頂上を目指す方向に杖を突いて歩き出す。土とむき出しの大小の石ころ。そしてどんどん低くなっている高山植物だけの荒れた世界だ。だがロープが張られており迷うことはない。それい以上に多くの登山客がいる。ふたりのようにこれから登る人もいれば、昨夜山頂で宿泊したのだろうか、下って来る人の姿も目立つ。

 こうして少しずつ登ると、次は7合目に到着。ここでも焼印をもらうとさらに登る。このくらいに高度を上げてからだろうか?最初は気にもならなかった杖の存在が不思議とありがたいものに感じる。
 大樹はこれまであまり杖を突かなかったが、このあたりから疲れて来たのか杖を突くことが増えてきた。次は8合目に来たと思えば、また7合目とある「あれ、なんで7合目がふたつも」「ああ、さっきのは新7合目じゃろう。ややこしいが、新と元の二種類あって何故か違う高度のところにあるんじゃ。まあ気にするな。まだまだ山頂は遠いぞ」
 上を見るとまだまだ斜面が続いている。すぐに登れそうに見えるがそう簡単には登れない。大樹はこの頃から少し登山に参加したことを後悔し始めた。「こんなにきついとは、じいちゃんって実年齢サバ読んでないか」

 疲れ気味の大樹は少し息が上がってきている、ベテランの茂は全く息が変わらない。「大樹休憩しよう」大樹が疲れていることがすぐに分かった茂は休憩を勧める。「ここからはもっとゆっくり行こう。なあに、日没までには十分山頂の小屋に行ける」こうして10分程度歩いては、2、3分休憩するということを繰り返す。途中の小屋で焼き印をもらうときには、少し長い目に休憩を取った。やがて9合目の小屋まで到達。
「よし9合目まで来た。もう少しじゃな。このあたりの山小屋で宿泊しても良かったが、そうすると御来光を見るために夜間歩く必要がある。ならば今日のうちに一気に登った方が良いと、ワシはいつもそうしているんじゃ。だからもう少しじゃ、大樹がんばれ!」

 大樹は、声も出ずに頭だけを動かしてで頷く。息は切れているがいわゆる高山病のような状況ではなさそうだ。ただの運動不足で疲れているだけの模様。こうしてゆっくりと歩くふたり。登山者はこのあたりに来るとずいぶん少なくなった。8合目や9合目で宿泊する人もいるし、本当にゆっくり上っているからどんどん抜かれていたのも事実。気が付けば太陽もずいぶん地上近くまで下がっている。
 夕暮れも近い。「もうすこしだ」すると大樹の目の前に見えてきた建物。これを見るとそれまでの疲れが忘れた気になる。山頂まであと一息、大樹の息はずいぶん荒くなりつつあるも、頂上を間近に見えたことによりテンションが上がる。そしてついに建物の前に到着したが、大樹は目を疑った。ここは9合5勺とある。「あと0.5あるのか!」大樹は思わずため息をつくのだった。

(後編に続く)


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こちらは49日目です。

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シリーズ 日々掌編短編小説 215

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