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神戸の夕暮れを見ながら入ってきた第一報  第543話・7.19

「今日は祝日じゃないんだよなあ」今日は7月の第3月曜日。石田圭は会社の出張で神戸に来ていた。例年ならこの日は海の日という祝日のはずだ。だが2021年は東京オリンピックの関係で、祝日そのものが後ろにずれている。
 そして本来祝日の日が勤務となったが、かつ、この日は日帰り出張のため、京都から神戸に来ていたのだ。

「ホアちゃん今頃大丈夫かなあ。でも神戸に来たからには、どうしてもここに来たかった」圭は神戸での出張業務を夕方に終えた。この日は直帰可能。だがその前に神戸港に寄り道する。
 それはベトナム人妻・ホアと1年前に神戸まで泊りがけでデートに来たからだ。とはいえ厳密にはその一か月前、昨年6月の話。
「病院に直行しないといけないけど、やっぱり来ちゃった。あの日のことを思い出すよ」実はホアは、出産のための陣痛が、昨日の朝方から始まっていた。もしこの日出張がなければ、圭はそのまま有休をとって病院に立ち会う予定である。だがそうはいかない。実はこの日の神戸では、どうしても圭がいかないとダメだった顧客であること。そして圭の母親が、先週から京都に来ていることも大きい。母は初めてとなるホアの出産のために、あらかじめいろいろと準備をしてくれた。
「男がいても何の役に立たないわよ。しっかり働いといで」と、今朝言われてしまう。こうして母がホアと一緒に病院に向かった。結局圭は黙って出張先の神戸に足を運んだ。

「まあ、無事に商談も終わったし、少しだけ回想してもいいだろう」ちょうど夕暮れどきの神戸港。神戸から京都まではJRの新快速を使えば、1時間ほどで到着する。圭はせっかくここまで来た以上、多少遅くなったところで大差があるとは思えないと考え、神戸港に寄り道した。

 圭は神戸港に到着すると、ちょうど地表に近いところが茜色に染まり、空は青からすでに藍色に変わっていた。やがて暗闇が全体を覆うのだろう。そして空の色とは無関係に、赤い砂時計のようにも見える神戸ポートタワーを始め、周辺のビルやホテルがきらびやかに光りだしていた。そして周りには、若い男女のカップルが自分たちの世界に入っている。

「去年は俺も、たぶんホアちゃんと、ああだったんだろうなあ」圭は1年前に一緒に神戸港に来たことを回想した。

「圭さんこれは調べたよ。メリケン波止場と中突堤をひとつにした公園。メリケンてアメリカンの意味らしいよ。で、中突堤は大正時代にできたところ」
「ホアちゃんやっぱり調べてたんだ。それで急いでここに来たかったのか!」
「うん、だって海を見に来たんだから」

「途中にある神戸・南京町の中華街をあれほどまで嫌って、一目散に神戸港に向かうあたりが彼女らしい。でもああいう性格が好きなんだよな」
 圭はすぐそばにホアがいるかのような気がした。そして1年前の記憶がどんどんよみがえる。

「うーんどこから撮影しても電線が映ってしまうよ。残念」
「今は俺が調べた。ここ日本で最初のモスクらしい。住民と貿易商の人が出資して建てられたんだって。それから中の見学もできるらしい」
「へえ、でも圭さん、それやめよう。私ちょっと短めのスカートで来ちゃったから」

「結局南京町に戻ってもいいとか言ってたけど、中山手の方で昼食をとって、異人館。その前にいろんな宗教の施設見たなぁ。イスラムのモスクだけでなく、ジャイナ教とかユダヤ教があるなんて神戸は異国情緒あふれている。でもあのとき、なんでホアちゃんあんな短いスカートだったんだろう」

 次に圭は海とは反対方向を見た。遠くに山が見える。「そうそう摩耶山に行ったんだ。山の上のホテル。食事も夜景もきれいだった。そしてそのまま六甲山を縦断して、翌日は有馬温泉まで行ったんだよ。ああ懐かしい」

「圭さん、今日はこげ茶色のジャケットを羽織っているし、いい感じ。でも本当は今年の5月に圭さんが新しいところに転勤となったから、じゃあ結婚しようということだったのに」

「結局ベトナム行きがなくなり、現地の結婚式は行けなくなった。けどこうやって正式に結婚して、間もなく子供生まれるのか。そういえばホアちゃん。ネットのコンテストに応募したようなこと言ってたなあ。
『圭さん、暇だからベトナムの世界遺産を紹介した文章書いたら入賞した』なんて言ってたな」
 圭は海を見た。この海の遥か彼方に、ホアの故郷ベトナムがあるのは確かなこと。
「そうだろうなあ。いろんなところに行って調べるのが好きな彼女。最後は自由に外に出られなかったもんな。たぶん頭の中でお出かけをしていたんだ。俺が会社に行っているときに、いろいろ想像して遊んでたんだろう」
 圭はしばらく山を見つめた後、再び海の方に視線を戻した。確実に暗くなる神戸の港。青い海が闇になっていく空の影響で黒ずんでいる。ただホテルなどの照明が、海面に反射されて映し出されている。わずかな波でも思いっきり揺れる姿は幻想的だ。

「そうそうあのときは、まだ籍も入れてなかったんだ。おなかの中に子供がいるとわかってからだもんな」圭はこのとき、病院でホアが子供を産むために必死になっているであろうことを、想像で脳裏に浮かべる。
「よし、行こう。言って何かをするわけでもないけど、京都の病院だ」
 我に返った圭は、神戸港の海に背を向けて、歩き出した。するとスマホからのメッセージ。「もしかして?」圭はホアが出産したのかと思い、慌ててスマホを見る。それは正解で「無事に出産した!」と母からの一報。
「良かったあ!」圭は思わず声に出した。一瞬周りの見知らぬ人の視線が圭に向かった気がしたが、圭は全く気にならない。通勤帰りの人たちに紛れ込みながら小走りに駅に向かう。

「本当は神戸港に寄り道したらダメかと思ったけど、直接戻ってたとしても、どうせ間に合わなかったな」と心の中でつぶやく圭。そして誰の目にもわからぬように小さく舌を出すのだった。


 

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