『伝王仁墓』- 偽文書が紡いだ伝承と日韓交流
偽史、フェイクロア、創られた伝統といった背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する「特異点」と捉え撮影する記事。今回は、大阪府枚方市にある『伝王仁墓』を取り上げる。
『伝王仁墓』について
王仁とは
王仁(わに)とは、4世紀末から5世紀初め、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から、日本へ『論語』や『千字文』をもたらしたとされる人物。『古事記』『日本書紀』『続日本紀』といった史記に、王仁に関する記述はあるが実在したかは疑問視されている。加えて、『千字文』は4世紀には存在しないとされている。
王仁は最後、藤坂村(今の枚方市)で亡くなったと伝えられている。
霊験あらたかな「自然石」が墓の発祥
その昔、藤坂村には「オニ墓」と呼ばれ、村人に祀られていた自然石があった。その石には歯痛やおこりに効き目があるという伝承があったという。だが、江戸時代のある調査によって、それは「王仁の墓」であることが判明。その後王仁を讃えるため、石碑が建立されることとなった。
しかし、その調査で根拠となった文書は「偽文書」であったとされている。では、なぜ偽文書が「王仁の墓」の根拠として扱われ、現在にまで至るようになったのか。
『五畿内志』への掲載がきっかけ
『五畿内志』とは
江戸時代、関祖衡・並河誠所によって、『日本輿地通志畿内部(通称『五畿内志』)』が企画・編纂された。これは幕府全面協力で作成された地誌で、のちの地誌編纂事業においても手本として活用された。
名所旧跡の調査で藤坂村のオニ墓に赴いた並河誠所は、「オニ」は「王仁(わに)」の訛りであり、これは「王仁の墓」であるとして、『五畿内志』に掲載した。その際根拠として注目したのが、『王仁墳廟来朝紀』という史料であったという。
『王仁墳廟来朝紀』について
『王仁墳廟来朝紀』とは、王仁が藤坂村にて没し葬られた経緯を著した古文書である。作成者は、交野郡禁野村(枚方市)にある和田寺住職で、王仁の子孫とされる道俊である。並河は和田寺(現在は廃寺)にてこれを発見。その文中にあった、王仁の墓を「於爾(オニ)之墓と誤魔化した」とした記述から「王仁の墓」であると断定した。
しかし、この『王仁墳廟来朝紀』、実は『椿井文書』と呼ばれる後世に創られた偽文書のひとつであった。さらにいえば、並河が和田寺で『王仁墳廟来朝紀』を見つけ根拠としたというエピソードすら、椿井によって創られた偽物語であった。
『椿井文書』とは
近畿の広範囲にわたって分布している偽文書
『椿井文書』とは江戸時代後期、椿井政隆によって作成された数百点もの古文書群である。主に、地域の神社仏閣の縁起書、由緒書や境内図などが書かれている。『椿井文書』は近畿一円に分布しており、未だその全容は把握されていない。またそれらの中には、貴重な地域史料として現代でも活用されているものも多く、大きな影響を与えている。
しかし近年、その多くは椿井によって創作された「偽文書」であることが、歴史学者 馬部隆弘氏によって本格的に明らかとなった。
『五畿内志』と『王仁墳廟来朝紀』による相互補完
『五畿内志』は幕府協力のもと編纂されたため、当時の地誌としては高い正確性を誇っていた。だが一方で、時間・人員の制約の関係で中にはこじつけや怪しい箇所、誤りがあることが当時から指摘されてた。
椿井は、この「疑わしい」部分に着目した。並河が調査にあたって、「根拠としていた史料」として『王仁墳廟来朝紀』を作成し捏造することで、『五畿内志』の記述を後付けで補強した。そうすることで、幕府お墨付きの『五畿内志』が参照した『王仁墳廟来朝紀』という、史料の価値や信憑性を相互補完することに成功した。
このような史実の隙間を埋めるやり方は椿井の常套手段であり、同様の手法で由緒書、絵図などが製作されている。また、その中には文化財に指定されたものもある。
ちなみに『王仁墳廟来朝紀』に関しては、実際は和田寺に伝来したものではなく、藤坂村の山中氏が明治時代に入手したものだったということが、1939年10月10日の大阪朝日新聞で報道されている。
『博士王仁之墓』と『博士王仁墳』の建立
かくして「王仁の墓」となったオニ墓。その後並河は、藤坂村の領主久貝氏に進言し、1731年、『博士王仁之墓』と刻んだ石碑を建立。
1827年には、王仁を日本に帰化し天皇家に仕えた博士として顕彰するため、招提村の家村孫右衛門が発起人となり、墓の傍らに『博士王仁墳』を建立。碑文は皇族の有栖川宮筆によるものである。
このようにして、王仁は日本で大きく讃えられる存在となったが、一方、韓国においてはどのような存在だったのか。
韓国における王仁の存在について
王仁とされる人物はいない
朝鮮の歴史書、考古学資料含め、王仁、あるいは王仁と推定される人物の記述はなく、それについて歴史家の金英達氏は以下のように指摘している。
では、なぜ韓国においても王仁が伝承されるようになったのか。
王仁顕彰運動の始まり
1968年、韓国の農業運動家の金昌洙が、自国の農業協同組合育成の視察で訪日。各地を回る中で、日本に王仁の伝承や遺跡があることを知る。
1970年、再来日し各地の王仁に関する史料・史跡・証言などを調査、収集。
その後、金昌洙は自国における民族史観の定立のための王仁研究所を設立。1972年、『中央日報』にて「百済の賢人 博士王仁の偉業 日本に植え付けた韓国魂」を連載。
その連載をみた霊岩郡の青年会議所会長の姜信遠から「霊岩郡一円に王仁の伝承がある」との情報提供があり、地元有志らとともに現地調査。そして金昌洙は、王仁の誕生地は霊岩郡に違いないとした(金昌洙『博士王仁 : 日本に植えつけた韓国文化』成甲書房 1978年)。その後霊岩郡は、王仁誕生の地として様々な計画が遂行されていく。
1975年、全羅南道知事が博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表。
1976年、霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を、『王仁博士誕生地遺跡』として文化財に指定。周辺を遺跡公園として観光地化した。
こうして王仁は、ひとりの活動家によって日の目を見ることになった。しかし、一連の顕彰運動について金氏は、「韓国が日本に漢字や儒教を教えた」という優越さが韓国人の民族意識をくすぐり(=文化的コンプレックスの裏返し)、結果歴史が偽造されたと指摘している。
日韓交流の懸け橋となった『伝王仁墓』
大阪府指定史跡への登録
明治以降、有志によって『伝王仁墓』の整備拡張が計画されるが、一向に実現されることなく時が過ぎる。
しかし、1919年の三・一独立運動以降、日本の朝鮮半島に対する統治の方向性が変わり、内鮮一体の皇民化政策が進められる中で、日本と朝鮮をはるか昔に結び付けた人物として王仁が再注目される。その後の経過は以下のようになっている。
1927年、王仁神社奉賛会が結成。
1930年、王仁神社建設の奉告祭・地鎮祭が開催(満州事変のため建設は延期)。
1934年、北河内郡菅原村が大阪府に『伝王仁墓』の史跡指定を申請。
1938年、大阪府が史跡に指定。
現在も『伝王仁墓』は指定史跡であり、府のホームページにも掲載されている(2024年2月12日アクセス)。
友好都市の提携
戦後、『伝王仁墓』は「日韓友好親善運動」にも利用されるようになる。
1984年、博士王仁まつりが開催され韓国領事が参加。
1985年、枚方に「王仁塚の環境を守る会」が発足。同年11月、王仁生誕地とされる韓国霊岩郡の王仁廟竣工式に、「守る会」が招請を受け出席。
その後も「守る会」をはじめとする地域住民は、『伝王仁墓』の清掃や祭りの開催などを行っている。また霊岩郡とも、手弁当で交流を続けてきたという。
そのような交流もあり、2006年、『伝王仁墓』の入り口に韓国の全羅南道からの資材によって、霊岩郡にある王仁廟をイメージした『百済門』が建設される。そして2008年、枚方市と霊岩郡が友好都市提携を結ぶ。こうして『伝王仁墓』は、国家レベルでお墨付きが与えられる伝承、遺跡となった。
そうして現在、『伝王仁墓』は韓国からの観光客や修学旅行団が訪れるなど観光地化している。
ちなみに、大阪には他にも王仁に関連するとされる神社や古墳などが複数ある。
博士王仁まつり
1984年の開催以降、文化の日に継続して行われている。地元の市長や議員、韓国からの訪問団が参列し、地元の小学校などが演目を披露しているという。
こちらについては、また時期に合わせて撮影を試みたい。
終わりに
本物になろうとする偽物の方が、時に力強く輝く
ひとつの偽文書が成立させた、「王仁」という伝承上の人物。しかし、もたらした功績は凄まじい。
金英達は、こうした歴史が偽造される経緯について以下のような見解を述べている。
本物になろうとする偽物のほうが、それだけ背景にある要素のダイナミズムが力強い。そこが、ある意味魅力的に見えたり、希望として輝いて見えるのかもしれない。
歴史学の観点では、偽史としての指摘は必要だろう。一方で、地域史の枠組みを超え、日韓交流の拠点のひとつとして発展した『伝王仁墓』は、センシティブな背景の多い日韓関係において、ある種拠り所なのかもしれない。この辺りの両義性については大変難しい。
当時枚方市長公室次長の野田充有氏は、偽文書がもたらした伝承であるとの指摘に対し、自治体として発信内容を改めると回答しつつも、「王仁墓として親しまれてきたのは事実で、伝承は大切にしたい」とも述べている(『夕刊読売新聞』2020年4月13日)。
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