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太陽信仰2.0

マガジンご購読の皆様、こんばんは。皆既月食をご覧になることはできたでしょうか? すごくよい写真を撮ろうと、カメラや三脚等の機材をそろえ、画像処理のソフトウエアをチューナップし、撮影ロケーションもだいぶ前から考えてあったという方も多かったようです。関東地方などでは、そんな涙ぐましい努力も、「曇っている」というわずか5文字の現実の前に吹っ飛ばされてしまいました。こういう時こそ、「100%晴れ女」の絶好のビジネスチャンスでした。でも自然の力はたいしたもので、人がどう騒ごうとも、淡々と次の月食がやってきます。次回は2021年11月19日です。部分月食ですが。次回、お見逃しなく。

さて、昨日の続きをお送りいたします。

1. 太陽信仰2.0   - クララとお日さま - 

カズオ・イシグロが 2021年に発表した小説   Klara and the Sun(クララとお日さま)は、サイエンスフィクションの一種にはいるだろうか。一般家庭のこどもの相手をするロボット、 Artificial Friend, AF が登場する。高度な人工知能を備えた人型ロボットである。家族のよい一員として貢献できるよう、よくプログラムされている。あらゆる方面の知識を持ち、優れた観察力と総合判断力を備え、さらに実践的に自己学習して、環境に適応することができる。

この物語の語り手のクララは、そんなAF である。読者は、初めは、クララのロボットらしい珍しい語り口に単純素朴な好奇心を持つのではないか。例えば、お店のショウウインドウに置かれているとき、通りかかって立ち止まる子供たちや大人たちの外観から、年齢や社会的立場や年収まで、細かく推測する。主たる入力情報は画像であり、また画像に対する認識は幾何学的な取り扱いを基礎にしている。口頭の会話におけるコミュニケーションの処理は精密で論理的である。こうした点にアルゴリズムのようなものを感じるのではないかと思う。

物語が進行すると、そんなことも忘れ、ぐいぐい引き込まれ、クララに感情移入させられてしまう。クララは、ロボットであり、組み込まれたアルゴリズムに従い、オーナーのために働く機械である。しかし、いつの間にか、そんな前提部分は希薄になり、人の種々の痛みを含めた感情、ある種の人格を持つ存在のように感じられる。

クララは、最新のB3型のAFではない。1つ前の世代のB2型で、嗅覚を持たず、いくつかの点で最新型とは異なっている。AFの世界にこうした区分があり、AFを買い取る大人たち、こどもたちもその区分を意識している。また、この時代の子供たちも、lift された子とされなかった子のような区分があり、差別される。この lift とは、遺伝子工学的な処置のことのようである。lift された子たちは優遇される。クララを買った家庭の ジョジーは、lift されているが、幼なじみで、隣家のリックは才能豊かではあるが、 lift されていない。

つまり、これは一種の階級社会である。ジョジ―の家も、リックの家も、その他の家でも、lift されているかどうかは大問題になっている。 さらに lift されていない場合も、そのような子にも門戸を開いている競争率の高い名門大学に行くかどうかは大問題である。そのことがいつも頭にあり、精神をすり減らしている。

クララは、旧型のAFであることを少しは気にしているが、そこまで思い詰める様子はなく、淡々と自分のできることを、ジョジ―のために、またリックのために、けなげにこなしてゆく。

クララとジョジ―は、最後まで親友だった。後でやってくる別れ、その後に訪れるクララの運命のことは読者は何も知らない。けなげなクララの毎日の活動もさらっと受け止めてしまうのはやむを得ないところだろう。クララが太陽光でバッテリーを充電されて動くロボットであることさえ、うっかりすれば忘れてしまいそうだ。

ジョジ―の一家には、ジョジ―の姉にあたるサリーがかつていた。lift された後、亡くなってしまったのである。ジョジ―もまたlift の影響かどうか詳細は不明ながら、病弱であり、クララが来てからも、症状が悪くなっていた。

読者にとっては最初の段階では知る由もないことであるが、ジョジ―母はショップでクララを買う時点で、既にある考えがあった。万一ジョジ―がサリーのように亡くなることがあった場合に備え、クララにジョジ―のすべてをあるがままに記憶させるというものだった。つまりはジョジ―のバックアップコピーみたいなロボットになってほしいということである。そう言えば、クララを買う直前、ジョジ―の歩き方を真似させるテストをしていたのだった。まさか、そんなことを考えているなど、読者には思いもよらないことである。

打算的に考えれば、ジョジ―亡き後のバックアップコピーとしての将来も AFロボットとしてはまったく損はない。ジョジ―の母からわが子同様の愛情を一身に受けることになる。だが、クララは誰も考え付かないような全く別のアイデアで、ジョジ―を救おうとする。以前、ショップのショウウインドウとして飾られたいた時代、クララは太陽が不思議で特別な力を持っていることに気づいていた。ほとんど死にかかっている人が、太陽の力で、生命力を取り戻す現場の一部始終を目撃していた、

最新のコンピュータを内蔵し、あらゆる知識、情報を蓄えているクララは、現代の太陽についての科学的知識は当然持っていると考えられる。科学の知識が欠けているからではなく、その反対に、十分すぎるほどの知識があるからこそ、クララは、その知識を超え、太陽の特別な力を認めたようである。太古の時代の人類の自然崇拝、とりわけ太陽の神、日本で言えばアマテラスオオミカミに対する信仰のようなものを、クララは現代風、未来風に再認識したのだろうか(太陽信仰 2.0 と呼んでおく)。

そこで、ジョジ―の家から見て日が沈む位置にある物置のある家まで行き、太陽に向かってジョジ―を救ってほしいと懇願したのだった。その願いは読者としてはもっともに思えるものである。だが、人ではない高度な人工知能を持つロボットが、頼まれもしないのに、自発的な意思でそのように振る舞うのは、ありえないほど異常なことである。クララは、太陽以外のあらゆる案件で、このような行動をとったことはない。太陽は特別ということである。

クララは、太陽にジョジ―を救ってほしいと懇願する一方、相応の代償が必要であることもよく認識している。クララは太陽に向かって環境汚染をもたらす大規模工事用の機械を破壊すると約束した。いったい何の話かと思えば、ショップのショウウインドウにいた頃に見た機械のことである。この発想もまたアルゴリズムとデータにもとづく判断を行うロボットらしくない。こうした技術の詳細に詳しいジョジ―の父に相談するというのは、ロボットの学習という文脈では異常ではない。だが、クララの頭部に注入されている液を抜き取って、問題の機械の燃料に混ぜれば、その機械は動かなくなるというのは仮に正しいとしても、アイザック・アシモフの定めたロボット工学三原則の第3条に違反する。第3条は "A robot must protect its own existence"(自分を守らなければならない)である。頭部の液を一部でも抜くと、クララのAFとしての能力に影響を与えかねず、きわめて危険である。実際、少なくとも直後は、影響はあったようだ。検出、認知の速度が明らかに落ち、画像が乱れたりもしていた。

結果としては、ある日のこと、危篤状態のジョジ―の部屋に、きわめて強い太陽の光が差し込み始めた。以前、クララがショウウィンドウのなかで目撃したのと同じことが、ジョジ―の身に起きた。クララの願っていたことが実現した。

こうしてジョジ―は元気になり、大学に進学し、家を離れた。これがクララとジョジ―の永遠の別れになった。クララの役割は終わった。クララは不用品や廃棄物が集積されている倉庫のような場所で過ごしている。そこに、かつてのショップ店長が訪ねてきて、短い会話をかわす。

あまりにもポジティブ思考の持ち主であるクララ。善意、愛、信頼など、人が失うことが多いものを、人よりもよほど大切にしている。気負うことなく自然に、淡々としっかりと、その価値を実現している。データとアルゴリズムに従いながら、それを大きく超越する太陽の力を認め、尊敬し、かつて太古の時代の人類がそうしたように、ある種の信仰心を持っている。太陽信仰2.0 は、現代物理学と宇宙論のあらゆる知識とデータを前提としながら、太古の時代の人類と同じように太陽の力を頼っている。そして太陽との約束を果たすために犠牲を払おうとしている。

そんなクララは、役割を終え、倉庫で、これから淡々と自分の記憶をどのように整理して過ごすのだろうか。

カズオ・イシグロの長編第6作"Never Let Me Go" (わたしを離さないで) は、臓器提供を主なミッションとするクローン人間の物語だった。その語り手のキャッシーと、今度のクララとの間には、どことなく共通する点がある。また、エミリ先生と、今度のショップの店長は似た雰囲気がある。しかし、結末の印象は、だいぶ違っているかもしれない。それほどまでに、クララは自分の最期を淡々と受け止めているように見える。痛みや悲しみを超越する水準において、あのキャッシーをも上回っているかもしれない。

思えば、クララはとても興味深い指摘をしていた。ジョジーの病気が治らず、亡くなってしまった場合に、クララがジョジ―のバックアップになる準備がされていたことについてである。クララは、これは失敗だ、うまくゆかないと結論づけていた。ジョジ―のすべてを完全に情報収集し、あらゆる感情も何もかも、細部まですべてを学習することじたいは可能かもしれない。しかし、そのようにしたとしても周りにいる人たちの心の中、記憶に投影されているジョジ―は別にあり、それは原理的にコピーすることができない。だから、それは失敗だ、というのである。

太陽に対して以外は、一貫して冷静なクララ。読み終わって、時間がたてばたつほど、クララの存在感は大きくなってくる。

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