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#9『夏のぬけがら』

晩夏、成長の節目。

夏の終わりが近づくと、人は成長したような気持ちになる。
区切りとなる年末にその感覚は生まれない。


夏は白痴だ、人をダメにする。
将来の自分への投資とか、生活の不安とか、意地悪い闘争心が的外れになる。
それは夏の役割じゃない、もっと相応しい季節が他にあるはずだ。

夏は生産性がない、人をダメにする。
無意味なものにお金を使う、昼間にうたた寝して気づけば夕方、甲斐無く遠くへ出かけたり、酒をたらふく飲んで恥ずかしいくらい饒舌な日もある。

だけど、8月の終わりに気づく。
以前の自分より好きなものが増えていることに。
無論好きだったものはより一層好きになっている。
お気に入りのレコードが手に入ったり、もう一度行きたいと思う場所が見つかったり、思いがけず出会えたサッポロの赤星や、過去の憂さ話を諧謔的に話せる心持ちになっていたり。

そのほとんどは何の役にも立たない。
役に立たないものを好きになるのは不安な気持ちになる。
いい加減生産性のあることをひとつでも成し遂げてみろこのグズ野郎と、自分を脅してしまう。
憐れみを欲したままでガラクタを所有するのは少々無理があるし、その気持ちを保つのは難しい。
どうせ自分は、という卑屈な気持ちを抱えたまま物事を好きでいるのはとても息苦しい。
それならばいっそ、会ったこともない親戚の告別式で真面目に悲しい振りを演じるような生き方をすれば楽だろうか。
愚問、楽な生き方を選ぶのは尚更心がほつれていく。

いったい何のために、古いレコードに針を落としているのか。
いったい何のために、人生を必要以上に難しくするような本を読んでいるのか。
いったい何のために、飽きず下手くそな絵を描き続けているのか。
20万円で買ったギターは、11万円で買ったカメラは、定額のadobeを契約し続けるのは、いったい何のためだ。
誰のためでもない、自分自身のためだ。
憐れみなんか欲するな、下心なんか持つなクズ野郎。
やれ他人のためだ、日本のためだ、地球のためだ、自惚れるな、聞いてて腹が立つ。
そんな常套句は思想の制約。

今役に立つものなどいずれゴミになる。
使い捨てカイロは冷たくなれば捨てられる。

生活のスリム化、不必要なものは削減。
便利な暮らし、便利な結び目、便利な人間。
精神は痩せこけて、やがて好きなものすら分からなくなってしまう。
情報過多で人生は本質を失う。

いったい何のために、古いレコードに針を落としているのか。
うるさい、何度も楯突くな。
誰のためでもない、自分自身のためだ。

ある人に言われた。
自己啓発本を具現化したような男に言われた。
何をするにしても生産性がないとそれはマスターベーションだと。
そんな人間は社会において不必要だと。
ならば文化は、芸術は、生産し消費されるための商品だと言うのか。
その全てがただ受け手のニーズに応えて作り出される商品だとしたら、僕らが信じたユースカルチャーやカウンターカルチャーはなんの意味もなかったことになるじゃないか。
僕の言葉足らずな反論では、彼のしたり顔を打ち砕く事が出来なかった。
また若者が卑しい大人の酒の肴にされたわけだ。

喪失感、腑抜けた心、怒りすら湧かない不健全な脳みそ、妥協、諦め、あるいはそれに似た何か。

終わりの見えない彼のビジネスの話、コンビニの隅に陳列された粗悪品みたいな話、結局最後のページまで具体的な答えがない押し売り。

それからしばらく、またその男と遭遇。
したり顔などはなく、まるで抜け殻のように消沈しきっていて見る影もない。
言葉は無くブラックニッカのハイボールを2杯ほどひと息に飲み干し、そのままふらふらと表へ出ていった。
哀れみなどの感情が生まれるわけでもなく、ただ無心で遠のいていく彼の背中を見届け、交差点を曲がって見えなくなった途端、僕はすぐに彼のことは忘れていた。

後で聞いた話、彼の起こしたビジネスが良くない方に転んで、精神的にまいっていたんだとか。
不必要なものは切り捨てられる社会で生きるのは大変そうだ。
僕には向いていない。

それもまた晩夏の出来事。

好きなレコードに針を落とす。
マーシーの『夏のぬげから』を毎年この時期、この時間帯に聴く。
生産性なく、むしろ溝はすり減る。

役に立たないものを好きになるのは楽ではないが、生きやすい。

だがそれ相応に孤独。
器量なく、成長のドアを足で開ける。

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