【中編】片側だけで感じる彼・彼女 No.1/11
「只今帰りましたぁ。」
誰もいない部屋の明かりをつけ、俺は答える人がいないのが分かっているのに、声を発した。
1LDKの単身用マンションはひっそりとしていて、冷蔵庫だけ鈍い駆動音を鳴らしていた。
仕事が終わり、ここに帰ってきて、いつもはシャワーを浴びて寝るだけだ。
そして、数時間寝たら、また会社に向かう。
毎日特に変わらない日常。
休みの日も、昼近くまで寝て、後は家でだらだらと過ごしていることが多い。でも、皆そんなものだろうと思う。
それにしても視界がボヤっとする。目の使い過ぎだろうか?
バッグを玄関横に放り出し、直ぐに洗面台に向かう。水を出し、顔を洗うついでに、手を受け皿にして水を汲み、そこに目をつけて、瞬きを繰り返してみた。
先ほどよりはましになったが、それでも視界はぼやけたままだ。
目薬差してみるか。
顔をタオルで拭きながら、バッグを持ってリビングに移動する。ネクタイを外し、襟元を緩めた後、バッグの中から持ち歩いている市販の目薬を取り出した。
目薬を差そうと、片目を閉じたところ、自分以外誰もいないはずの部屋に、人影が一瞬見えた。
「!」
とっさに手を止めて、リビングの中央を凝視する。でも、そこには何もない。寝ころべるように毛足の長いラグが引いてあるだけだ。
疲れてんのかな?
頭を軽く振って、思い直して、再度目薬を差そうとした。
「・・・。」
俺はリビングの中央を見て、動きを止めた。
自分と変わらないぐらいの年齢の女が、ラグの上に正座になって、俺のことを見上げていた。
「なっ・・。」
声を上げかけると、女の姿がかき消える。なんだ?俺は夢でも見ているのか?
今見えた女のことを頭の中で思い返す。
肩下くらいで切り揃えた髪。多分寝間着らしきものを着ていたような気がする。そして、女は必死に自分の目を指差して俺にアピールしていた。その片目は瞑られていて。。
俺は女と同じように、片目を閉じてみた。
「!」
ほっとしたような顔をした女の姿が、またラグの中央に現れる。何度か片目を開いたり閉じたりしてみたところ、片目を閉じた状態だと、女の姿が見えるということが分かった。
それにしても、彼女は誰だ?
片目を閉じれば、姿が見えることが分かったので、俺は彼女の前に膝立ちになって、その顔をじっと見つめた。相手が顔を赤くするが、知ったこっちゃない。
少なくとも、彼女は俺が知っている相手ではない。多分会った事もないと思う。今までの記憶と、彼女の顔とを突き合わせて出た答えがそうだった。
目の前の彼女が、口をハクハクと動かしている。何か話しているようだが、何も聞こえない。
しばらくすると、彼女は自分の耳を指差す。指差した耳がどうかしたのだろうか?髪がかかっていて、耳はよく見えない。
俺は、片手を耳の方に伸ばした。手に耳の感触がある。触れるのか?
彼女は俺が耳に触れると、ピクッと身体を震わせた。
そのまま耳近くの髪をかき上げて、耳を覗き込むと、その耳には耳栓が付けられている。
なるほど。
俺は彼女に触れていた手の小指を、自分の耳の穴に差し込んだ。
「何をするんですか!」
目の前の彼女が、顔を赤くさせて、声を荒げた。
「耳がよく見えなかったから。」
そう答えつつ、やはり片耳を聞こえない状態にすると、彼女の声が聞こえるんだなと思う。おかげで、彼女が何者なのかは本人から答えが聞けそうだ。
「で、君は誰?」
「私は、・・・です。」
名前の部分だけ聞き取れない。聞き返してもう一度言い直してもらっても、名前の部分だけは、口がパクパクと動くだけになってしまう。
俺の名前を名乗っても、彼女には聞き取れないらしい。
他にもお互いのことを質問しあってみたが、住所や生年月日の年部分などは、聞き取れない。だから、彼女が自分と同い年であることは分かったが、どこに住んでいるのか等は分からない。もしかしたら、現在より過去か未来の人間かもしれない。日本語が通じているから日本人であることは確かだけど。
名前がないのは不便なので、お互いの生まれ月で呼び合うことにした。
俺は2月生まれだから如月。彼女は10月生まれだから神無。
「如月さんは、仕事から帰ってきたばかりでは?遅くなると明日起きるのが辛くなりますよ?」
神無は、俺のことを見て、心配そうに告げた。確かに今の時間は深夜近い。でも、目の前の不思議な現象をこのままにして、休むのもどうかと思う。
「如月でいいよ。明日は休みだから問題ない。シャワーくらいは浴びたいかも。」
「では、シャワー浴びてきてください。」
彼女が手をひらひらと振った。
「君はその間何してるの?」
「本でも読んで待っていますよ。また話をしたいと思ったら、声をかけてください。耳栓はしたままにしておくので。」
「わかった。」
俺の返答を聞くと、彼女は閉じていた片目を開けた。俺は彼女の目の前で手を振ってみる。彼女はその手に反応を返さない。どうやら、俺のことは見えなくなったようだ。
熱心に手元を見つめているから、本を持って読んでいるようだが、俺にはその本は見えない。
ひたと本に見据えられた視線。その両目が俺の方に向けられる。視線が合った俺の表情は見えていないはずなのに、彼女は表情をふんわりと崩して微笑んだ。俺は彼女が再び手元に視線を落とすまで、その場に立ち尽くして、彼女のことを片目で見つめていた。
No.2に続く
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The last episode/11
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