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【中編】片側だけで感じる彼・彼女 No.10/11

私が、彼と別れてから、もう一年あまりが過ぎていた。
彼と別れてから、私は彼の面影や声を徐々に忘れていった。気が付いた時には、彼を好きだという気持ちしか残っていなかった。
かろうじて、彼の呼び名は覚えていた。でも、所詮しょせん呼び名でしかなく、その情報だけで彼に会うのは無理だった。
私は彼に会いたかった。この呼び名を忘れる前に。この好きだという気持ちを無くしてしまう前に。

私は実家から新しい職場に通うようになっていたが、会社の中では何でもこなす中堅ちゅうけんどころの立場だったことが災いし、会社のあちこちの支社に、数か月単位で配属され、その部署の管理・統括をするということを繰り返す羽目におちいった。仕事自体はやりがいがあったが、問題は一人暮らしを始めようにも、住むエリアをなかなか決められないということだった。
働く場所が短期間で変わってしまうので、職場の近くに引っ越してしまうと、別の支社に移った時に、通勤が困難になる可能性があったのだ。

そのため、私は早く一人暮らしをして、別れてしまった彼に再会できるか試したかったのに、それもできなかった。
そして、一年が過ぎ、ようやく私の職場が確定した。会社も経営統合後の不安定な状態が解消されたのだ。
私は職場近くで一人暮らしをすることを決め、そのエリアをカバーしている不動産会社に来店予約を入れた。合わせて、その会社のホームページで見つけた気になる物件を知らせておいた。

私が新しく住むところに求める条件は、ただ一つ。
以前住んでいたところと同じ間取りであることだけ。
私はそのリビングで片目を閉じて、彼の呼び名を口にする。
正直彼に会えるかどうかは分からない。
それに、別れる時にお互い新しい恋人を見つけるよう話をしているから、もしかしたら、もう彼には付き合っている人がいるかもしれない。私の元彼のように結婚だってしているかもしれない。
それでも、一目だけでも会いたかった。彼に。

不動産会社に足を踏み入れると、カウンター内の手前に座っていた男性が立ち上がって、こちらに向かって頭を下げた。
「いらっしゃいませ。」
「あの、10時に来店予約を入れていた斎藤です。」
「はい。斎藤様ですね。こちらにおかけください。」
私はその場で、コートやマフラーを外した。店の中は暖房が効いていて、とても暖かかった。

「コートお預かりします。」
奥に座っていた女性が、手を差し出す。私は彼女に脱いだコート、マフラーを渡した。
コートを受け取った女性が、私の右手を見て、若干驚いたような表情をしたように思えた。私が首を軽く傾げると、「失礼しました。」と小声で言って、コートとマフラーを、ハンガーにかけてくれた。
私が席に座ると、男性もカウンターを挟んだ目の前の席に座る。
胸元の名札には皆木みなぎとあった。

女性が離れた後、目の前の男性が口を開く。
「お部屋をお探しとのことですが。」
「はい。今は実家にいるのですが、一人暮らしをしようと思いまして。」
「ご実家は近いのですか?」
「ここからだと電車で2時間くらいでしょうか?でも、職場への通勤が大変なので、職場近くで一人暮らしを始めたいのです。あの・・来店予約を入れた時に、気になる物件もお伝えしたのですが。」

彼が手元のタブレットを眺めて言った。
「こちらは案内可能です。本日ご案内いたします。他にも何軒かご案内させていただきたいのですが、一つご質問させていただいていいですか?」
「はい。どうぞ。」
「物件に対する希望欄に『同じ間取り』と合ったのですが、どういうことでしょうか?」

彼の質問に、私は答えた。
「玄関から長い廊下を通ってリビングがあり、リビングの手前側にはキッチンがあって、リビングの隣に一部屋ある1LDKの物件を希望しています。」
「申し訳ありません。そこまで、間取りを第一条件にあげる方がいらっしゃらないもので。何か理由でもございますか?」
彼からの質問に、私は何と答えればいいか分からなかった。
理由はあるが、別れた彼に会いたいが為、など言っても、更に首を傾げられるだけだろう。

「以前、一人暮らしした時に、そのような間取りのマンションに住んでいたんです。その時の住み心地が良かったので、同じ間取りがいいと思って。」
何とか、考えたこじつけの理由に、彼は軽く頷いた。
「なるほど、一人暮らしは初めてではないんですね。」
「はい。1年前は一人暮らしをしていました。でも職場が移転しまして、合わせて私も実家に戻ったんです。」

「・・分かりました。では同じ間取りの物件をピックアップしてみます。ちょっと探すのにお時間いただいていいですか?」
「かまいません。」
「その間に、この用紙にご記入いただいてもいいでしょうか?」
彼から、いくつかの書類を渡される。中身は今回来店予約の時に伝えていた物件希望条件を更に補足するようなもののようだった。
私は、用紙に内容を記載する。

彼は、パソコンの操作をしつつ、途中こちらに向かって何度か視線を向けた。見られていると書きにくいなと思いつつも、私は手元の用紙の記入項目を埋めていく。
私が書類をかき上げた時には、すでに彼はパソコン操作を止め、私に向き直っていた。私が用紙を渡すと、彼はそれに軽く目を通し、私に向かって名刺を差し出した。

「本日ご案内します皆木芳春よしはると申します。これから3軒ほど物件をご案内させていただきます。お時間は2時間ほどですが、よろしいですか?」
「はい。よろしくお願いいたします。」
私が席を立って、店の入り口近くで待っている間、彼はカウンターの奥にいた女性に呼び止められていた。私が預けたコート類を手渡すと同時に、何か話をして、彼の右手を指差しているようだ。

私は自分の右手を見つめた。右手の薬指には、彼と合わせて購入したピンクゴールドの指輪がはまっている。もう彼と別れてから1年も経っているのに、私はそれをしまい込んでしまうことができなかった。この指輪も白いマフラーも、彼に会うことを後押ししてくれるのではないかと思って、身につけてしまっている。

「お待たせしました。車は少し離れたところに止めてあるんです。今から駐車場まで行きましょう。」
顔を上げると、コートの上に、ペールブルーのマフラーをつけた皆木さんが立っていた。彼から、先ほど預けたコートとマフラーを手渡される。
私は、彼が身につけたマフラーに、視線を奪われる。

私は彼のことを見上げて、じぃっと彼の顔を見つめる。
「斎藤様?」
固まったように動かない私を見て、彼が声をかける。
やはり私の気のせいだろうか?何となくこの人に会ったことがあるように感じたのだが。彼がつけているマフラーのせいだろうか?
「はい。よろしくお願いします。」
私は何とか応えて、店の外に向かって足を進めた。

「まだまだ寒いですね。」
隣を歩いている彼が口を開く。
私が視線を上げると、彼は優しげに目を細めて微笑んだ。
ペールブルーのマフラーはとてもよく似合っている。私は何となく、彼と並んで歩いているような気持ちになった。叶わなかった願いだ。
私は彼に微笑みかけながら、口を開いた。

「いい色のマフラーですね。私のコートと同じ色。」
「そうですね。」
「ご自分で選ばれたんですか?」
「・・いえ、去年彼女に選んでもらいました。自分が好きな色だからって。」
私と同じようなことを、皆木さんの彼女もしたんだなぁと思うと、急にその彼女に親近感が湧いてきた。

「その彼女さんとは気が合いそうですね。私も好きな色なんです。」
「私に似合う色だと言ってくれてました。ただ・・今は別れてしまいまして。」
彼は笑ってそう答える。私は慌てて口を手で押さえた。
「すみません。余計なことを言ってしまって。」
「いえ、お気になさらず。マフラーには罪はないので、そのまま使っているんです。」

「・・私も・・この白いマフラーは去年彼氏に選んでもらいました。彼は私に一番似合う色だからと。私もその彼とは別れてしまいましたけど。」
「そうでしたか。私もそのマフラーは貴方にお似合いだと思いますよ。」
「・・ありがとうございます。」
彼は、私のことを見て、その後右手に視線を滑らせた。そして、軽く首を傾げた。
「指輪をされているようですが、それはその別れた彼から貰った物ですか?」

彼は、さらっと私が言いにくいことを質問してきた。私が彼を見つめると、彼は私の顔を見てから、視線をそらした。
「すみません。先ほど用紙を記入していただいている時に見えたので。失礼なことを聞きましたね。」
「・・私は一年半前に好きな人ができました。好きな人とは思いが通じて、恋人同士になりました。このマフラーも指輪も彼が選んでくれたものです。」

「でも、別れてしまったんですよね?」
「はい。一年前に私は実家に戻らなくてはならなくなって、彼とは別れざるを得なくなりました。」
私は隣を歩いている彼のことを見上げた。
「でも、私は彼にもう一度会いたいのです。だから、探していただいた間取りの部屋に住みたいのです。」
「そこがよく分からないのですが、会いに行けばいいのではないですか?その人に。」

「私は、彼の住んでいるところも、名前でさえも知らないのです。ここ最近は、彼の顔や声も思い出せなくなりました。私が唯一覚えている呼び名もこのままでは忘れてしまいそうなのです。だから、それを忘れないうちに、私は・・。」
そこまで話して、私は口をつぐむ。何を関係のない人に自分のことをぺらぺらと話しているんだろう。あのマフラーが、彼のことを思い出させて、私の口を軽くしたのだろうか。
彼を見ると、彼はなぜか苦しそうな顔をして私を見返していた。

No.11に続く

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