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【中編】片側だけで感じる彼・彼女 No.6/11

如月きさらぎの姿を見ないようにしてから数日。
私は、彼に出会う前の生活を続けている。仕事が終わって自宅に帰り、食事とシャワーを済ませたら、彼の帰りを待たずに眠っているし、休みの日は外に一人で散歩に行くことが増えた。
自宅で一人で過ごしていると、気が晴れないし、どうしても彼のことが気になってしまうからだ。

何かの折に、手首を掴まれる感覚がある。もう数えきれないくらいに。
私はその度に心がきゅっと痛み、片目を閉じて彼の姿を見たいと思う。
でも、彼の姿を見たところでどうすればいいのだろうか。
自分が彼に寄せる気持ちを強く認識してしまった今、更に彼には好きな人がいて、私の気持ちは叶わないと分かっている今、以前のように彼に接することはできないだろうと思う。

もう、私のことなんて、放っておいてくれてかまわない。
好きな気持ちを伝えた彼女と、仲良く過ごしてくれればいい。
どちらにせよ、私は彼に片手で触れることしかできない。私が彼にできることは、元々多くはなかった。この関係だって、いつまで続くか分からなかった。別れが少し早まっただけだ。
と思いつつも、彼が私の手首を掴むことがなくなったら。と怯えている自分もいる。

そんな鬱々うつうつとした日々が一週間以上続いた。彼はその間も私に合図を送り続けている。私はその合図に応えられていなかった。
私の職場が移転する話が出たのは、そんな矢先のことだった。
会社の経営統合があり、部署の一部も統合されたり、新設されたり、大きく変更になることになった。仕事自体は変わってはいないのだけど。
そして、私が配属になる職場は、私の実家から電車で、1時間くらいで通えるところになった。私としてはUターンか。

合わせて、今住んでいるマンションも、会社が一部借り上げて社員寮代わりにしていたから、次の更新を機に、解約されることになった。
つまり、私はこのマンションを引っ越さなくてはならなくなった。
このマンションを出てしまったら、私はもう如月と会えなくなるだろう。
次の住処が、今と同じようにマンションだったら、未だ可能性があったが、社員寮等についての方針は一切決まっておらず、私は一旦実家に帰ることになっていた。

マンションが解約されるのは、来年の3月末。
私はそれまでしか、このマンションにはいられない。
如月には話しておくべきだろう。ある日を境に私が自宅に帰ってくることがなくなるのだ。彼は心配するに違いない。誰にでも優しい彼のことだから。
そのために、私は彼の合図に応えなくてはならない。
でも、応えたら、『もうこの関係は解消する』と彼から告げられると思うと、それも怖くて、私は躊躇ちゅうちょした。
なんて、面倒くさい人間なんだろう。私って。

私の表情が浮かないのを見ているのか、彼の合図がより頻繁になってきた。
手首を掴むのではなく、私と指を絡ませて手を繋ぐ感覚もあったりして、彼は一体何をしているんだろうと、首を傾げたくなることもある。
私を元気づけようとでも思っているのだろうか?
確かに手を繋いでくれる感覚は、私の心の奥に何か温かいものを灯してくれるような気もする。以前、如月の笑みを見た時に感じたものに似ている。

そして、10月。私の誕生月になった。
カレンダーを見ながら、もうすぐ誕生日だなとぼんやりと思う。昨年は結婚してしまった元彼と過ごしたんだっけ。確か翌日は2人とも仕事だからって、食事を一緒にしただけだった。その時にもらったピアスは、多分どこかにしまい込んであると思う。

当日は何かケーキでも買ってきて、自宅で食べようかな。夕食もデパ地下で食べたい総菜を買って、シャンパンも買おうかな。でもあんまりお酒が強くないし。。翌日は休みにしよう。当日夜遅くなってもいいように。
そんなことを自宅で考えている間も、私の手は彼に繋がれている。
お酒の勢いを借りたら、彼と話すことができるかもしれない。と私は考えるようになっていた。


「はぁ。美味しかったなぁ。」
私は思わず声を漏らす。買ってきた総菜類は絶品だった。もちろんケーキも。普段飲まないシャンパンも飲みやすくて、私はお酒の影響でふわふわとしたいい気持ちになっていた。シャワーは食事の前に済ませていて、既に寝間着姿だ。直ぐに寝られるようにと支度は全て済ませてあった。

時計を見ると、すでに深夜近かった。明日休みを取るために、今日多めに仕事をこなしたので、家に帰るのも遅くなってしまったから仕方ない。
明日は、自分のために誕生日プレゼントでも買いに行こうかと考えていると、手首を掴まれる感覚が襲った。
如月。側にいるんだ。
時間が時間だ。彼も仕事が終わって自宅に戻ってきていてもおかしくはない。

今日、合図があったら、それに応えようと思っていた。なのに、いざ合図があると、逡巡しゅんじゅんする。もう彼とは、一か月くらい話をしていないのだ。さすがに彼も怒っていると思う。全然合図に応えようとしない私に。
彼の手が私の手に絡まる。普段より力を込めて合わさる手。でもすぐに外された。その後、触れられる感触があったのが首筋だった。そのまま手が首筋を上に撫で上げて、左頬を包み込んだ。

「如月?」
私は思わず彼の名を呼ぶ。今までに触れられたことのないところに、彼の手が触れている。彼は何をしようとしている?
お酒のせいで頭がうまく働かない。
頬を包んだ手が離れて、私の左耳をなぞる。
ゾクッとした感覚に思わず声を上げたら、彼の手がピタリと止まる。
「怒っているの?如月。」

彼がいるであろうところを見つめて、問いかける。私は片目を閉じていないから、彼の姿は見えない。もちろん、彼の声も聞こえない。私が今感じるのは彼の手の動きだけだ。
次に彼の手の感覚を感じたのは、腰だった。それも素肌に感じる。寝間着の上着の裾から手を入れたのか。腰から脇腹を上に向かって撫で上げられる。
体が彼の手の動きに合わせて震えた。

私に触れているのは如月だ。彼の姿が見えないのに、触れられている感覚だけがある。その感覚で、自分の中から湧き上がってくるこの感情が怖い。
私は耐えきれなくなって、片目を閉じた。合わせて、彼の指先が自分の胸に触れる前に、彼の手を押して、動きを止めた。
開いた片目に映ったのは、彼の瞳だった。それもかなり近く、最初彼の瞳であることが分からないほど。彼は私から自分の顔を離すと、ほっとしたような顔をして口を動かした。

彼の声が聞こえない。私は、自分の中指で片耳を塞いだ。
「ごめん、こうでもしないと神無が俺を見てくれないと思った。」
彼は私と視線を絡ませると、深く息を吐いた。
最初の言葉が謝罪だなんて、彼らしい。私も彼に対して、謝った。
「私の方こそ、合図に応えなくて、ごめんなさい。」
彼は大きくかぶりを振った。
「正直見てくれてほっとした。なかなか見てくれなかったから、焦った。」

彼は、アイマスクも耳栓もつけているようだった。彼も寝間着に着替えていて、私にぴったりと寄り添うような形で座っている。
彼の足や身体の一部が、自分のものと重なっているように見える。でも触れられている感覚は全くない。服の中に入れていた手は既に外したらしく、今は私の手を握っていた。
やはり、私は彼の片手で触れられる感覚しか分からないんだなと思う。

「首筋に触れた時に、片目を閉じて抗議してくるものと思ったのに、何で抵抗しなかったの?」
「・・如月に触れられるのが、嫌じゃなかったから。」
私は自分の気持ちを正直に口にした。突然のことで驚きはしたけど、別に嫌だとは思わなかった。それどころかもっと触れられても構わないと思った。彼の姿が見えている状態だったら、私は彼の手を止めなかったかもしれない。

私の言葉に、彼は思ってもいないことを言われたというように、その目を見開いた。その後、顔を真っ赤にして視線を逸らす。
「この間のこと、説明したいんだけど。」
「・・好きな人なんでしょう?連れてきた人。」
「はぁ、やっぱり誤解してる。彼女はただの同僚。でも、俺が紹介した人と付き合ってる。」
彼は、その後、丁寧に彼女のことを説明してくれた。私が告白だと思っていたのは、勘違いだったらしい。

あの日から一か月経っているが、同僚の彼女と彼の友人の仲は良好で、逆に如月の元気がないのを心配されているのだそうだ。
「なんで、元気がないの?」
「一か月俺のことを見なかった君がそれを聞く?」
「私のせい?」
「当たり前だろう?もうこのまま終わるのかと気が気じゃなかったんだから。」

しばらくぶりに見る彼は、少し痩せたような気がした。しかも、どことなくソワソワしている。
「私、如月に好きな人ができて、目の前で告白したと思ったら、どんな顔して会っていいか分からなかった。この関係を終わらせようと、はっきり言われるのも怖くて。」
「好きな人ならいるよ。目の前に。」
私が顔を上げると、彼は私の顔を見下ろして、私の視線を受けとめた。
「俺が好きなのは、神無かんなだ。」

No.7に続く

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