常岡光叡

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釈迦の説きがたり 一日一話

    八月十四日  供   養⁡ ⁡  多くの未練を残して世を去った先祖の供養をするのは、後を継いだ子孫の当然為すべき務めである。これは何もお盆や彼岸に限られたことではない。一年を通じて毎日することである。⁡ ⁡  自分が毎日三度の食事を口にする如く先祖の供養をしていれば、生きている間に自分の供養も出来るのである。⁡ ⁡  お盆や彼岸にだけ先祖を想い出して普段は忘れているのでは具合が悪い。先祖の血を引いて生まれてきたのが自分なのであるから、先祖を忘れるというのは自分をおろそ

    • 釈迦の説きがたり一日一話

          八月八日  損得勘定⁡ ⁡  人間の一生にはいつも損得勘定が付いて廻ります。一言話をしてもすぐ頭の中で損得をはじき出す人も居る位です。親子兄弟、夫婦の仲でさえも損得勘定が合わぬともめることがよくあります。⁡ ⁡  それはいつも自分が得をしようという勘定が働いているからです。自分が損をして相手に得をゆずるような人は滅多にいません。⁡ ⁡  しかし、世の中物事は中々自分の計算通りに行かないのです。すぐ勘定違いが起ります。得になると思ってしたことが損になったり、損になると思

      • 釈迦の説きがたり一日一話

            八月七日  厄 病 神⁡ ⁡  彼奴は厄病神のような人間だと云われる人があります。⁡ ⁡  彼奴が来たらろくなことはないと嫌われて、帰った後で塩を撒かれる位です。それはどういう人のことでしょうか。⁡ ⁡  いつも働かずにごろごろと怠けている人、お酒を飲んで厭味を云う人、いつも愚痴と泣言ばかり云う人、お金の無心を云う人。こういう人は厄病神を背負って歩いているからです。⁡ ⁡  一日も早く福の神に乗り換えることです。ぐずぐずしているとあの世へまで厄病神のお供をせねばなりま

        • 釈迦の説きがたり一日一話

               八月五日  礼  儀⁡ ⁡  皆さんは他人との仲は失礼にならないように気を遣うものですが、親子、兄弟、夫婦の仲ともなると、つい気を許し過ぎて無礼なことになりがちです。⁡ ⁡  そうして些細なことから親子兄弟の喧嘩、夫婦の争いとなりお互いの間に大きな溝が出来たり離別にまでつながることもあるのです。〝親しき仲にも礼儀あり〟なのです。⁡ ⁡  お互いに気を許した仲でも、いつも礼儀を忘れずに接していれば円満に気分良く暮せるものです。皆一人一人その人なりの人格を持っているので

        釈迦の説きがたり 一日一話

          釈迦の説きがたり一日一話

              八月一日  ねことねずみ⁡ ⁡  お寺に一匹のねこがおりました。いつもお寺の残り物を食べて、お腹をふくらませておりました。⁡ ⁡  お腹を空かしたねずみ達が寄り合って相談をしました。⁡ ⁡ 「これからお寺の残り物は、ねこが食べぬ中に私達で頂いてしまおう」ということになりました。⁡ ⁡  それからねずみは毎日お腹をふくらませて満足しておりました。⁡ ⁡  お腹を空かしたねこは腹を立ててねずみを一匹ずつ食べてしまいました。⁡ ⁡ ⁡ 常岡 智寶著 釈迦の説きがたり 一日一

          釈迦の説きがたり一日一話

          釈迦の説きがたり一日一話

          七月三十日  子   供  ある日、私の横に可愛らしい子供が座って居りました。頭を撫でてやるとニッコリ笑いました。  暫らくすると、母親が来て子供を叩いて叱りました。子供はわけも分からずに大声を上げて泣きました。母親は又叩いて「うるさい」と云って怒りました。  子供は益々声を張り上げて泣きました。  私は子供の傍へ行って頭を撫でてやりました。子供はすぐ泣き止んで温和しくなりました。母親もほっとしました。 常岡 智寶著 釈迦の説きがたり 一日一話より #釈迦の説き

          釈迦の説きがたり一日一話

          釈迦の説きがたり 一日一話

              七月二十七日 心  では、一体心は私の何処に居るのだろうか。  それは貴方全部が心なのです。何処に居ると限定されないのです。頭の先から足の先まで全部が心の住家であります。つまり貴方の肉体が心の住家なのです。  貴方の肉体は消滅しても、心は消滅しません。生物は必ず消滅していくという自然の掟の中で、心だけは霊魂として生き続けることが出来るのである。  貴方という人間に宿った一生の間の出来事を総て背負ったまま生き続けます。 常岡智寶著 釈迦の説きがたり 一日一話

          釈迦の説きがたり 一日一話

          釈迦の説きがたり一日一話

          七月二十三日  親 と 子   親不孝な息子が居りました。   親に叱られるといつも「すぐ死んでやる」と云いますので、死なれたら困ると思い叱言を止めておりました。   ある日、息子が本当に死にたくなったので「うんと叱っておくれ」と云いました。   親は本当に死なれたら困るので、うんと褒めてやりました。息子は褒め言葉を聞いて死ねなくなりました。そして、よく働いて本当の褒め者になりました。  常岡智寶著 釈迦の説きがたり 一日一話より  #お釈迦さま

          釈迦の説きがたり一日一話

          釈迦の説きがたり一日一話

              七月二十一日   親 と 子⁡ ⁡  人の道に反する行ないをしたとき、これを外道に堕ちるという。人間一生の間には知らぬ間に外道に堕ちるような事をやっている時もある。⁡ ⁡  人の道の基本となるものは親孝行である。親孝行を普通に出来る人は人の道を大きく踏み外すようなことは滅多にない、親孝行が出来ないのであれば、せめて親不孝をしないようにすべきである。親不孝をしないということは親孝行なのである。⁡ ⁡  貴方も今迄に親孝行の味を知らないのでしたら今日からどんどんおやりなさ

          釈迦の説きがたり一日一話

          釈迦の説きがたり 一日一話

              七月二十日   親 と 子⁡ ⁡  親孝行は自然のうちに出来るものである。何も難しいことではない。そして、自分の心が喜び満足する。親不孝をすると自分の心が苦しむ、辛い、だからこの方が余程難しい。⁡ ⁡  良心の掟に抗って親不孝をしているから、その分だけは苦しまねばならぬのである。親孝行は何の抵抗もなくいくらでも出来る。親があれば出来る。親のある間にしておくことである。親孝行を後回しにしないことである。いま出来ることでしておくことである。親孝行は誰にでも出来る一番易しい

          釈迦の説きがたり 一日一話

          写真の説がたり 一日一話

              七月十三日  思い上がり⁡ ⁡  人間の思い上がりほど物事の判断を誤らすものはない。⁡ ⁡  何か一つの物事が順調に運ぶと皆自分一人の力で出来たと思い込む。そして、次の物事を進めるについては、思い上がりの心の入った考えで押し進めて行く。もはやその時点で、自分の判断にずれが出来たことに気付かないのである。⁡ ⁡  そして挫折をする。思い上った分だけはどこかで破綻を来し挫折をするのである。その時に自分の判断の誤りに気付かず、他人を責め他人の責任にする。又不運だ

          写真の説がたり 一日一話

          釈迦の説がたり 一日一話

              七月七日   掟   掟というものは守らねばならぬことが決めてあるのです。それを守ることによって災い少なく苦しみも少なく生きて行けるのです。   掟を破ることによって一番災いを受け苦しむのは自分なのです。それが分かっておりながらつい掟を破ってしまうのが人間なのである。そしてその報いを受けながら生きているのである。それが因縁因果というものである。   私が長い間修行をしたのも、如何にすれば人間が因縁因果を作らずに苦しまずに生きて行けるのか、それが知りたかった

          釈迦の説がたり 一日一話

          釈迦の説がたり一日一話

              七月三日    掟⁡ ⁡  人間の作った掟というものは、自分達が生活をしていく上に於いて、お互いに秩序を乱さないように便利良く暮せるようにと考えて作られたものですから時として変えられることがあります。⁡ ⁡  そしてこの掟を守らないと、こういう罰がありますとはっきり決められているのです。⁡ ⁡  だから掟を守らないと嫌応なしに罰を受けるので仕方なく掟を守って暮しているわけです。⁡ ⁡ 常岡智寶著 釈迦の説きがたり 一日一話より⁡ ⁡ #お釈迦さま

          釈迦の説がたり一日一話

          釈迦の説がたり一日一話

              七月二日   掟⁡ ⁡  掟というのは人間お互い同士が幸せに暮して行く為に作った規則なのですが、人間が自分達の考えで作った掟と、良心が人間に課している掟があります。また我々が住んでいるこの自然にも自然の掟があります。これらの掟に従って暮していれば人間の苦しみは少いのです。⁡ ⁡  ところが、我々は毎日々々この掟を破って暮しているのです。そして掟を破っていることにさえ気付かないのです。人間に生まれて来て、人間として守らねばならぬ掟がどんなものであるのか知ろともし

          釈迦の説がたり一日一話

          釈迦の説がたり一日一話

              六月三十日   死⁡ ⁡  ではどういうことになるのかというと、生前の行いは善い事も悪い事も皆ひっくるめて、生きている間は誰にも知られなかった事、隠していた事までどんな事も皆明るみに出るのです。⁡ ⁡  鏡に映した如く何もかも皆はっきり分かってしまうのです。生きている時についうっかりとこんなこと位とやり過していた事が、全部貴方の行いとして残っているのです。⁡ ⁡  そして悪い事は全部罪として責められます。決して云い逃れも隠し立ても出来ないのです。何もかも分

          釈迦の説がたり一日一話

          釈迦の説がたり 一日一話

              六月二十七日    死⁡ ⁡  私は一人で生まれて来て、一人で死んで行きます。⁡ ⁡  私には家族があり友達やまた知人もありますが、家族は増えたり減ったり、友達は出来たり離れたり、その時その時で私の周囲の人達の顔ぶれは変わって行きます。⁡ ⁡  そして、いつの間にか年を取り、いつの間にか死の順番が私の前に廻ってくるのです。死は身内の者達、友達の誰彼と次々に順番が廻り、やがて私の前にも訪れて来ます。その時私は一人であの世へ旅立たねばならぬのです。死はある日突

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