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【創作にコミュニティは必要か?】情熱と刺激を得ることができる場所を探そう(2014年7月号特集)


※本記事は2014年7月号に掲載した森村誠一先生のインタビュー記事を再掲載したものです。

戦争の原体験がきっかけに

――小説家を目指された理由を教えてください。

 一番大きな理由は戦争です。中1のころ、埼玉県熊谷市に住んでいて、そこがポツダム宣言受諾後の8月15日に空爆を受けた。300人も死んで、1万何千人が被災者になった。降伏しているのになぜ空襲するのか。あとでそれが祝賀爆撃だと分かった。翌朝、川に沿って家のほうに帰ると、川底に死体が累々と重なっている。その中には近所の人や当時好意を持っていた女の子もいたんです。この情景を書かねばならない、記録したいというのが作家を目指した動機ですね。

――当時は読書も大変だったとか。

 灯火管制といって明かりを制限されますし、本にもたくさん伏字がしてある。
 だから、想像しながら読むわけです。また、図書館にあるのは純文学や戦意高揚小説ばかり。エンタメ系の小説はなかった。あるときは、学校に『金色夜叉』を持っていったのを軍人に見つかり、文弱と呼ばれ取り上げられました。そういった状況下ですから、活字に対する渇望はすごいものがありましたね。

――実際に書き始めたのはホテルマンとして就職されてからですか。

 本当はマスコミ志望でしたが、すごい倍率で無理でした。そこでホテルマンとして就職しましたが、フロントに立ちながら自分が立ち腐っていくような焦燥を感じていた。そんなとき、斜め向かいに文藝春秋ビルができて、笹沢左保や阿川弘之、五味康祐といった流行作家がホテルを利用するようになった。彼らを見るうちに、いつまでもくすぶってはいられないという思いがさらに強まりました。

連載の次号を予測して書いた

――具体的に書く勉強は何かされたのでしょうか。

 当時人気ナンバーワンの梶山季之がホテルの常連客でした。彼は十何本も連載を持っていて、いつも原稿をフロントに預け、それを私が編集者に渡していたんです。そこで、それを読んで続きを予測して書いてみたんですね。そして梶山さんから次号を渡されると、自分のものと比べてみる。最初は全然歯が立たなかったけど、だんだん腕が上がってきてね。

 たまにどうみても僕のほうがいいっていう場合もあった。自信がついたし、すごく勉強になりました。また、彼の部屋にある資料のうち、市販されているものはすべて同じものを揃えました。デビュー後、彼にこのことを話したら「きみは俺のモグリの弟子だね」と笑われましたね。

――そこからデビューへとどうつながったのですか。

 友人の紹介で雑文書きの依頼がくるようになりました。ホテルの仕事と並行して書いていましたね。そんなとき、ある出版社に入社した級友が僕のエッセイに目をつけてくれて、「おまえの作品は必ずわが社のドル箱になる」と、無名の僕に作品を書く機会をくれた。それが作家デビュー作『大都会』です。

――江戸川乱歩賞を受賞後、推理作家に転向されていますね。

 実はその出版社で5冊出したんですが売れなくて、森村を切れという意見が出てきた。そんなとき、最後のつもりで書いた作品がミステリーで、編集長から乱歩賞に応募してみなさいと薦められました。それが受賞した『高層の死角』です。以降、前の5冊も増刷してもらうことができました。

――山村正夫先生とは乱歩賞をきっかけに出会われたとか。

 山村さんは、僕が乱歩賞を受賞したときに授賞式の司会をしてくださり、そのとき、編集者が紹介してくれたんです。
 江戸川乱歩に見込まれた天才だ、何でも教えてもらえると。以来、山村さんにオンブにダッコで、いろんな人も紹介してくれた。そうした中で笹沢佐保と出会い、この三人が無二の親友になっていった。

――その後、山村教室を引き継がれるのですね。

 彼が亡くなる間際に病院に行き、山村教室をどうするのか聞いたんです。彼はそのころ口がきけなくなっていたので、私の言うことにイエスなら瞬き1回、ノーなら2回するように言って、次を誰に任せるのかを聞いてみた。でも、何人候補をあげてもノーばかり。そこで僕はどうだと聞くと、瞬きを1回するんですね。それから引き継いで15年になります。

同志たちが切磋琢磨する場所

――山村教室では、篠田節子、宮部みゆき、上田秀人、最近では坂井希久子、七尾与史など、多くのプロ作家が誕生していますね。秘訣は何でしょうか。

 何より教室に来ると生徒同士が切磋琢磨できる。来る人はだいたい鼻が高くなっているのですが、いざ来てみるとすごいやつが周りに大勢いて、ぺしゃんこになります。そこで頑張るわけですね。

――これだけ多くプロを輩出されていると、出版社からの注目度も高いのでは?

 そうですね、実際講義にはゲストとして編集者やプロの作家仲間を呼んで、飲み会、忘年会にも招きます。生徒たちは名刺交換をしたり、話をしたりすることで顔なじみになる。僕らの時代は編集者と出会うきっかけなどありませんでしたから、恵まれていると思います。

――教室では、現役編集者が作品を講評してくれるそうですね。

 生徒の作品は冊子にまとめられ事前に配布されます。それを角川書店で編集長をしていた山口十八良さんが読み、講評を行う。生徒はそれを参考にして直して文学賞に応募する。彼の眼識の高さが、大きいですね。もちろん僕が講評するときもありますが、教えるのは「こうあらねばならないというのは小説じゃないんだ」ということです。そして、年に数回は生徒をうちに呼んで、膝を突き合わせディスカッションをします。僕自身もいい刺激を受けていますね。

――やはり独学は難しいのでしょうか。

 ただ一人でやっていると、エネルギーが落ちて無気力感が強くなっていく。自分に適当な理由をつけてほかに行ってしまうんです。その点、教室に行くと刺激があります。情熱を持続させるためにあるといってもいい。山村教室に行けば方向が同じ連中ばかりだから、熱が掻き立てられる。それは大きいと思いますね。

――カルチャースクールや他の学校との違いは?

 人の作品を批評しないのが鉄則です。
 まだ批評する段階じゃないということですね。僕自身は文医だと思っているので、批評するよりも、ミステリーならここはアンフェアだとか、アリバイくずしのつめが甘いとか、どうやったら良い方向に直せるかをアドバイスします。

――文学賞に応募して受賞できなかった場合の分析法はありますか。

 選考委員の意見の一致ですから、運が大きいです。落ちた理由は見つけられないと思いますね。ただ、最終候補の常連になると当選しやすくなります。選考委員に名前を覚えられるので、注意して読んでもらえる。めげずに、常連になるまで出し続けるしかないと思います。

――修業時代に「これだけはやるべき」ということ何でしょう。

 今の応募者は、驚くほど読書量が少ない。僕の時代は手に入る本が限られているから、経済学や哲学、数学、科学などジャンルを問わずなんでも読む。それが今、社会派ミステリーを書くうえで非常に役に立っています。ですから、好きなものだけでなく乱読すべきですね。

――プロを目指す公募ガイドの読者にメッセージをお願いします。

 今は、プロになっても小説だけが人生じゃないという人もいる。でも、僕らの時代は小説家以外の何者にもなりたくないという連中が多かった。やはりこちらが主流だと思うんです。一生涯作家になれなくても、書き続ければいいと思うし、そのくらいでなければ作家にはなれない。
 マグマが燃えていないと小さな火では消えてしまいます。小説家に求められるのは情熱だと思います。


森村誠一(もりむら・せいいち) 
69 年『高層の死角』で江戸川乱歩賞後、推理作家としてデビュー。73 年『腐蝕の構造』で日本推理作家協会賞受賞。11 年『悪道』で吉川英治文学賞受賞。『人間の証明』『野性の証明』『悪魔の飽食』などミリオンセラー多数。近著に『芭蕉の杖跡 おくのほそ道新紀行』『祈りの証明 3.11 の奇跡』『健康に生きる覚悟』などがある。

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※本記事は「公募ガイド2014年7月号」の記事を再掲載したものです。

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