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徽子(きし)女王 娘の斎王と共に再び伊勢へ ことの葉綴り 九三一回

平穏でありますように!

おはようございます。大型で強い勢力の台風、気をつけなければ、ですね。大難が小難に、小難が無難でありますように!
九月十八日(日)の暦は、六曜は「赤口しゃっこう」お昼前後が吉。十二直は、障害を取り除く「のぞく」掃除、種まき、医師へのかかりはじめ、薬の飲み始めによしとわれる日。二十八宿の「せい」も、治療始め、祭祀、お手洗いなど改修に吉。そして、「母倉日ぼそうにち」で、天が母のように慈しむ日とされます。三連休の中日、今日も一日、平穏無事で笑顔で過ごせますように!


有名歌人となった斎王 徽子女王きしじょおう

さて、伊勢の神宮の斎王いつきのみこについてご紹介しています。
斎王いつきのみこは、神代の豊鋤入姫命とよすきいりひめのみことさま、倭姫命やまとひめのみことさまを始めとし、歴代の未婚の皇女から、亀の甲羅を焼いて占う「卜定ぼくじょう」で選ばれて、伊勢に赴き「斎宮」で暮らし、天照大御神さまにお仕えされ、神宮で祭祀をおこなわれました。この制度は南北朝時代まで続いていきました。

前回、ご紹介した徽子女王きしじょおう(よしこじょおう)は、八歳で斎王いつきのみこに「卜定ぼくじょう」されて、十歳で伊勢に赴かれて、母が亡くなられた十七歳まで、伊勢の神宮で天照大御神さまにお仕えされ、祈りの日々をおくられました。
 
斎王いつきのみこの任をとかれ都に戻られてからは、村上天皇の妃となり、規子内親王を生まれます。
また父譲りの和琴、和歌と才芸に秀で、斎宮女御さいぐうのにょうごとして皇族で唯一「三十六歌仙」にも選ばれる歌人となられました。
 
その後、皇子をお産みになられるも、その日に亡くされたことで、体調を崩されて里に戻り静養されたそうです。


娘の斎王いつきのみこと共に再び伊勢へ!



 
九六七年、村上天皇崩御。このとき徽子女王きしじょおう(よしこじょおう)、三十八歳頃です。
それからしばらくして九七五年、村上天皇の皇子円融えんゆう天皇がご即位されると、徽子女王きしじょおう(よしこじょおう)の娘、規子きし内親王(のりこないしんのう)が、伊勢の神宮の斎王いつきのみこに、卜定ぼくじょうされます。
円融えんゆう天皇にとは、母の違う姉妹の関係ですね。

母娘二代の斎王いつきのみことなったのです。
ただ、徽子女王きしじょおう(よしこじょおう)は、これまでの母とは違いました。
なんと、慣例を破り、娘の規子きし内親王(のりこないしんのう)共に、自身も伊勢へと向かったのです!
これは、さすがに円融えんゆう天皇も驚かれて、止めたようですが、話を聞かずに、娘の斎王いつきのみこについて、伊勢へとご一緒されたのです。
すごいですね~(^^)

ご自身は、幼くして八歳で母と別れていますし、皇子も夭折し、夫の村上天皇も亡くなられてと……淋しかったのでしょうね。


源氏物語の六条御息所ろくじょうのみやすどころのモデルにも!


この徽子女王きしじょおう(よしこじょおう)と、規子きし内親王(のりこないしんのう)は、あの日本最古の文学、『源氏物語』六条御息所ろくじょうのみやすどころと、斎王いつきのみことなった娘秋好中宮あきこのむちゅうぐうモデルだといわれています。
 
徽子女王きしじょおう(よしこじょおう)は、ある意味、もっとも有名な斎王いつきのみこかもしれませんね。

―次回へ

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