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一夜妻が大蛇!見畏む本牟智和気王11神話は今も生きていることの葉綴り。三一四

一宿の肥長比賣(ひながひめ)との一夜

こんにちは。今日は家でオンラインでのお仕事です。その前に、
「ことの葉綴り。」のひとときです。
これまでの「ことの葉綴り。」神話のまとめはこちらです!


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「あれは山に見えるが、山にはあらず……。
もしや、出雲の石くまにあるという曾の宮に鎮座まします
葦原色許男(あしはらしこを)の大神をお祀りされているご祭壇ではないのだろうか?」

出雲の大神さまへと、お参りを果たした“もの言わぬ皇子” 本牟智和氣王(ほむちわけのみこ)が、とうとう、生まれて初めて言葉を発しました!

出雲の景色を眺めながら、葦原色許男(あしはらしこを)の大神と、出雲の大神さまのお名前を言葉にされたのです。

お供の曙立王(あけたつのみこ)一行も、みな、喜びと感激に震えて涙を流しています。
曙立王(あけたつのみこ)は、すぐさま都へと早馬を走らせました。

出雲の大神さまの光により、奇跡が起きた夜のことです。
本牟智和気王(ほむちわけのみこ)たちは、出雲の檳榔(あぢまさ)の長穂宮(ながほのみや)へと案内されました。

本牟智和気王(ほむちわけのみこ)が部屋でくつろごうとしていた時です。
美しい比売(ひめ)が現れたのです。


私は、一宿肥長肥賣(ひとよのひながひめ)と申します。
今宵、一夜、妻として殿とご一緒いたします

本牟智和気王(ほむちわけのみこ)は、その美しさに魅かれながらも、ドキドキが止まりません。

そして、名前の通りの肥長の一宿の姫と、皇子は結ばれました

そう考えると、本牟智和気王(ほむちわけのみこ)にとっては、奇跡の連続ですね。

生まれて初めて、皆の前で言葉を話した奇跡

そして見目麗しい比売(ひめ)が、妻となり、一夜を共に過ごし結ばれた!!

なんて日だ! って、いいたくなるほど、幸せいっぱい、喜びいっぱいですね。

ところが、驚きはそれだけではなかったのです。

いったい、何があったのでしょう?!

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美しい比賣(ひめ)が大蛇に!

美しい肥長比賣(ひながひめ)と一夜を共にして結ばれたあと、本牟智和気王(ほむちわけのみこ)は、一度、部屋をあとにします。
そして、部屋に戻ろうとしたところ、そこに眠っていたのは、なんと大蛇(おろち)だったのです

えええっ!! 大蛇(おろち)!!!
うわ~っっ!!!

神話には、こうあります

すなわち見畏みて逃げたまひき。

あまりのことに、恐ろしくなって逃げだしたのです。


言葉をやっと話した! そして美しい妻ができた!
と、喜んだのもつかの間、曙立王(あけたつのみこ)はじめ、お供のものも、夜中の叫び声に目を覚まします。

皇子、なにごとです? どうしたのです?


うわ~~!!
みなものも、起きよ!!
今すぐ、逃げるのじゃ~!!
比賣(ひめ)は、大蛇(おろち)になったのじゃ~!!!

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四度目登場「見畏み(みかしこみ)」


覚えているでしょうか?
見畏み

神話の物語には、何度か登場したことを。

実は、これで「見畏む」のは、神話では4度目!

そのまとめはこちら。「海幸山幸25」へ。

最初は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)さまが、
最愛の妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)さまが、黄泉の国で「腐乱死体」となってしまったお姿を見たときに
「見て畏み」
ました。

二度目は、天孫降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)さまの物語。
二度目は、山の神の娘神を嫁にと言われますが、
姉神の石長毘賣(いわながひめ)さまの、容姿が醜かったことから追い返したお話のとき。

三度目は、山幸彦さまが、愛する豊玉毘賣さまに止められていたにもかかわらず、出産の姿を見て、鮫となっていたお姿に「見畏み」ました。

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五感で感じる大切な感性

「見畏む」とは、
自分の手の届かない側の存在を認めつつ、それに対して「畏む」態度を持つ。つまり己を越えた存在を「カミ」と感じる体験でもあること

神様に奏上する「祝詞」も、「畏み 畏み 白す」とあります。
おそれ多いと感じるこころ

古来、目に見えないものの、生命の働きの中に「神(カミ)」を、”見て“感じて敬い祈ってきました
神道の原点は、自然そのものの中に潜む見えない力を畏れ崇め、自然とともに生き、祖先とともに生き、人々と共に生きる道
本居宣長(もとおりのりなが)は、「世の尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏きもの」が神(カミ)といいます。
この世の常をこえて、はかりしれない力をもつ、不可思議な能力のある自然物その働きに、神(カミ)を見てきました

その、“普通じゃない”ものと、未知のものと出会ったときの感覚
知らないからこそ怖い、でもすごい!
なんか頭ではわからないけど、感じる……
五感で感じるものこそ、この「見畏む」って感じです。

まさに、「見畏む」は、五感で感じることを大切にする神道の大事なエッセンスを表す言葉のように、私は思うのです

また、神話の物語の「見畏む」は、「分離」と「別れ」が綴られています。

やはり、私たち人間も、未知のものや、異種のものと出会い、成長しますが、ずっと一緒にはいないこともありますよね。
そんな出会いと別れも、神話には綴られているのですね。

頭で考えたりするのとは違う、五感や肌感覚で“感じる”ことを、大切にしたいって、思うのです
私は、朝日や光の写真をつい撮ってしまうのですが、毎回、手を合わせたくなるような、ありがたさ、ただありがたい、ただ美しい……日常とは違う何かを感じます。
「見畏む」まではいかないけれど、その瞬間を大切にしたいなって感じています。

皆さんにとって、そんな「見畏む」瞬間ってどんなときですか?(^^)


さてさて、出会い結ばれた一宿の妻、肥長比賣(ひながひめ)のことを、「見畏み」逃げ出した、本牟知和氣命(ほむちわけのみこ)さま、どうなるのでしょうね?

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―次回へ

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