浮かびひょうたん伝承 仁徳天皇四 神話は今も生きている ことの葉綴り六八〇
おはようございます。三連休いかがお過ごしですか?
さて一月九日(日)の暦は、六曜は「赤口」でお昼前後、正午が吉です。
十二直は、「納」で、物事を納め入れる日。お買い物、買い入れ、五穀の取り入れに吉です。
二十八宿は「星」で、祭祀、治療始め、お手洗いの改修に吉。お休みの中日、ゆっくりマイぺースで過ごせるといいですね。
では、早速、神話の物語に入ります。
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「ことの葉綴り」は、神話の物語を、神代から神さまごとに20の「マガジン」に分けて、すべて読めるようになっています。
最新は「神話20 八幡大神さまこと応神天皇さまの物語 」です。
宜しくお願い致します。
さて、神話の物語に入ります。
浮かびひょうたんの伝承
第十六代、仁徳天皇さまの御世の物語。
祖母の神功皇后さま、父の応神天皇さまの御世から、百済、新羅などとの交流も盛んになっていったようですし、どんどん“国”として社会が成り立ってきている感じがしますね。
仁徳天皇さまの御世十一年に、一大事業として、洪水や高潮などの水害を減らすための土木工事・治水事業により、初の堤防「茨田堤」が、琵琶湖から大阪湾に流れる淀川につくられました。
けれど、この築堤の工事は困難を極めたようです。
このときの伝承が、今も残っているのです。
初めての堤防、しかし、どうしても、堤がつながらない二カ所の切れ目がありました。
仁徳天皇さまも、このことに頭を悩ませていらっしゃいました。そんな、ある夜のことです。
夢枕に神が現れて、「武蔵人 強頸と、河内人 茨田連衫子の二人を、この川の神に供えると堤ができる」
なんと、人柱を立てよという、辛いお告げがあったのです。
武蔵人 強頸さんは、このお告げを信じて泣きながら人柱となられたそうです。
その結果、堤の一カ所はつながったのです。
一方、河内人 茨田連衫子さんは、どうなったでしょう?
茨田連衫子さんは、懸命に知恵を働かせ、そしして祈り天命に委ねたのです。
ひょうたんに祈り天命を待つ
河内人 茨田連衫子さんは、こう宣言されます。
「私は、二つのひょうたんを持って参りました!
私をお望みの神が、真の神であるならば、このひょうたんを川に流せば水に沈んでいくことでしょう。
だが、もし、このひょうたんが、川には沈まず、浮いて流れるのであれば、それは偽りの神です! それならば私は、人柱になることはできません!!」
そう言うと、大切そうに手にしたひょうたんを川に流したのです。
結果、どうなったと思いますか?
ひょうたんを川に置いた途端、旋風が巻き起こりました。
そして沈みこんでいきます……やはり、沈んでしまったか……。
誰もが、そう思っていました。
茨田連衫子さんは、祈りを込めて、ただじっと川面を眺めていました。
すると、ひょうたんは、水中から浮かびあがって、そして下流へと流れていったのです。
茨田連衫子さんの祈りが天に通じたのか、ひょうたんは浮いて流れていく、命ひろいをしたのです。
そんなん、ひょうたんって浮くに決まってるやん!
それは、今の私たちだからこそ、そう思うんですよね。
茨田堤の碑は今も
その後、無事に堤防は完成しました。
この難関だった二カ所の切れ間は、「強頸絶間・衫子耐間」と呼ばれてきたそうです。命を投げ出し水の流れを堰き止めた強頸さんにも、手を合わせたいですね。
淀川添いに「太間」とかいて「たいま」と呼ぶ地名があるそうですが、これは、この功績のあったお二人の「絶間」が由来だそうです。
そして、昭和49年(1974年)には、「淀川百年記念」事業に、堤防に「茨田堤」という碑が立てられたそうです。
もう一つ、浮かびひょうたん伝承のエピソードも次回、ぜひ!
―次回へ
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