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小説:獄中日誌

 これはある精神病患者が退院し、その後自宅で自殺する一週間前の日誌である。


某年七月一日(晴れ)

 朝、目が覚めると妙に憂鬱。空は曇り、雨が降っていた。脳液が耳から地面にポタポタと落ちている気がした。心配して起き上がるが、水がこぼれていただけであった。外に出ると眩暈がした。まるで万華鏡の中にいるみたいに。辺りすべてが誘惑と快楽とが緻密に計算されたかのように動いていた。気味が悪い。周りの人間が曲がっているように見える。それにしても今日は暑かった、黒い日光が当たって身動きひとつとれやしない。まさかあのおぞましい太陽光線が目に当たって目が潰れてしまったんかな。せっかくめでたく退院したのに、新たな監獄に来たみたいや。でもこのデカい監獄は想像以上に混沌としている。


七月二日(晴れ)

 昨日は眠れへんかった。別に眠たくなかった。薬のせいやろうか? 頭が妙に冴えている。夜は睡眠の神聖な時間であると言われるが、俺には唯一こころが落ち着く時間である。夜は自然が見える時間や。アベック*で歩く恋人達、祖父と散歩している孫、死後三日目の蝉、ルンペンの段ボール部屋、実に和ましくまた現実的な光景やないか! しかし朝、いざ外に出ると、息苦しさで狂ってしまう、そこには夜に見たような現実はすっかり太陽にかき消されてしまっていた。生き狂いのまま街を徘徊するしかないのか。外では生き狂いの人間同士が互いに襲い合う。ずさんな虚栄と見下し、行き過ぎた心配と芯を喪失した無気力、貧乏人同士の喧嘩、インテリゲンツィアの傲慢とプロレタリアートの無規制発散、欲の分散、外にいるのは人間やない、人間の姿をした怪物や。

*アベック:二人きりの意。


七月三日(雨)

 ダンテが「神曲」で「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と言われたのは間違いではない。我々人間は生まれた時から絶望しているのである。赤子が泣くのも無理はない、今から絶望の世界を生き抜かねばならんのだから。「希望」という言葉は「絶望」から来ている、何事にも正反関係があり、「絶望」があるからこそ「希望」にすがりつく。俺はしかし絶望から脱却できずにいる、果たして人間はこの絶望から脱却できるのか? 宗教や信仰を持っていれば絶望しないで済むのか? それともただ俺が狂人やから、精神病やからかな。
 絶望はそれだけで人間を潰すことができる。まるで監獄にいるように自分自身が絶えず否定される。自由、希望、活力、ポジティブ、前進、健康などの概念は皆、束縛、絶望、無気力、ネガティブ、後退、病気へと代えさせられる。醜い正義や愛を振りまく者達はこの「絶望」を無理に隠そうとしているように思われる。人間は正常に被されたヴェールを剥がさない限り、平穏である。
思えば、この絶望する人達とは、世間で俗に「病んでいる」といわれている人種なのである。我々は根本的に弱いのである。太宰治の「斜陽」に出てくる直治の言葉を借りれば「この世間で生きていくには何かひとつ欠けている」のである。宗教や信仰みたいなものは一度絶望しきった人にしか持てないのではないか? 普通の人間には宗教や信仰などの補助輪みたいなものは身が余る。
共産主義や社会主義みたいな政治的イデオロギーも、弱いからこその最後の抵抗なのではないかとそう思うのである。マルクスがどこかで「存在が意識を規定する」つまり人類は社会に影響されてるいうことや、要は人間の生産諸形態(経済)が階級を、人間を決めると難しいことを散々言っておきながら、しかし、簡単な問題には触れないのである。(学者様は簡単な問題など触れへんか)
人間の存在を単純にして考えてみると、自身の「弱さ」とこの世に対する「絶望」とが人間を決めているのではないかと近頃思う。(こんな事言うとマルクスおじちゃんに怒られると思うが…)結局「弱さ」と「絶望」を上手く隠してごまかすことがこの世の処世術であり、自身をも騙して生きていくのである。しかし我々は絶えず「弱さ」と「絶望」との止揚を試みているいるのである。
 かの「自由主義」や「資本主義」を信仰として掲げる者はいない、なぜなら真の自由という概念がすでに抽象的であり、政治的にも都合の良いように使われるのである。(例:アメリカでは自由の表現に基づき、共産主義や人種問題の話題はタブーであることには笑わずにはいられない)しかし一番重要なのは、この両概念には「絶望」と「弱さ」を必要としないからである。だから我々のような人間は隠さなければならないのである。さもなくば死ぬこと以外にないのである。
 思うに真の自由とは「死」である。「死」は己を解放する、この世に対する一切の事物を忘却させる。プラトンの「パイドロス」には輪廻転生を十回(一回死ぬと千年の賞罰期間を絶え抜かねばならぬが…)繰り返せば神の元で自由に暮らせるのである! しかし俺は罪人だから永遠に地獄の第九圏目カイーナ*にいることを求められるんやろうな。
 もう一方は現実的であり、人間の欲望が散在する世界である。ヘーゲルが言った「人倫の喪失」である。俺の絶望はそこからくるのである。俺には政治思想や哲学は分からないが、とにかくこの世は人間らしきものが全く見当たらない、もしかするとこれが永遠に地獄送りにされる人の第一通過点としての地獄であるのかもしれない。
今日は長く書きすぎた、頭が痛い、薬を飲んで寝る。

*第九圏目カイーナ:ダンテの「神曲」からの引用。合計九圏の地獄が円を描きながら存在している。第九圏は一番最下層の地獄で裏切り者の地獄と称され、同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けされるのである。カイーナはそのうちの第一円で肉親を裏切った者が入る所である。


七月四日(雨)

 夏のくせに妙に寒く感じるのはなぜや? 畜生! あの薬のせいか!! 暑いのはいやだが寒いのはもっと嫌なんや! 冬の頃、父に殴られ、血が雪にべったり流れたのを思いだす。今思えば、父とは殴られた記憶しかない。母はいつも見て見ぬふりをして笑顔で話しかけてくれた、小さい頃はその笑顔が大好きだった、厳冬の中に小さな温かさが感じられた。しかし、高校生の頃に全てが嫌になり、まさか自分の肉親を惨殺するなんて思ってもいなかった。苦しかった、ヘーゲルのいう家族愛を俺は殺したのである。今の俺は網走刑務所に入れられた思いだ。週に三回カウンセラーが「無駄な」治療をしに訪ねてくるし、外には出れないし、看護師は俺の言うことを否定こそはしないが、表情で否定しているのはバレバレである。この日誌を書いてるのがバレたら没収されると思う。明日は「無駄な」治療の日だ。


七月五日(晴れ)

 今日は治療の日やった。あのくそ野郎共は俺のことを「統合失調症」やなんて裏で言っとる、俺は難聴やない! 聞こえてんねんぞ! 俺はどんな症状を診断されたって気にしない、なぜなら俺はあの人達を信用してへんから。思えば現代の医者はなんでも病名にすれば良いと思っている傾向があるのではないか。ここから抜け出したい、社会という「監獄」から抜け出したい。俺は弱いんや、人より劣っているから、この世のシステムには適合できない。しかしレーニンやゲバラは偉大である、絶望を以って希望を探求し、切り拓いた。しかしそれはもう過去のことだ、みんな記憶の彼方に忘却してしまっている。この世の大半の人は自分が監獄にいることすら忘れてしまっているんだ、いや、気づいてはいるが、見て見ぬふりをしている。俺の母がしたように。 
この監獄は人間の欲望やずる賢さで塗り固められている、適合できなければ精神病扱いする。俺はどうやら「統合失調症」らしい、仕事を頑張っている人が突然、だるくなったら自律神経失調症かうつ病と診断される。なんでも病気だ、そして繰り返すのである。


七月六日(晴れ)

 向日葵を摘んで、窓際に置いた。これは太陽を象徴している花であると共に希望の前衛的イマージュでもある。俺はこの花に憧れ、焦がれたのである。希望が一寸見えれば、それに向かって努力すべきである、しかし見えなくなった時はお終いです。もうすぐ行かなくては。俺はこの世に向日葵を見出せない。この世にとって俺は害虫、つまり「皆」の向日葵を食い尽くしてしまう。居らん方がいいんやと自身に言い聞かせる、でもせめて、誰か俺を見つけた時に、俺のこの愚かな日誌を見て、何か感じてほしい。いや感じなくてもええ、俺がこの世に希望を見出せなかったことを嘲笑でもしてくれたほうが気楽である。


七月七日(雨)

 とうとうこの日が来た。俺はこの世に未練を持たずに去る。俺が去って悲しむ者は居らんやろう。しかし俺の中で革命の火種は飛び散ったんや。誰か俺を見つけた時、その人はこの既に飛び散った火種の化石を見ることになるやろう。それが個人の歴史であり精神である。絶望により、反抗する。死を以て反抗する。これがすなわち「造反有理」。まだ生きる者は死を覚悟して闘争せよ…

 ここで日誌は終わり、著者は自害した。なおこの日誌は患者の死後三ヶ月後に三島由紀夫の「葉隠入門」(新潮文庫)の四十一頁目に挟んであるのを鑑識官が発見した。「二、決断」という節であった。(2022.08.06)

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