森川昂太(Kota Morikawa)

(2001~) 哲学、小説

森川昂太(Kota Morikawa)

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最近の記事

人喰いと悪魔

「お前は誰だ!」 「俺はお前自身だよ」 「嘘つくな!お前は嘘つきだ!」 「嘘つきがお前の本質なのだ」 「それがどうした?嘘ついていない人間が居るか?」 「だからお前は人喰いなんだ!」 「人喰い?綺麗事言ってるうちはまだ半人前よ」 「幼子をも喰うのか?」 「必要とあれば」 「それがお前の、いや俺達の本質さ」 「お前と一緒にはされたくないね」 「お前はまだ分かっていない」 「それを教えてくれよ」 「お前にはまだ早い」 「教えてよ」 「お前が他人を喰って、自身の滋養にしているという

    • 虚生

      一  道子が死んだ。死因は首吊りである。私が帰宅して間も無く、自身の書斎へと向かう途中、居間の真ん中で道子が首を吊っていることに気が付いた。異臭が微かにとだけ、死後あまり時間が経っていないということから、つい先刻に自害したのであろう。一人の女が旅立ったのである。私は彼女の首に掛かっている紐が僅かばかりに緩み、身体が左右に揺動した姿を見て心の底で嘲笑った。人間が自身を破壊するのに死んでしまったら破壊自体が失われるではないか、本来苦しい生が自身の破壊によって隠匿されている。人生

      • 信仰

        「君を殺す」 「それは愛?」 「うん、多分ね」 「じゃあ殺して」 「苦しめてもいい?」 「それは嫌よ」 「バラバラにしてもいい?」 「それは貴方が好きにして」 「やっぱり殺さない」 「なんで?」 「苦しめたいから」 「苦しめないと愛せないの?」 「うん」 「なんで?」 「分からない、信じられないから」 「何を?」 「おまえが人間なのかどうかさ」

        • ある患者の手記

          Note:佐守修造 36歳 統合失調症 自殺  結局殺してしまった。人間が人間であることを殺めてしまったのである。魂はもう存在出来ず、精神は衰弱に陥れられた。何処を見渡しても静物画のようにまるで世界は自然に飲み込まれたようである。実際そうなのだろう、いくら苦しんでも、それに抗えずに生きるしかない。Kampf(闘争)など所詮人類史圏での徘徊である。いや、人類の全活動が一つの徘徊である。なんと喜劇たることか!見方によっては悲劇は喜劇である。喜劇は悲劇を包含し、死んでもなお喜劇だ

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        • 小説
          10本
        • 哲学断想
          3本

        記事

          肛門存在

          狂人日記  我々が常に嗅ぎたいのは悪臭である。 悪臭に蓋をしてもやがて時代が過ぎると共に再びパンドラのピトス*が割れた瞬間のように災厄をもたらす源となるだろう。 「俺を嗅げ!」 それは常に呼応してくる。 断る権利?そんなものは無い。 そこにあるのはただ親が子を糞便だらけの便器に頭を突っ込んで殺す情景なのである。 *「ところが女はその手で甕(かめ)の大蓋を開けて、 甕の中身を撒き散らし、人間に様々な苦難を招いてしまった」(ヘシオドス「仕事と日」)  存在とは社会の生産様式

          蝋燭

          淋しき花よ、強くあれ。 哀しき心よ、絶つことなかれ。 その燈を小さく灯し、 消えるまで見守るのだ。 孤独から逃げる事は、結局孤独になり、 哀しみから逃げる者は、結局哀しき者なのだ。 2023.03.27

          忌避

           「これはある男の生前の日誌である。小説調の内容には不適切な表現も含まれるが、心理学者であるサミュエルソン博士の精神分析研究の利用と彼がすでに故人であることを鑑み、全文公開に至ったのである。なお故人の思想が幾らか真実かのように思われる可能性もあるが、それらに一寸の真理もないことを読者に注意を記しておく。」               一九三三年四月  ついに俺は口が閉じられなくなった。さっきまでそこらじゅうで歩いている連中と変わりなかったのに今は身体もまともに動かせない、こ

          若者の追憶

          寂しさを感じる都にて 一、  朝、私は起きられなくなった。六月の梅雨にしては珍しく夏風に太陽が差し込んだ朝であった。何か縄のようなもので括り付けられ、布団上に縛りつけられた感覚だ、しかし窮屈ながらもこの状態から逃れたい訳でもなかった。いや、むしろそれでも良いとも思ったのである。これはある種の幸福と言える感覚なのだろう、だが一方で起きなければなるまいという考えが一向に止まない、本能的にはこのままでいたいが己の理性が煩い。  人はこのような状態をなんと呼ぶのだろうか、フロイト

          殺意

          「君を殺したい」 「殺して!」 「だめだ、殺されろ!」 「愛してよ」 「愛するから殺すんだ、死んでくれ」 「逝きたい、貴方と逝きたい」 「それじゃだめなんだ、なぜお前は死んでくれないのか」 「私が憎いの?」 「違う、お前はまだわかっていない、殺意と憎しみは違うんだ、俺は憎しむから殺さない、愛してるから殺すんだ」 「私、貴方に殺されたいの」 「だめだ、お前は生きていくんだ」

          希望

           ある青年が光を辿りながら希望へ続く道を探究していた。 青年:「光だ、光が見えるぞ」 神:「向かって左、直進して右折に行きなさい」 青年「これまで努力して来たんだ、必ずや到達して見せようぞ!」 神:「青年よ、お前は果たして本当に正しいのか」 青年:「今に証明してやりますとも」  青年が光の元に辿り着いたその途端に忽然と光が消え、一枚の薄っぺらい木片で出来た「希望」と書かれている看板のみが建てられていた、青年は神に向かって救済を尋ねたが、神はもうそこにいないのであった。  青

          狂い

          「あなた、ご飯にしましょう」 「ご飯って?」 「何を言ってるの?とぼけないで?これからあなたを食べるのよ」 「ああ、そうだった」

          断想2

           人間が人間である事は決して文字上で解決され得るものでない。思えば読書量で背比べもしくは知識量で傲慢な振る舞いをしている者はそのオーガズムに満足しているだけである。知識はその人によって活かされなければただの形骸化した腐敗臭の漂うドグマでしかない。そのドグマを抱えてどこまでもあちこちに散布する者がこの情報化時代で一気に増えた。何故思考しないのだ。〜主義や〜思想、〜定式、公式のような陳旧物をただ並べ、文字をほじくり回して自己満足に陥る者は哲学者たる者ではない。先哲は先哲である前に

          断想1

           ディアレクティケー(問答法)の重要性を古代ギリシア哲学者達は分かっていた。それが弁証法という形式になり得たのであるが、現代では一方的に情報を大衆に注ぎ込み、その理論的価値も思弁要素も甚だ悲観することしかないのである。  自身の持論を展開することは構わないが、その基軸なるものが浅薄であればその情報または理論も無内容に等しいものであると言わなければならない。この様な思弁は現代の主流に於いて逆方向をいくものであるが、そもそも安易なる気持ちで展開された思考は直線思考でかつ偏見が基

          小説:獄中日誌

           これはある精神病患者が退院し、その後自宅で自殺する一週間前の日誌である。 某年七月一日(晴れ)  朝、目が覚めると妙に憂鬱。空は曇り、雨が降っていた。脳液が耳から地面にポタポタと落ちている気がした。心配して起き上がるが、水がこぼれていただけであった。外に出ると眩暈がした。まるで万華鏡の中にいるみたいに。辺りすべてが誘惑と快楽とが緻密に計算されたかのように動いていた。気味が悪い。周りの人間が曲がっているように見える。それにしても今日は暑かった、黒い日光が当たって身動きひと