見出し画像

忌避


 「これはある男の生前の日誌である。小説調の内容には不適切な表現も含まれるが、心理学者であるサミュエルソン博士の精神分析研究の利用と彼がすでに故人であることを鑑み、全文公開に至ったのである。なお故人の思想が幾らか真実かのように思われる可能性もあるが、それらに一寸の真理もないことを読者に注意を記しておく。」
              一九三三年四月

 ついに俺は口が閉じられなくなった。さっきまでそこらじゅうで歩いている連中と変わりなかったのに今は身体もまともに動かせない、これでは仕事が出来ないではないか。何かがおかしい、人々が俺を変な目で見ている。こんなことにならなければ連中と同じだったはずなのに。俺は普段なら誰からも気にされないような人間だったが、今は誰一人と気にせずにはいられない存在となってしまったのである。
「君、どうしたんだ」
知らない男が訪ねて来る。しかし俺は口が開いたままなので喉から精一杯声を出してみたがまともに返事が出来なかった。
「こいつは気が狂っている」
男は捨て台詞を吐き、俺の肩を強く叩いて去っていった。勝手に声を掛けておいて、無責任に去る。
「痛いじゃないか、脳ミソを潰してやりたい」
そう思った。

 思えば人間ほど無責任な存在はない。皆俺のようになっちまえば気持ちが分かるだろう。頭の中では「ぶっ殺してやる」と何度も連呼した。誰に言っているかは分からない、もしかしたら自身に言ってるかもしれないが、取り敢えずそんな癖が小さい頃からあった。
「あなたどうしたのよ」
すぐ後に若い女が訪ねてやって来た。見ると中々いい身体をしていて、俺の性欲を誘いやがる。普段なら女に声をかけてさえもらえない俺が今世紀にない機会が訪れたというのに俺はこの言うことを聞かない口を開いたままで返答が出来なかった。
「顎疲れない?」
女のとぼけた質問には飽々した。当然だ、疲れないわけがないだろう。顎が疲れているのに、ピクともしない。我慢出来ずによだれが口から垂れると女はすぐに逃げて行ってしまった。
「クソが、人が苦しんでいるのを気持ち悪がりやがって!殺してやりたい、恐怖を植え付けてやりたい」

 俺は開いた口から出たよだれを微かに動く手で拭いた。俺はこの先の人生がもう終末に来ていると確信した。今までの人生を振り返ってみると確かに私は神に対し良い行いと言えることを決してすることはなかった。むしろ抗っていたのである。誰が存在もしない神なんかを崇めて、馬鹿みたいな祈りをするのか、疑問だった。小さい頃には自分がいじめられたくないという理由でいじめっ子達の輪に入り、犯行の幇助をしたりして自身を守り、大学の時は学友の彼女を寝取り、知らないふりをしてやり過ごしたことなど平気でやってのけた、借りた金を返さないことなど日常茶飯事であったし、むしろそれを誇りとしていたのである。昨日は友達の彼女に売春婦よりも二倍の金を払って自身の下を慰めさせた。どうやら俺は功利主義者でかつ人の物を奪う悪趣味を持っているのである。だが今は神にすがりつき、心の中で「助けてくれ!」と絶叫している。矛盾だ、あまりに矛盾している。自身の恐ろしさはやはり自身が知るのである。誓って言うが俺は決して自己を正当化するような人間じゃあない、これと似た小犯罪なら誰だってしたことがあるではないか!俺はただ自身を守りたかっただけだ、奪われる者は奪われた者が悪い、取り返すことが出来ない愛なら最初から無に等しいのだ! 


 だが今はどうあがいても俺の口は開かれたままで、身体も微かにしか動かせない。「これはもしや罰なのか?」ふいにそう思った。


 現代文明人の身体は健康的である一方で、心は病いに侵されている。俺は身体が動かないが心は健康だと言える、しかし俺はそれを伝えられないのである。人は私を救えない、自身のみが自身を救うことが出来ると言うが、俺は自身をも救えないのだ。どのような罰が俺に下ったのかは分からない、俺に分かるのはただ自身に罰を与える自身なのである。ここまで考えると、自身が本当に健康なのかが甚だ疑問に思えてくる。嘘、虚栄、欺瞞に溢れた人生、死んでもなお追いかけてくる。今は死ぬことすら許されない、口と身体が動くまで責任を負わされているのである。狂うことも出来ずに、いっそのこと殺されたい。俺には壁を突き破る勇気がないのか、壁の前で嘔吐をしている。凡そ人間は信用ならぬ生き物である、自身をも信用できないのに他人はもってのほかだ。俺は心が崩壊しているのかもしれない。もしかするとここで語ること自体がもう無意味なのかもしれない。希望というものが見えない人にとって世界は死んだも同然である。しかし希望は見えないところにこそ現れるものである。俺にはまだ見えていないだけなのかもしれない。その「かもしれない」に悩まされる人生はなんと苦しいのだろうか…

苦しい、苦しい… 助けてくれ、いや誰にも助けられない。孤独だ、憂鬱だ、誰かこの哀れなアダムを救ってやれ。(2022.12.30)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?