若者の追憶
寂しさを感じる都にて
一、
朝、私は起きられなくなった。六月の梅雨にしては珍しく夏風に太陽が差し込んだ朝であった。何か縄のようなもので括り付けられ、布団上に縛りつけられた感覚だ、しかし窮屈ながらもこの状態から逃れたい訳でもなかった。いや、むしろそれでも良いとも思ったのである。これはある種の幸福と言える感覚なのだろう、だが一方で起きなければなるまいという考えが一向に止まない、本能的にはこのままでいたいが己の理性が煩い。
人はこのような状態をなんと呼ぶのだろうか、フロイトなら「それは自由を求めていない人間本来の状態だ」とでも言うのだろう。しかし理屈を戯けてもそれはどこか人間的でないかのように思える、どうも腑に落ちない、何かが障壁となっているのだ。人間は本来自由を求めてはいないのだろうか、もしそうであるとしたなら何故であろうか、人間の理性との折り合いつかないこの感情が邪魔をしているのであろう、もしやこれは現実逃避か、「いや現実は見えているはずだ!現実はいつもそこにある、私には目標があって、行動をしなくてはならない…」云々、心の中でこれまで幾人もが叫んできた皮相的で浅薄な内容を念仏のように唸っていると突如理性が私を大きな声で呼び覚ます。「夢だ、これはタチの悪い夢だ!」とくる。身体から徐々に冷や汗が滲み出て、カフェインを大量摂取した時のように動かずには居られなかった。やはり浅薄な内容には導火線のような役割があるのである。
私は起き、ぼろぼろの服で外へ飛び出した。この辺りには海があり潮風がこの頃強烈である。私の中では矛盾という波が騒いでいる。ここから抜け出したいと主張する一方で、このまま甘んじ、身を任せたいともう一人の自分が言う。結局私はまだ呪縛から解き放たれていないのだ、布団という環境からそのまま変わらず移行してきただけである。これは結局私の中で抜け出そうと闘争する自身というナルシス(自己愛)なのではないか、何がこの自己ナルシスへの固執が矛盾を生み出し、問題を生み出すのか?波に呑まれながら呼吸が半分できるか分からないという苦しい状態の中で私は街へ歩いた。
カフェに向かった、座って煙草に火を付け、肉体から魂が抜けたかのように一直線に外を眺めた、すでに夕陽が射して西部開拓時代の景色が目に浮かぶ、颯爽と駆ける馬、銃を腰に掛けたガンマンが威厳とした顔でサロンに入って行く、典型的な西部劇である。そこでたまたまぶつかった怖い物知らずな酔っ払いの毛深く、少し太った中年男性がガンマンに野次を飛ばし、決闘を申し込む。ガンマンは少しの動揺も見せずに数分要しない中で中年男性を遥か遠い宇宙の彼方に追いやった。サロンが混沌とした状態になったところでガンマンは馬に乗り、その土地から去るのだ。なるほどサロンは常に受け身であったが、ガンマンはただ無常に身を流れに任せただけだったのである。もちろんそんなことをされたサロンは大変迷惑であるが、あの中年男性に店を潰されるぐらいなら止める選択肢は無かったとも言うべきであろう。
「調和」という単語ほど一方的な意味はない。辞典では「全体(または両方)が、具合よくつりあい、整っていること。」と定義されているが、この「具合よくつりあう」とはどういうことなのだろうか、具合は一体誰がどのように決めるのか、だが誰かが決めてしまったらそれはもはや調和と言い切れるのだろうか。かのサロンの調和は具合良く釣り合ってはいなかった。サロンでは毎日が騒がしく、喧嘩や乱闘が絶えないのである。しかしながらガンマンの出現により騒がしさが中年男性に集約され、対決を余儀無くされたのである。芸術家岡本太郎は「対立をし、ぶつかることが真なる調和だ」と主張する。これには私も賛同である。調和という漢字に対立という響きが無く、反義語のようにしか聞こえないがその奥には生々しい人間の対立が、血痕が、存在しているのである。調和が存在する理由とは矛盾や対立が前提であると言えるかもしれない。現に私自身がそれで悩んでいるのであるから説得力がある。
ニ、
そんな無為な思索に耽っている間にやがて陽は落ち、夜になった。カフェではバイオリンの三重奏が弾かれ、客もみんなそのバイオリンの音色に惹かれていたのである。
「今日はお月様が見えないですね」と赤いドレスを着飾った女が私に声を掛けて来た。
「明日は雨が降るみたいですよ」
「それは残念ね、ところでなんでそんな死んだ顔してるのよ?遠くから見ても一際目立つのよ」
「これはおせっかいだな、貴女になんの関係が?」
「別に関係はないけど、この店に来る人でそんな人あんまり居ないから気になって…」
「いや、特別何もないんだ、ただみんな不安や心配があるのになぜなんにも無いかのように振る舞うのかと思ってたんだ」
「へぇ、あなた哲学的なのね、そんなのつまらないわよ、そんな事ずっと考えてたらいつの間にか首を吊ってるかもしれないからよ。あなたはその直前ってところかしら?」
私は笑ってしまった、彼女の話した事が面白いのでは無く、余りにも直接的で驚いてしまったのである。
「そんな事分かってるよ、でも考えてしまうんだ、納得しないと気が済まないんだ」
「納得することってそんなに重要?いつ死ぬかも分からないのに?そんな事考えても私からすれば無駄だわ。考えてる間に死んだってただの笑い者にしかならないわ」
この時バイオリンの三重奏が終わり、拍手の音がカフェ中に広がる。彼女は私にお辞儀をし席を立ち、舞台に上がってピアノを弾き始めた。曲はショパンの「ノクターンNo.2」であった。カフェ中の空気が一気に変わり、みんな彼女に釘付けで、私も例外ではなかった。もちろん彼女は上手く弾いているが、しかし何処か悲しみの色が混ざっていて、人間味があった。彼女の過去が如実に表れ、私達に語りかけているようであった。曲が終わると共に私は涙を流していた、ソクラテスの死を描いたプラトンの「パイドン」を読んだ時以来の感動と共感とが心に響いたのである。曲が終わると拍手喝采の音が聞こえるかと思えば、その場に居る客全員がうっとりして数秒間ほど拍手を忘れてしまったのである。泣いている者も居れば、自身の過去を思い出し、曲と重ね合わせている者も居た。彼女は私のところに駆け寄って来て、
「今日は来てくれてありがとう、私ここで時々ピアノを弾いてるの、よかったらまた来て。」とだけそっと私に小声で囁いてその場を去った。
三、
人生には数え切れない程の分岐点がある。良い方に転ずることもあれば、悪い方に転ずることもある。激情に溢れるような恋をすることもあれば、冷淡な失恋で終わることもある。しかしながら恋というものは人に忘却をもたらす。さきほどまで重い頭を抱えた「考える人」も僅かな出来事でいつの間にかギリシャ神話に登場するサテュロスのように欲情に溺れるのである。私は彼女に恋をしたのである。なるほど心の波が嵐の如く荒れていたのに、いつしか落ち着きを取り戻し、真夏の夜の静かな海となったのである。これが調和というものだろうか、私は翌日も同じカフェに行った。今度は無為な思索をする為では無く、彼女に会いに行く為である。席に着き、カプチーノ一杯注文し、煙草を片手にプラトンの「饗宴」を読む。すっかり恋の欲情に浮かれ、今にでも地獄へと堕ちる気分であった。幾分時間が経ち、辺りはすっかり暗くなってしまった、今夜は彼女に会えないという残念な気持ちで帰ろうとしたその時にこちらへ向かう彼女の姿が見えたのである。
「あら、今日もいらしたのね」
「はい、読書をしに」
「なんの本?」
「プラトンの「饗宴」です」
「へぇ、面白い?」
「面白いです、少なくとも今の私にとっては」
「そうなのね、今日も演奏あるけど、見ていく?」
「はい!是非」
私はどうも人間関係というものが好きでない、昨日は彼女に馬鹿にされたと思って幾分無礼であったが、次にまた出会うと改まってしまう。人間は理性に従わなくなるとこうにも己に対して無責任なのか。だが彼女の演奏はやはり素晴らしく、まるでミューズのように美しい、彼女に惚れた男性は数知れないのであろう。恐らく誰一人として彼女の心を征した者はいない、彼女は誰にも犯されないのである。演奏が終わると彼女が私の方へ駆け寄り、「今日も来てくれてありがとう、それで、感想は?」
「良かったよ、正直言って感動した。いつからピアノを?」
「四歳の時からよ、もう二十年ぐらい弾いてることになるわね」
「しかしなぜこんなカフェでピアノを?」
「競争に負けたのよ、人間はなんで競争するんだろう、私疲れたわ」
「その気持ち分かります、人間って奴はどうも競争しないと気が済まないらしい、貧相だなぁ、奴隷根性だよ」
「奴隷解放への皮肉ね、結局はみんな奴隷になったんだから、それも見えない形でね」
私達はカフェの営業時間が終わるまで政治、哲学、社会、音楽とお互い夢中に様々な話をした。
「今日はもう帰る?」
「そうだなあ、夜も遅いし、君を送って帰るよ」
「ありがとう」
私は彼女の家の前まで送っていき、帰ろうとした瞬間、彼女が私の手を握りしめて「今日はありがとう、本当にありがとう… あなたが恋人だったらどんなによかったか」
「冗談言わないでよ、私はつまらない人間なんですから」
「私にとって、あなたは太陽よ、つまらない人間なんかじゃないわ、でも残念なことに私は蝉なのよ」
「どういう意味?」
「なんでもない!今日はもう疲れたわ、おやすみ」
「ではまた明日」
そう言って彼女は早々に帰っていき、私達は別れた。翌朝、同じカフェに行ったが彼女の姿は見えず、演奏リストに彼女の名はもう載っていなかった。もしやと思い、彼女の家を訪ねたが、人の気配がない。あの時は真夜中ということもあって気にもしなかったが、彼女の家は貧相で、まるで廃れた城とでも言ったらよいのだろうか、いかにも風に突っつかれるとすぐにボロボロに壁が剥がれそうな家で、草木が壁にまで生い茂っていた。私はドアを開け、中に入ってみると、彼女は本当に蝉になっていたのだ、しかしそれはもう生命がない蝉である、ただ魂の殻が残っているかのように眠っていたのである。美しかった、人間の真の姿を私は目撃したのである。人間の隠されたその欺瞞、虚栄、不誠実、無知などのヴェールが全て無くなり、ただ貧弱で、不器用な姿だけが残されたのである。人間の闘争がここに終結を見たのである。人間というものは生きている間は苦しみ続ける外はない。私は彼女がもう苦しみから解放されているのを見ると安心した、しかしふと振り返ってみた時、私はある事に気づきふと声に出してしまった。
「私は彼女のことを何も知らない」(2022.10.07)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?