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ある患者の手記

Note:佐守修造 36歳 統合失調症 自殺

 結局殺してしまった。人間が人間であることを殺めてしまったのである。魂はもう存在出来ず、精神は衰弱に陥れられた。何処を見渡しても静物画のようにまるで世界は自然に飲み込まれたようである。実際そうなのだろう、いくら苦しんでも、それに抗えずに生きるしかない。Kampf(闘争)など所詮人類史圏での徘徊である。いや、人類の全活動が一つの徘徊である。なんと喜劇たることか!見方によっては悲劇は喜劇である。喜劇は悲劇を包含し、死んでもなお喜劇だが、羊の外皮を纏った偽りは喜劇の悲劇である。

 人を殺めるのは嫌いではない、むしろ好きだ。よく死体と隣で語り合うことがある、彼らは喋るのだ。死者ほどお喋りは居ない。殺された人は殺した人に怨念など抱くことはない、やはり解放された故にであろう。死は終末を意味しない、それは常に繰り返される。本人にとっても、ただ脳の活動が停止し、この世との繋がりが無くなっただけである。果たして人類にとっての解放は全て死に行き着くのである。

 

 偶然の成り行きで付き合った女を突き放した。彼女から「貴方の居ない世界は考えられません」との手紙が届き、私はその手紙を半日眺め、捨てた。心に思ったことは始終「私は貴女の居ない世界を考えられる」である。冷酷な男と咎められるかもしれない、だがせめて己自身には正直でありたいものである。人間を「モノ」として見ることはこの社会の「慣例」である。私ももしかするとその「慣例」に陥っているのかもしれない。いや、むしろ都合のいいようにその「慣例」を利用しているだけである。この「慣例」に違反など無い。しかし「慣例」に逆らうとこの世界から抹殺されるのである。

 「人間嫌いの人間好き」という矛盾する言葉があるが、私にはそれが落ち着く。具体的な人間などとは関わりたくないが抽象一般の人間とは関わっていられるのである。だがそれでさえ嫌になることがある。それは私の世界から全員を抹殺したのである。しかしそれでも世界は、地球は動き、活動する。私などただの塵に同じ。

死、それは生に同じ。

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