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肛門存在

狂人日記


 我々が常に嗅ぎたいのは悪臭である。
悪臭に蓋をしてもやがて時代が過ぎると共に再びパンドラのピトス*が割れた瞬間のように災厄をもたらす源となるだろう。
「俺を嗅げ!」
それは常に呼応してくる。
断る権利?そんなものは無い。
そこにあるのはただ親が子を糞便だらけの便器に頭を突っ込んで殺す情景なのである。


*「ところが女はその手で甕(かめ)の大蓋を開けて、 甕の中身を撒き散らし、人間に様々な苦難を招いてしまった」(ヘシオドス「仕事と日」)


 存在とは社会の生産様式による影響の結果である。資本主義的生産様式ではまさに肛門と糞便の関係が存在を規定するのである。存在間は肛門から出た糞便の貶し合いであり、この貶し合いは尺度によって関係づけられている限り変態的運動である。変態的運動は性行為と対象的であり、破壊と再生を繰り返すのである。しかしながら同時にこの繰り返しは予め事物の永続性という概念を無に帰することをも意味するのであるから矛盾が生じるのである。愛への否定、関係の放棄はこの存在において常に意識されていなければならないのである。例えば乱交行為において、それは常に結合(=信頼)と裏切りという否定の矛盾関係が運動しており、愛欲と破壊は常に衝動的にぶつかり合うのである。愛という高貴なる神的象徴もそのゼウス的性格故に絶えず排他的であるのと同時に結合的なのである。この矛盾の運動の中にしか存在を前提とする要素が含まれないのである。したがって存在は存在として絶えず運動し続け、自己を確立してはまた自己破壊を自ずと遂行するのである。   

 存在の意識は経験的尺度と想像的尺度という二つの尺度から生じ始め思惟するのである。そしてこの認識は自ずと先ず経験的尺度によって規定され、想像的尺度によって発展する。しかしながら尺度の相違が一方では限定され、もう一方では無限定である為に不安定的なのでこの両者の差異が現実の認識を狭め、曲解しているのである。尺度間の闘争は直ちに意識へと反映され、その時間と空間毎にまるで生物の進化過程のように淘汰と変異によって変遷をしていき、意識もそれに従って変化していく。経験的尺度から想像的尺度への昇華、闘争、破壊の過程が資本主義的生産様式における存在の肛門化なのであって、想像的尺度は先ず経験的尺度による測量が必要なのである。存在は先ず経験的尺度、つまり糞便に慣れることに依ってしか想像的尺度による糞便に基づく糞便の投げつけが出来ないのである。だが全てにおいてその穢らわしい尺度への依存なのである!

 真理への認識が不可能のように、現実もまた肛門の尺度による認識曲解なのである。この曲解があたかも正しいと思われるかのような形態を呈することがあり、我々はそれを「現実」だとか、「普遍的真理」という安直な観念的用語に還元してしまう。しかしながらそこには経験的尺度による限定がある限り、我々は常に現象から意識へと、つまり糞便からの認識でしかいわゆる“真理”への把握が不可能なのである。宗教やイデオロギーもただその時代の肛門から出た糞便であり、我々は時代を超えてその糞便に顔を突っ込み、臭いに慣れ、その糞便からまた新たな糞便が出てくるのである。これを糞便だと気付き、叫び宣う人間がいるのならば、周囲は肛門から新たに出た糞便をその人間の口に突っ込み、殺してしまうであろう。ここでこの限定的な経験的尺度と無限定的な想像的尺度の連関が資本主義における存在つまり肛門であることの意味なのである。

 社会の生産様式による規定であることにおいて定立される経験的尺度はつまり現象のことであり、経験されたセックス以外に出来ないのであるが、一方で想像的尺度は常に反定立的試みを続けている。それは現象から認識への発展であり、自ずと各々の社会環境(=肛門)とその現象認識(=糞便)に依存した想像である。だがそれは無限定に昇華していくことで(つまり糞便への愛もしくは憎悪が増していくことで)、現象からの乖離が発生し、経験的尺度と想像的尺度間の矛盾が現れる。例えばそれは不倫への欲求や乱交への衝動を生起させるのであり、謂わば肛門と糞便の役割を果たそうとする。そこでいくら理性存在といっても、その理性が既に使用価値に対する交換価値の価値尺度によって固定化されているのならばそれは肛門の噴火口、非理性的であり、物神性の表れでしかないのである。

 この定立の経験的尺度と反定立の想像的尺度が存在全体を表しており、その精神病的性格によって絶えず分裂しながらも融和するのである。つまり一方を無くしてはその存在は狂い、無に帰するからであって殊更人間に至っては自然が既に自己を確立しているが故に自ずと状況依存状態に陥れられざるを得ない。だが我々は常にアンガジュマン*によって自らの状況依存状態から抜け出そうとするのである。

 糞便への嫌悪は肛門からの解放である。それは新たな存在への移行であり、進歩である。しかしながら既に糞便の臭いが付いてしまった顔を再び新生の幼児の様に綺麗で無垢な顔に戻さなければならない。母親が子供を産むのに死を賭けるというのと同じように、その新生には苦痛が伴うのである。科学技術の進歩やいわゆる”人間理性”や”文明”が発達しても苦痛は少しも無くならないのである。

我は叫ぶであろう:
 さらば、肛門よ!流されよ、糞便よ!
 我はもう犯されない。
 我は我を解放するのだ!

 かくして存在は存在を乗り越え、肛門から解放されて新たな新天地へと向かうのである。

(2023年6月20日)

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