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断想1

 ディアレクティケー(問答法)の重要性を古代ギリシア哲学者達は分かっていた。それが弁証法という形式になり得たのであるが、現代では一方的に情報を大衆に注ぎ込み、その理論的価値も思弁要素も甚だ悲観することしかないのである。

 自身の持論を展開することは構わないが、その基軸なるものが浅薄であればその情報または理論も無内容に等しいものであると言わなければならない。この様な思弁は現代の主流に於いて逆方向をいくものであるが、そもそも安易なる気持ちで展開された思考は直線思考でかつ偏見が基軸となっていることが少なくない。「新思想」や「革新的」だけでは大衆を誤った道へと導くデマゴゴスとなり、低俗なマスターベーションに成り下がることになる。真にアヴァンギャルドに運動を引き起こしたいにもかかわらず、すでに大衆は満足感に浸ってしまっているのである。

 弁証法的態度はこのような病的思考に効く処方箋である。ギリシア哲学者のプラトンやアリストテレスはその点で先駆であると言わなければならない。プラトンの著作はその全体を通してソクラテス的ディアレクティケーでその理論的価値を問うた。特に「メノン」や「国家」について一方はアポリアーに陥ることでその思弁の不確かさを、もう一方は徐々にその理論的整合性を高める為に用いた。しかしプラトン自身は残念ながらその方法論をイデア論という理想主義的観想に持ち込んでしまったのである。この発展態はドイツ観念論時代において絶頂を向かえた。ヘーゲル弁証法は「正・反・合」という形式により相反する思想を止揚せしめることで思想の発展に貢献した方法論である。ヘーゲルは客観的観念論の立場により観念論の限界を認識したが克服はされ得なかった。それの限界を克服し、真に人間なつまりヒューマニズムを確立せしめ、事物を観念ではなく現実に考える方法論を生み出したのがマルクスであり、弁証法的唯物論なのである。この様な技術や方法論はアカデミズム的で誤用する者からは教条主義的であるとの批判が上がるが、では果たして世俗を離れた観念的思考や「革新的」と名ばかりの理論と情報で実践的にこの世界を説明しうるか?労働者大衆は納得しうるのか?
答えは「Nein!」である。

 脱構造(déconstruction)を宣伝している者もその脱構造的構造を知らねばならないのである。アリストテレスが「プロトレプティコス」で「事物の原因であり第一原理であるものを知らないでは、それら以外の如何なるものをも知ることはできない」と述べているのも脱構造の前に正確にその構造を理解していなければならないということなのだ。闇雲に脱構造や反体制などと念仏のように唱えても発展には繋がらず、寧ろ後退を促すものである。

 さてこの錯乱した情報社会で如何に正確かつアヴァンギャルドに脱構造を捗れる理論や実践を創造できるか?それは「古典へ帰れ」の一言で済むのである。古典に帰り現代を見ることは温故知新という態度であり、過去を知らずして今を知れないという純粋な理由からである。例えばマルクスの「資本論」を知らずしてそれを発展せしめたり、批判しうることはできず、ダーウィンを知らずには進化論を理解しうることもないのである。これが大正知性主義的であるとは一寸も思わないのであり、むしろ大正知性主義者達はこのことを十分に心得ており、遠くは杉田玄白やマルクス主義経済学のイデオローグ排除に貢献した宇野弘蔵のような学術的貢献者達が現れたのである。「創造」、「破壊」、「再構築」を正確にかつ有効的にする為には常にその本位なる理論が存在していることを理解しておかなければならない。

 

 私達人類は果たしてこの中世的堕落時代を抜け出し、資本主義的疎外を克服してプロレタリアート・ルネサンスを興すことができるだろうか?(2022.07.01)

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