近藤学

私の祖父は、近藤経一(こんどう けいいち、1897~1986年)という劇作家・ゴルフ評…

近藤学

私の祖父は、近藤経一(こんどう けいいち、1897~1986年)という劇作家・ゴルフ評論家でした。一時期は1年に368日も我孫子に通ったと言われ、ゴルフ雑誌にも評論を寄稿していたそうです。それらの一部をまとめた『ゴルフつれづれ草』という本をNoteで復刻しました。ご笑覧下さい!

最近の記事

ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑭

「宮本留吉」エレジー  或るクラブ・メーカーの番頭さんから聞いた話である。過日或るゴルフ場で行われたプロの月例会が終って、帰途につこうとしてロビーを通ると宮本留吉老が一人ぽつねんとしてソファーに腰かけているので、どうされたのですかと訊くと、五時とかにならないと出ないという駅行きのクラブ・バスを待っているのだとのことだったので、私の自動車に御同乗ねがって、お家までお送りしました、とのことであった。  つまり、当日の参加者六十何人かのうち、なんらかの意味で「自分の自動車」で来て

    • ゴルフつれづれ草 近藤経一著 特別編

      小金井の怪談 お盆だから怪談をというわけではない。去る7月の13日、小金井カントリークラブで催された深川喜一氏の追悼競技会で聞いた話である。  深川さんの亡くなったのは1月の5日の夕方であるが、その日の午前11時頃、氏が小金井クラブに来られたというのである。  そういっただけでは分からないが、実をいうとその頃、氏は意識もはっきりとしないほどの重態で自宅のベッドに在り、そんなことのあるべきようはないのであるが、しかし、驚くべきことに、その時分、氏の姿を見たという人は一人や二人

      • ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑬

        アルミシャフトの将来性 「アルミのクラブ(シャフト)はどうなんでしょうか」というのが、近頃私が一番よく耳にする質問である。そして今日まで私はそれに対する本当の答えを口にすることをひかえて釆た。  理由は私のような者でも、一種の虚名を持っているから、その言うところが、多少とも業界に影響を与えはしないかということを懸念したからである。  ところが、最近このアルミ・シャフトについて悪推量すればそれを抹殺しようとするかのような言論を目にも耳にもするようになって来たので、別に義憤を感ず

        • ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑫

          45で立派にシングル 昔から私は考えていた。口に出して言ってもいた―それは70台はおろか、ハーフで30台すら出せなくても、何時、如何なるコースででも45以上をたたかなければ立派なシングル・プレーヤーである、と。  そして事実、私は70台のスコアなど試合では多分一度も出したことはなく、30台でさえ、そう幾度も出してはいないにもかかわらず、当時としてはハンディキャップの辛い方だった『我孫子』で「6」を保つのに苦労はしなかったのである。  然し、戦中から戦後にかけて10年以上、

        ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑭

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑪

          ゴルフは小男の方が上手い この標題にはいくらか誇張がある。本当をいえば「ゴルフに大きな身体はいらない」というべきかも知れない。いや、それよりも、むしろ「ゴルフに大きい身体は邪魔だ」というのが一番真実に近いかも知れない。  まず、これを世界のゴルフ史に見てみようか。前近代的ゴルフ-十九世紀的ゴルフといってもいい-の綽尾を飾ったハリー・バードンに、ジェームス・ブレード、テッド・レイのイギリスの三巨人は例外中の例外であるが、ゴルフがヒッコリー・シャフトとともにその旧態を捨てて以後

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑪

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑩

          球聖 いつだったか、陳清波に君の今まで見た中で一番のゴルファーは誰だったか問うたら、彼は言下に「それはベン・ホーガンである」と答えた。  ベン・ホーガンを見たことのない私は、その時そうかと思いながらも、どことなく納得できないような気のしたことを覚えている。  が、その後、テレビジョンでではあるが彼のプレーを見て初めて陳の答えの正しかったことを知った。  「ティーからグリーンまでは、今でもベン・ホーガンが最少で行きます」 とも、その時陳はいっていたが、それを今、正に私は眼の前

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑩

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑨

          ゴルフ旅愁 『ゴルフダイジェスト』から東北のゴルフの旅に誘われた。高等学校の三年を仙台で暮らした関係から、東北は私にとつて懐しいところであるし、それにこんな時でもないと、もう生きてそこを見ることもあるまいと思ったから、心うれしく同行した。  まず特急で11時間半で青森に着く(50年前には、仙台までちょうどそれ位かかった。そしてウィルフェルというドイツ語の教師が、よく「ゾー・ゲナンテン・シュネルツーグ」ー 名ばかりの急行だといってからかった)。  明治の頃四百何十人かの兵隊を

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑨

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑧

          日本のプロよ奮起せよ! 久しい間、プロ諸君は口を開けばトーナメントの賞金の増額を望み続けて来た。そして、今やその望みはかなえられて、私など意外とするほどのテンポで大賞金トーナメントが次から次へと作られている……。  そして今日ではアメリカを除けば、日本は恐らく世界第二のゴルフ賞金国ではないかと思われる位である。蓋し、プロ諸君の要望はかなえられつつあるといってもいいであろう。  ところで、この要望の実現に対してプロ諸君の姿勢は果たして今のようでいいのであろうか。  昨年の暮から

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑧

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑥

           息づまる死闘戸田と宮本のマッチ・プレー この観戦記「戦前篇」の最終回として、私が今日まで見たゴルフの試合中、最も素晴らしく、また最も忘れ難い一九三九年の十月末、川奈で行われた日本プロの決勝で、宮本、戸田の間に闘われた文字どおりの死闘について書きたいと思うのであるが、その前に東京、保土ヶ谷、霞ヶ開、藤沢を除いたら、戦前関東でただ一つの日本オープン開催コースの名誉をもっている相模について、ひと言書いておくべきかと思う。  卒直にいって、相模のコースは、今述べた諸コースおよび、関

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑥

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑤

          フェースがくぼんだファイター戸田の猛練習 幻の名コース 『藤沢』それは『朝霞』とともに、戦前のゴルファーにとっては忘れ難いコースだ。  東海道線、藤沢の駅からタクシーで十分とはかからない丘の上に作られたこのコースはあらゆる意味において、私の見た中でもっとも傑れたヒリー・コースだった。  クラブハウスも朝霞の重厚なイギリス風のそれと対照的に、青い屋根の南欧風の瀟洒な建物で、階上には宿泊できるホテルの設備もあり、食べ物もたしか横浜のニューグランド・ホテルの経営で、大変にうまく、

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑤

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑦

          マスターズ  過日、マスターズ・トーナメントのテレビを見た。  宇宙中継の実況放送でないのが残念だったけれど、フィルムではなく、ビデオだったので、色もよく、振り方もよく(恐らく何十台というカメラを使ったのであろう)アナウンサーもなかなか勉強していたし、特に陳清波の解説は流石に五年もつづけてそこでプレーしただけあって、とかくテレビでは分りにくいボールのライだとか、グリーンのアンジュレーションや、芝目の早さの具合とかを分らせてくれ、殆んどその場にいるような満足感を与えてくれた。

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑦

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ④

          日本が生んだ最強のゴルファー 戸田藤一郎長打で気を吐いたトーチ戸田  朝霞で初めての日本オープンが開かれた年(一九三五年)の四月には、宮本、安田、浅見、中村(兼)、陳(清水)、戸田の六人のプロがアメリカヘ遠征するという出来事が起こった。  これより数年以前、宮本が既に二度も、アメリカはおろか遠くイギリスにまで遠征したことはあったが、六人ものプロが、一つのチームのようなものを作って外国に遠征するなどということは、それまでの日本ゴルフ界にとつては夢のような話で、まことに画期的な

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ④

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ③

          たった一人で見た最高のプレー ゴルフのスコアは神との合作  前回に述べたサラゼンの来朝と、どちらが先き、どちらが後だったかは忘れてしまったが、一九三五年の十月に、新設の朝霞コースでは初めての日本オープンが催された。  そしていうまでもなく、それを観に出かけたことは確かなのであるが、どういうことであろう、私は、今、そのトーナメントで誰が優勝したのかということはおろか、なに一つ思い出すことは出来ない。  それは、それから五年後(一九四〇年)に、同じコースで行われた、そのコース

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ③

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ②

          わたしのゴルフを変えたサラゼンの打法 彼の自伝によれば、あの有名なウォルター・ヘーゲンが、曲打ちの名人ジョウ・カークウッドと一緒に日本を訪れたのは、一九三〇年(昭和五年)のことだった。  ――この時、彼は天皇陛下と皇居内のコース(そのコースでは当時まだ摂政の宮だった陛下が、来日されたプリンス・オブ・ウェールズとゴルフを楽しまれたこともあったのだが、今はどうなっているだろうか)で一緒にプレーをし、いくらかのインストラクションをすることにきまっていたところ、その日の朝、ひどい地震

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ②

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ①

          茜に染まったゴルフ・ボール 観戦事始めの日本オープン  私が最初にゴルフを観戦したのは、昭和何年だったのだろうか、そんなことは少し調べればすぐ分かることだけれど、私は大体物事を調べて書くことは好きではない。記録というものは正確ではあるが、味のあるものではない。私は、ただ頭の中に残っている記憶だけを相手にこれを書きたい。それはあるいは間違いもあるかも知れない。しかし、そこには歳月というものを通してのみ生ずる多少の「詩」があるかも知れないからだ。  それは今のJGKの事務局

          ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ①