ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ⑩

球聖

 いつだったか、陳清波に君の今まで見た中で一番のゴルファーは誰だったか問うたら、彼は言下に「それはベン・ホーガンである」と答えた。
 ベン・ホーガンを見たことのない私は、その時そうかと思いながらも、どことなく納得できないような気のしたことを覚えている。
 が、その後、テレビジョンでではあるが彼のプレーを見て初めて陳の答えの正しかったことを知った。

 「ティーからグリーンまでは、今でもベン・ホーガンが最少で行きます」
とも、その時陳はいっていたが、それを今、正に私は眼の前に見た。
 一緒にプレーしていた相手のサム・スニードは二度も三度もバンカーに入れ、それと同じくらいグリーンを外していたが、ベン・ホーガンの方はワン・ラウンドの間、ティー・ショットは一度もフェアウエイを外さず、
五七〇のロング・ホールを除いて、セカンド・ショットは一度もグリーンを外れなかった。
 いや、それどころか、ジーン・サラゼンがその解説でいっていたように、それはピンから左右に一〇フィートとは、ブレなかったのである。

 が、私が感心したのは、そういうショットを生み出す彼のスウィング(フォームといつたほうがいいであろうか)の方である。
 それは彼の名著「モダン・ゴルフ」の中で彼の説いているセオリー通り(これはプログラムの最後に出て釆たレッスンでのスローモーションの写真で特によく分る)に安定していて、何ともいいようのないほど立派なものだった。

 しかし、この完壁に近い彼のスウィング(フォーム)も、実をいうと私を一番感心させたものではない。
 では私が一番感心したものは何かというと、それは彼のプレーに対する姿勢というか、態度というか、いや、それよりも心というか、そこに漂う全体としての雰囲気である―。
 それはひとつもきばっていず、といって無論ゆるんでもいない。見たところ淡々として、常に同じテンポ、同じ形で運ばれていく。
 そしてこのゴルフそのものの如く冷静なプレーの前には、さすが「ゴルフの神様」といわれるサム・スニードも後光を失うように見えた。
 事実、彼は何よりもまずメンタリーに威圧されており、終りに近づくにつれて、いくらかしどろもどろになった観さえもあるくらいだった。

 「神様」をさえこうしてしまうベン・ホーガンのゴルフを何と評したらいいであろうか。
 私は昔、呉清源の碁を好んだことがあった。いや、それに心酔したことがあった。そして今、ベン・ホーガンのゴルフにそれに似たものを感じる。
 それは神様というような不定のものではなく、人間の力の極限を超えるといってもいいような、一種神秘的なもので、これこそ真に「名人」の名にふさわしいものではないかと思われる。
 「碁は人間と勝負を争うものではない、それは天と一緒に原理を極めるため打つものである」という意味のことを呉清源はいっている。
 ホーガンも今、人と争うためにゴルフをやっているのではないであろう。おそらく彼はゴルフの原理を究めるために、神とともにゴルフをやっているのであろう。
 テレビを通して見た彼の姿だけからでも、私はそういう感じをひしと胸に受け止めたのである。

 先頃日本を賑わしたビッグ・スリーは立派なゴルファーである。中でもアーノルド・パーマーは私の最も好きなプレーヤーである。
 好きという点では誰よりも好きといっていいかも知れない。が、しかし、そのアーノルド・パーマーでさえ、ベン・ホーガンとの間には紙一重の差を認めないわけにはいかない。
 「紙一重」という。けれどもこれが大変な紙で、この紙を破るか破らないかが八段と名人(真の)との相異だと思う。

 ビッグ・スリーを初め、今日世界のゴルフ界には沢山の八段はいる。
 中でもアーノルド・パーマーなどは、この紙一重を破って、ベン・ホーガンとともに名人の境地に達する素質を多く持っているものと思う。
 が、その彼ですら、果たしてこの紙が破れるかどうかは保証の限りではない。それほどこの一重の紙は厚いものと私は信ずる。
 とともにしみじみと思われるのは、幾百年のゴルフの歴史に名を残す名プレーヤーといわれる人々は、その技術とともに、実にこの一重の紙を破った人達だけなのだろうということである。
 ああ、さもあらばあれ、私はどうにかして、生きているうちにべン・ホーガンのプレーを一度見たいと願わざるを得ないのである。

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