ゴルフつれづれ草 近藤経一著 ③

たった一人で見た最高のプレー

 ゴルフのスコアは神との合作

 前回に述べたサラゼンの来朝と、どちらが先き、どちらが後だったかは忘れてしまったが、一九三五年の十月に、新設の朝霞コースでは初めての日本オープンが催された。
 そしていうまでもなく、それを観に出かけたことは確かなのであるが、どういうことであろう、私は、今、そのトーナメントで誰が優勝したのかということはおろか、なに一つ思い出すことは出来ない。

 それは、それから五年後(一九四〇年)に、同じコースで行われた、そのコースとしては二度目にして最後の日本オープンの印象があまりにも強すぎて、第一回のときの出来事も、あるいは第二回のときのものの中に混同されてしまっているのではないかというような気もするので、いっそのこと五年先きの第二回のことを書いて『朝霞』に別れを告げたいと思う。

 一九四〇年の春、朝霞で行われた日本オープン、それは私にはまことに忘れがたいものである。というのは、そこで私は今日まで私の見た最も素晴らしい〝ハーフ・ラウンド〟を観たからである。

 その時の宮本 ー またしても宮本であるけれど、なんとも仕方がない。いわゆる戦前の日本ゴルフ界では、宮本はエベレストのごとき存在だったのだから(その証拠には、一九二七年に始まり一九四一年まで、その間一回の中止を除く十四回の日本オープンのうち宮本は実に六度優勝しており、彼のほかには二度あのカップを手にした者はいないのだ)ー
のプレーについて、私は当時の『ゴルフドム』誌上に「人と神との合作」という題で一文を草したのだが、その中で、おぞましくも、私は重大なミス、いやミスなんてものではない、肝心な主題を書きおとしてしまったのである。だから、今、幸いにこの機会に、私はそれを書きなおしたいと思う。

 結論を先きにいえば、その一文の中で私のいいたかったことは、ゴルフのスコア(もちろん優れたスコアのことだ)というものは、いくら偉大なプレーヤーだって、自分一人の力で出しきれるものではない。
 そこには神の協力がなければ出来ない。すなわち、其の驚くべきようなスコアは「人と神との合作品」であるということだった。そして、その実例として、そのオープンで私の見た二つのハーフ・ラウンドを比較して語りたかったのである。


 夢見心地で宮本の後を

 ところが、その時、私はその二つのハーフ・ラウンドのことだけを書いて、この肝心の結論を書きおとしてしまったのであった。
 全く、なんともいいようのない失敗で、そのことを思い出すと、この二〇年間、私はいつも憂うつな気持になりだしたのであったが、今ここにそれを書くことができて心の晴れる思いがする。

 話は、こうである。
 それは、このオープンの第二日日の土曜日だった。おそらく、殆んど全くの偶然から、私は十番のティから宮本について歩き出したのである。
 前日の第一日目に、彼としては不出来な七四をたたき、その第二日のアウトも三六か三七と格別よくもなかった。宮本のところには、その時、たぶん……いや、実をいえば確実に私一人しかついていなかった。幾百人かのギャラリーは皆、前日七〇のコース・タイ・レコードを出していた戸田の方に集まってしまっていたらしい。

 ところがこの時、私がただ一人、もちろん最後の一、二ホールはかなりの人が見たであろうけれども、見る幸運を得た。この宮本のハーフラウンドこそが、私が今日まで見た最大のハーフ・ラウンドになろうとは!
 つい昨年であったか、M…誌で宮本君と対談をさせられた時、君の生涯の中で最も会心のゴルフをしたのはいつか、と聞いたら、それはやはりこの時のゴルフだという答えであった。

 どのボールを、どう打ったか、それは留さんに聞けば今でも一つ一つ覚えているだろう。しかし私は、今、ここにそれを書く気はない。
 ただ、ボールはフェアウエイの真ん中へ飛んで、そうしてピンの傍へ飛んだ……。それは、まことに夢でも見ているようなゴルフだった。そして彼は、そのハーフを三一でまわったのである。三一!(アウトの三七と合わせて六八で、それはコース・レコードでもあった)。

 あの『朝霞』のインの三一、それは今日そんじょそこらに出来ているコースの二八にも二七にも当たりはしないだろうか。しかも、当時のボールはスモール・サイズだった(念のため申しそえるが、ゴルフのスコアは、ポールのサイズが今のように大きくなってから急速によくなったのである)ことを思えば、このスコアの如何なるものかということはご想像つくだろう。

 ところで、私がこの前の時書きおとし、今ここに特筆したいのは、それから先きのことなのである。
 翌、日曜の午前のラウンドを終って、宮本と戸田は僅少の差でせり合っていた。だから午後のラウンドは宮本も必死だった。そして最後のハーフ・ラウンドにも死力をつくしたことはいうまでもあるまい。ところで、私はその時もまた、この最後のハーフ・ラウンドを見た。そして、そのハーフ・ラウンドでも宮本は昨日と同じくらい素晴らしいゴルフをしたのである……

 が、スコアはなんと昨日とは五ストローク以上もちがって三七か三八かかり、そのラウンドは七四となって、危うく戸田に一位を譲るところだった。そして、私がゴルフのスコアというものは、人間だけの力でできるものでないと悟ったのは、実にこの時だったのである。

 長くなりすぎるといけないから、ただ一つだけ例を挙げよう。それは、ドライブ・エンド・ピッチの十七番ホールである。グリーンは砲台のように高く、真ん中の方がいくらかくぼんでおり、周囲は完全にバンカーに取り巻かれている。宮本は昨日と同じように素晴らしいドライバーを飛ばし、昨日と同じように素晴らしい七番アイアンのセカンド・ショットを打った。

 ボールは昨日と同じように飛び、殆んど全く同じところ ーグリーンの左のエッジのところへ落ちた。ところが、ただ一尺の差で、昨日のボールは内側に転ろがってピンの傍にゆき、今日のボールは左に転ろがってバンカーの中に落ちたのである。

 七番アイアンのショットといえば、少なくとも一三〇はあるだろう。一三〇ヤードから打った球の一尺の相異というものが、人間の力でどうすることができようか。それは、ただ神の力をまつよりないのではあるまいか。
 かくて私は、ゴルフのスコアは神と人との合作であると力説したかったのであるー
ーところで「人と神との合作」では、私は肝心要めのこの結論を書き落としてしまったというわけだったのである。


 キラリと光った金の一番

 このトーナメントは、結局ニストローク戸田をおさえて、二八五で宮本の勝利となったが、その戸田が、たしか第一日目の十八番ホールで打ったセカンド・ショットは、私が今までに見たアイアン・ショットの中の最大なものだから、それをここにつけ加えておこう。

 ホールはたしか四八五ヤード、ティから二〇〇ヤードほどのところで、フェアウエイはそのド真ん中につくられた人工の大きなすりばち山でたち切られている。
 われわれが打てば、ボールはその山のこちら側の裾に止まり、第二打でその山を越え、一〇〇ヤードほどの第三打を打つということになるのだが、戸田のティ・ショットは、もちろんその山の肩のところを抜いて、先きの裾野に飛んでいた。しかし、残りはまだ二二〇、三〇は十分にあったろう。もしかすると、もう少しあったかも知れない。

 グリーンの周りは、いたずらに距離だけ長くて、ボワーツと大きな口をあけている、近頃のスリー・オン・ホールとはちがって、ものすごいバンカー(グリーンの手前などは七、八〇ヤードのところから二重にバンカーがあったように憶えている)でとりかこまれており、しかもその日の旗の位置は、そのバンカーを越えていくらもない、こちらの端に立てられていた。

 どうするか、と思っていると、ボールの傍まで歩いていった戸田は、なんのちゆうちょもなくバッグからクラブを抜いた。そのクラブがキラリと夕陽に光ったのを私は今でもよく憶えている。
 アイアンか!
 驚いている暇もなく、そのクラブはー振された。ボールは低く飛んで、あらゆるバンカーを見事に越して、旗のすぐ傍に落ち、そして二〇〇ヤードの北方から見ていたところでは、ものの一間とも動かずして、その場に止まったのであるー 後で聞けば、それは実にナンバー・ワン・アイアンだったそうで、私は驚きを二倍にしたのだったがー
 ところで、その一クラブ・レングスのパットを入れれば、彼はその四年前かに宮本の作った朝霞のコース・レコード七〇を破ることができたわけだったが、あのパットの名人がそれを外してイーグルを逃がし、コース・レコードまで逃がしてしまったのであった。ゴルフとはそういうものなのである。

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